プロローグ
レモネードのさやかな酸味が、舌や胸やに沁みわたる、昨今。綺羅の初夏。
白昼のイベリン領を、ウインクルムたちは散策する。
これといって目的のない、若しくは、目的なきことそのものを目的とする、そぞろ歩き。右にしっぽの長い猫が寝そべっているから、左の信号がたった今青に変わったから、お天道様に燦々と背中を押されたから――気の向くまま、足の向くままに、道を辿る。
甕星香々屋姫の恩恵に浴した花々と楽曲は、しごく月並みな道草にも、新鮮な絵画のような瑞々しい感動をあたえた。
何処かの店舗で使われているのであろう、軽妙洒脱なストリングスが道の端まで、あふれくる。何気なくそれに耳を澄ましてやれば、
「あ、」
と、こぼれる、短い感嘆詞。
「あ、掃除したい」
別に掃除でなくたっていいのだ。強いていうなら、掃除、が手っ取り早いというだけで。
無茶苦茶なぐらいなにかを綺麗にしてやりたい、そんな二律背反めいた衝動だった。
埃という埃、汚れという汚れを、一掃したい。ずっと手を付けていなかったあの場所を、思い切って整頓したい。いつも見逃していたあれを、力一杯磨きたてて、深々した充足を得たい。
おそらくは、これも姫の授けもうた祝福の一環だろう。だから、飲み下せない程度の機微ではない。しかし、もしも、これを千載一遇の好機と捉えるならば――…。
あなたは、好きにすればよい。
例えば、すぐ傍らの雑貨屋にはいろいろな小道具が揃っている。そこで、掃除道具一式を揃えてもいい。
今すぐイベリンを辞し、自室に駈け込んでもよい。ちょうどよいアシスタントがいたとばかり、隣のパートナーを掃除に付き合わせるのも一案だ。
それとも、清掃の最中に、何かを探り当ててしまうかもしれない、しまいっぱなしの蔵書から淺せた押し花を拾うが如く。在りし日のキーワードだったり、振り捨てられなかった負の遺産を、再びその手にするときが来たのかもしれない。
無事に欲求を完結させてもよい。オーガ退治とは異なる種類のオーバーワークの完了を、パートナーと互いにねぎらい、ちょいと一杯かたむけるのもよい。
全部なかったことにして、イベリンの散策を続けたっていいわけだが、その場合、往来の塵のひとつでも片付けたほうが、名残惜しさも少なくなるのではなかろうか。
そうそう、付記せねばならぬことがあった。なにかを綺麗にしなければならぬというなら、あなたの隣のその人でもいいわけだ。
さあ、これからどうしようか?
解説
イベリン領を二人で歩いていたら「なにかをとてつもなく綺麗にしたくなる」音楽に遭遇してしまいました。
・その後のことはお任せいたしますので、御自由にどうぞ。
・プロローグにも書いてますが、ある程度、曲解してくださってもいいです。
・場所のほうも、タブロスでもイベリン領でも、御自由に。それ以外だとちょっと困ってしまいますが。
・イベリン領を普通に散歩する場合は、ゴミ拾い等のボランティアをしながら、レモネードで口休めなんぞいかがでしょうか。
・プランにより、200jrから400jrほど消費します。
ゲームマスターより
季節はずれの大掃除、みたいな。
おちついて「こんなのあったらいいなBGM」を考えた結果でしたとさ。
……だってさー(自室の一角を見ないふりしながら)。
リザルトノベル
◆アクション・プラン
ハロルド(ディエゴ・ルナ・クィンテロ)
きれいにしたい…! ディエゴさん!突っ立ってないで今すぐ化粧品店に行きましょう。 美容部員さんにメイクのアドバイスもらったり、実際にメイクしてもらって気に入ったらお買い物したい! そうですね…私は派手なのは好みでないのでナチュラルな感じでお願いします。 あと美容部員さんにある方の為の化粧品も選んでもらいます 肌はオークル、髪は黒で目は黄色…いえ、金色の人なんですけど似合う化粧品有りますか? もちろんフルメイクで、アイシャドー・アイライン・マスカラ・アイブロウ・チークにリップにグロスに…うきうきしちゃいますね! あっ!? ディエゴさん待ってください! アイメイクがまだですよ!これからが本番なのに! |
向坂 咲裟(カルラス・エスクリヴァ)
おじさん…私、掃除がしたいわ! でも私の家は清潔にしてあるのよね…あんまり欲求を鎮められそうにないわ……カルさんのお家って確か、古いお屋敷よね…? 掃除道具を買ってカルさんのお家に行くわ! 汚れがワタシを待っているの! 掃除を始める前にカルさんの説明をしっかり聞くわ …つまり、掃除し甲斐があるって事ね! 黙々と掃除をするわね どんどん綺麗になって嬉しいわ 掃除している最中にふと古い…本?に目が留まりそう …見ても良いかしら…おじさんに訊くわね 掃除がひと段落したら本を読むわ …これ、アルバムね。この人は…昔のカルさんかしら…? …なるほど、お母さんがファンになるのも分かるわ うふふ、良いもの見たわ…! ●道具 掃除道具一式 |
アイリス・ケリー(ラルク・ラエビガータ)
自室の掃除をする為にタブロスの1LDKの自宅へ テーブルの上…? ああ、ホロスコープです。それはそのままでいいです 手伝って欲しいのは本棚の掃除なんです しっかり埃を落としてから本を並べ替えたいですし、本棚も移動させたいですし 大きいので、一人では難しくて 私の背よりも高い本棚なので、本を全部抜くだけでも一苦労 黙々と抜いていると、精霊から尋ねられる どこの言葉かは私も知らないんです 流星融合の時に飛ばされてきた本なんです その世界での神話…虹の女神の話らしいんですけど 姉が好きだった本なので、実家から持ってきただけですと苦笑い 精霊の視線に気付き、写真を見る …あれは、姉と私です 銀髪の方が私 姉は私の全てでしたから |
クロエ(リネル)
なぜだかすごーく掃除がしたい気分です リネルさんもそうなんですか?わあ、お揃いですねっ! なにを目的にイベリン領にやってきたのかはすっぽ抜けている 帰る時間も惜しいくらいに今すぐ掃除がしたいです イベリン領のごみ拾いをする事にしますね 塵一つ残しませんっ ふう、いい汗かきましたね… でも頑張った甲斐あってかとっても綺麗になった気がします わあ、ありがとうございます! 冷たくて美味しい… いい仕事をした後の一杯は格別ですよね でも掃除に集中しちゃって、折角ここまで来たのに全然見学できませんでしたね… …はっ、そうです! 私達掃除しにここに来たんじゃなかったですよね!? うう、折角一緒に出かけられる機会だったのに… |
●イベリン王家直轄領は、タブロス北方に存する
花と音楽を愛するその街にふさわしい、垢抜けたかまえの店に、ディエゴ・ルナ・クィンテロはたたずむ。気が付いたときには、もうそこにいたのだ。
「ディエゴさん! 突っ立ってないで、今すぐ化粧品店に行きましょう!」
と、ハロルドから勢い込んで告げられ、否も応も答えぬうちの出来事だった。一瞬、彼の神人がテレポート能力でも発揮したのかと錯覚したぐらいだ。
トランスだとかゴリラとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を……違う、そうじゃない。
気を取り直すディエゴ。男性である自分はともかく、女性たるハロルドも、めったに化粧品店など訪れる機会はない。興味深く店内を見やる。ハロルド、ちょこなんと椅子に落ち着き、店員とやりとりしていた。
「美容部員さんにメイクのアドバイスもらったり、実際にメイクしてもらって、気に入ったらお買い物したい!」
入店直前に宣言したとおりのことを、ハロルドは受けている。ほぅ、と、ディエゴの耳目はそちらに傾いた。ハロルドとてうらわかき女性だ。日頃ほとんど出入りしない場所であるが、何をすべきかは、正しく理解しているらしい。
「そうですね……。私は派手なのは好みでないので……」
ナチュラルなふうを申し入れるハロルド。すると、店員は商品のあらましを、彼女に向けて説き明かしてゆく。ハロルドはいちいち頷いたりなんらかの批評を返したりしながら、幾つかの商品を選り出した。ディエゴはそれを、ハロルドの前の鏡越しに観察する。
――……ナチュラルがよいのならば、べつに化粧などせずともよいのではないか。
口にしかかった言葉は、寸前で取りやめた。冷や水を浴びせるような言い草は、あまりに無粋だ。なによりもまず、こんなハロルドは初めて見る。まさか化粧に熱中する彼女を、間近で見られる日が来るとは。
これまでの苦労を顧みると、目頭が熱くなる想いだ。眼鏡をはずし、そこを押さえたくなる。保護者然とした心境をハロルドに知られれば、彼女に叱られそうな予覚がしたので、実際にそんなことはしなかったけれど。
だのに、だ。
彼自身は指一本動かしていないというのに、ディエゴの眼鏡がひょいと除けられる。犯人は、店員だった。ハロルドの相手をしている女性とは、また別の女性店員。
彼女は何かを訴えているようだ。しかし、ディエゴ、その殆どを聞き取れなかった。聞き付けない用語が多く、右から左へ流れてしまうのだ。
「肌はオークル、髪は黒で目は黄色……いえ、正確には金色なんですけど、そんな人に似合う化粧品ありますか?」
耳慣れたハロルドの声まで、おぼつかない。そのせいか、店員のふるまいも、上手いことはぐらかせなかった。彼女、練り歯磨きによく似たジェルをディエゴの頬に塗り立てられたかと思えば、次は、不思議な香料をふくむ粉末をはたきつける。
己にほどこされるそれらが、ハロルドを粉飾する小間物とそっくりなことを、ディエゴは悟る。同伴者サービスか、それとも、やはりハロルドの保護者だと思われているのだろうか。守るべきものがなにをされているのか、実地で体感しろ、そういうことだろうか。
店員の気遣いに敬意を表し、ディエゴはむしろ誇らしく、されるがままになる。
脂粉のエネルギーを足されて、ハロルドはいよいよ美しくなる。だから、まず間違いはないだろう。
「もちろんフルメイクで、アイシャドー・アイライン・マスカラ・アイブロウ・チークにリップにグロスに……うきうきしちゃいますね!」
ハロルドの文脈を理解できないことだけが、いささか口惜しくもあった。
フルメイク? フルマスクの一種だろうか。マラカス? チョーク? エンドウィザードの術法めいた名前からは、正体をまったく想像できない。1グロスは12ダースを意味するが、ここで数の単位が出てくる子細は?
「ディエゴさん。さあ、本番はこれからですよ!」
そしてディエゴ、すんでのところで現状を把握した。ハロルドのいう本番の意味を。
実地で体感、どころではない。ハロルドはハロルドが試す以上に本格的な美容を、ディエゴに受けさせようとしている。唇はより赤く、まつげはきらきらしく、彼を一本の徒花に変えようと目論んでいるのだ。
「冗談ではない!」
「あっ!? ディエゴさん待ってください! アイメイクがまだですよ、ヘアメイクの予約も取り付けたのに!」
聞こえない。たとい聞こえたとしても、理解できないし、するつもりもない。
というか、無理。目から火花が飛び出そうな勢いで、出口に頭をぶつけたので、ディエゴの理性はおしろいといっしょに砕け散った。彼に出来ることといえば、美しい鬼のようなハロルドから、必死の逃亡を試みるだけ。
アイメイクだとかヘアメイクとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗をたしかに味わったディエゴ。彼の逃亡劇が成功したか否かは、彼と彼女のみが、知る。
●化粧品店とハードウェアストアは、隣同士の関係だ
カルラス・エスクリヴァの住居は、タブロスの外れにある、アンティークな洋館だ。
向坂 咲裟はアメシストの瞳をくるくる光らせながら、洋館の全体を観察する。物珍しそうに、というよりは、とても真摯に、思慮深く、初めての食材を前にして最適な調理法を熟考する料理人のように。
「ここがおじさんの家なのね?」
「そうだ」
と、カルラス、こちらは観念の臍を固めた顔付き。
イベリン領にて例の楽曲を耳にした咲裟は、即座に、掃除がしたいと訴えた。
「奇遇だなお嬢さん。私も掃除がしたい気分だ」
なにげなく応じるカルラス、彼女の魂胆も知らないで。咲裟はつまらなそうに、肩を落とす。
「でも、ワタシの家は清潔にしてあるのよね。あんまり欲求を鎮められそうにないわ……」
そうだろう、と、カルラスは思う。咲裟の住む場所だ、銀器でも磨きたてるよう、どこもかしこもいつまでも真新しくしているのだろう。咲裟は、続ける。
「カルさんのお家って確か、古いお屋敷よね……?」
ここに来てようやく、カルラス、咲裟のほんとうの意図を悟る。彼の家に連れてけといいたいのだ。軽はずみな同意を悔やんだときには、遅かった。待ちきれなかった咲裟、すぐそこのハードウェアストアに、飛び込む。
「汚れがワタシを待っているの!」
少なくとも『カルロス』の家の汚れが『咲裟』を知るとは思えない。だが、カルロスの冷静な指摘は届かず、嬉々として、胡乱な清掃用具を買いそろえる咲裟。
カルラスは観念した。ほんの2,3時間ほど昔のはなしだ。
がたつく扉を押し開け、咲裟を迎え入れる。
「お嬢さん、掃除してほしいのは、一部屋だけだ。他の部屋には勝手に立ち入らないでほしい」
「どんな部屋なの?」
「今は、使っていなくてね。当座は不用の私物を置いてある」
この洋館においては、生活空間以外のほとんどが物置同然であったけれども。
カルラスと共に廊下を通りつつ、咲裟、邸内を見渡す。薄曇りの、いかめしい照明。時代がかった、重げな家具。真鍮のドアノブに張り付く緑青。古代の森を探検しているような気分だ。
「この部屋だ。私の注意は覚えているかね?」
「つまり、掃除し甲斐があるってことね!」
しばし遠くをさまようカルロスの両眼。気を持ち直して、戸を開く。
咲裟の期待に応えるかのように、その部屋は、よりいっそう凄慘だった。咲裟がショッピングバッグを下ろせば、亀の子たわしやドッグブラシやスコップがこぼれ、埃が舞い上がる。
「サキサカサカサは敵を逃さないわ! 塵も埃もひとつのこらず覚悟なさい!」
いったい彼女はカルラスの家をなんだと思って、それだけの品を用意立てたのだろう。カルロスの当然の疑問を余所に、咲裟は腕をまくる。
そして、二人は黙々と清掃にとりかかる。
物置小屋のような古屋のなかで、物置代わりに用いられていた部屋だ。水拭きを少々あてがうだけで、見違えて変質する。マスクで覆われた口許を、咲裟はにんまり吊り上がらせる。
「どんどん綺麗になって嬉しいわ」
けれど、あれは手強そうね。
咲裟、部屋の一角に目を着ける。床に直置きされた紙の束。厚さや大きさもまちまちの書付が、斜塔よろしく、いけぞんざいに積み上げられている。その頂上に一つだけ、分厚い書籍が載せられている様子は、まるで無理遣り蓋をかぶせたようだ。しかし、咲裟には、その蓋の部分が不思議と気に掛かる。
「おじさん、あの本に目を通してもいいかしら」
「一段落したら、かまわないが」
「もうほとんどおしまいよ」
「じゃあ、私は飲み物を用意してくるとしよう」
カルラスが部屋を出るのと、咲裟が本を持ち上げるのとは、ほぼ同じタイミングになった。咲裟は凝った模様の表紙をひらく。アルバムだ。カルラスによく似た、但し彼よりいくらか若い印象の、ディアボロのポートレートを中心に貼られている。
「これ……昔のカルさんかしら……?」
マスクを付けたままの独り言が、くぐもる。チェロケースを抱えた写真もあるから、きっとそうだろう。やけに澄ました正装の一枚は、もしかしてブロマイドかもしれない。咲裟は夢中で次の頁をつまぐる。
「……なるほど、お母さんがファンになるのも分かるわ」
良いもの見たわ。咲裟が最後の頁を閉じる頃、カルラスは飲食を携えて帰ってきた。
「サキサカのお嬢さんは、これだろう?」
銀の盆には、ティーカップとグラスがそれぞれひとつずつ。グラスのほうに、牛乳が並々と注がれている。咲裟は急いで、マスクを脱ぐ。思いのほか明るい彼女の口許をいぶかしみながら、カルラスはグラスをさしだす。
「まあ……なんだ。助かったぞ、お嬢さん」
咲裟の顔がいよいよ明るくなる。牛乳は、やはり素晴らしい。今日も、いいことをもたらしてくれた、しかも、まだ牛乳に口を付けてすらいないというのに。
「ありがとう、カルさん。そういえば、賞味期限切れの牛乳は、床掃除に使えるそうよ。あとで試してもいいかしら?」
「……これは、安全な牛乳だ。いいから、今は休みなさい」
●2つの店が営業する通りに、たまたま差し掛かった
夏の嵐のような衝動だった。ふわりと一滴、胸に落ちたかとおもえば、頭の先から踵の裏までたちまち、それ一色に塗りこめられる。
クロエ、散策中のその足を止め、傍らのリネルへ向き直る。ひとつひとつの仕種が、コンパスを回したように、すがすがしい。
「すごーく掃除がしたい気分です」
拳をふたつ作って、主張する。
「帰る時間も惜しいくらいに、今すぐ掃除がしたいです」
クロエとリネル、二人は足に任せてイベリン領をめぐっていた。目当ては……いや、野暮はよそう。ウィンクルムが、そこに、いる。それだけで十分ではないか。
真正面から見上げられて、ああ、うん、と、クロエは言葉少なに反応する。薄弱な相槌を、クロエは了解と受け取った。
「リネルさんもそうなんですか? お揃いですねっ!」
期待と希望に満ちて、あでやかに笑みかける。こうなるともう、リネルとしては否定しがたい。実際、彼のなかにも同じ気持ちがあった。儲けにならないことはしたくないのに、クロエからの誘いが、酷く魅力的におもえる。溺れる漂流者には一本のわらしべさえ頼もしく感じられる、それと同様の理屈かもしれない。
クロエ、ぺしゃんとその場にうずくまる。
「イベリン領のごみ拾いをすることにしますねっ」
言うがはやく、実行にうつす。大きいのも小さいのも分け隔てなく、せっせと集める。好奇心旺盛な小犬のようだ。宝物のためならば、繁茂する草むらの奥深くまで、ひたすら邁進するだろう。リネルのしゃがむそこは、草むらでなく、彼等以外の人々が結構な数行き交う往来であったけれど。
半径1メートル以内の不純物を、ことごとく拾い尽くしたクロエ。しゃがんだままその場で体を巻き、出来栄えを確認した。がんばった甲斐あっていい調子だ、立ち詰めのリネルを除いては。
立ち上がりもせずに、クロエはリネルを振り仰ぐ。唖然としながらもなお無表情の精霊を照り返す、黄金の虹彩。
「リネルさん?」
「……ああ、それがいい」
のっそり腰を落として、リネルはクロエの仕事に倣う。人目が気にならないでもなかったが、まあ、いいか、と、くしゃくしゃの紙くずをつまむ。似たような思いの通りすがりは、どうやら少なくないようであるし、だいいちリネルがどれだけ恥じらおうと、彼の表情筋にはなんの影響もなかったので。
往来を上りつつごみを収集してゆけば、そろそろ一休み入れてもいいのではないかと思う頃、折りよく、街路樹に隣り合って長椅子が見えてきた。
「リネルさん、私ごみをまとめてきます」
「分かった。俺はあすこで待ってる」
スタンドでレモネードを2本仕入れてから、リネルはベンチに腰掛ける。我ながらいい仕事をした、と、愉快な充実感でいっぱいだ。クロエは、すぐさま戻ってくる。
「ほら」
レモネードの片割れを手渡すと、蕾が綻ぶように、ぱっと笑むクロエ。
「わあ、ありがとうございます!」
クロエは彼の隣を位置どる。喉を潤すときは、誰もが無言だ。甘酸っぱい果汁が、渇いた身体の節々まで沁みとおる。冷たくて、美味しい。クロエの笑みが完熟する。
「いい仕事をしたあとの一杯は格別ですよねっ」
「それ、すごく親父くさい」
「そうですか?」
「でも、俺もそう思う」
リネルのさりげない軽口は、しかし、クロエに酷く真剣な憂い顔をつくらせた。
「私、そんなに親父っぽいですか? リネルさんよりずっと年上の、おじさんになっちゃいますか?」
「いや、そっちじゃなくって」
ああそうだ、クロエは洒落を洒落ととれない性格だった。だが、リネルは発言を撤回しない。クロエの勘違いを訂正するのは、ごみ拾いよりずっと難儀な大仕事になるだろう。それに、逐一表情を変えるクロエは、傍から見ても見飽きない。大理石の彫像のように鉄面皮の自分とは、大違いだ。
リネルは喉を鳴らしてレモネードをあおる。クロエはいまだ実直に考えあぐねている。
「うーん。でも、完全なおじさんになるまえには、イベリン領をちゃんと回りたいです。今日はここまで来たのに、全然見学できませんでしたし……」
再々度、クロエの表情が変わる。絡繰り人形めいて、ぱたぱたと。
「そうです! 私達掃除しにここに来たんじゃなかったですよね!?」
「え、今更か?」
「だ、だって、うっかりしてたんです。うう、折角一緒に出かけられる機会だったのに……」
雨の日に放り出された仔猫のように、クロエがしゅんとうなだれる。リネルは心のうちで感心した。よくもまあ、これだけの短時間で、幾通りもの表情をつくれるものだ。しかし、今の案じ顔は、長いこと見ていたいものでもない。
「まあ、またいつか来よう。イベリン領は逃げやしない、そのうち機会は訪れるだろ」
何気なしに執り成せば、途端に、リネルは瑞々しい笑顔を作る。長雨の挙げ句、晴れを見いだした仔猫のよう、体全部を使って心の全部を輝かせる。
ああ、こいつはやっぱりおもしろいな。リネルはまた一口、レモネードを飲み込んだ。
●その通りは、タブロスの彼女の家に続いている
改めて掃除せねばならぬようには、みえない。
アイリス・ケリーが私宅とするタブロスの1LDKを訪れて、ラルク・ラエビガータ、先ずそんなふうな所感をいだいた。彼にとっては初めての空間だから、過去と比べてどうこうはいえない。が、辛うじて生活感はみられる。例えば、テーブルの上になおざりにされたままの、不思議な記号の打ち出された円盤。
ラルクの視線に気付いたアイリス、
「ああ、ホロスコープです。それは、そのままでいいです」
一言添える。物はあるが、乱雑なかんじはしない室内を、泳ぐようについと動く。
そのときラルク、ごくおちついて女性の私室を分析する自分に、気が付いた。感心や興味よりも精察を優先がちなのは拭いきれない性分だ、と、自分自身をも分析する。
いっそ無邪気を装ってはしゃいでやろうか。そんなこともかんがえるが、相手はアイリスだ、よけいな気配りはかえって厄介だろう。
ラルクが心置きなくアイリスのあとに付けば、アイリス、彼女よりずっと背の高い本棚の前に立った。
「手伝って欲しいのは、本棚の掃除なんです」
「へいへい。で、具体的にはどうすればいい?」
「棚から本を抜いてください。しっかり埃を落としてから、本を並べ替えたいので」
ラルク、本棚を仰ぐ。縦にも横にもなかなかのボリュームだ。並び替えるだけでなく棚そのものも移動させたい、とのことで、半日がかりの力仕事を覚悟する。
それから二人、粛粛と、書巻を降ろすだけの用事に撤した。自分が呼ばれたからにはそういうことであろう、と、ラルクはいっとう高所から本を取る。アイリス、腰より低めのところから本を引く。
話し合って分担を決めたわけではない。ただ、なんとはなし、そうなった。
二人ともに沈黙が苦にならない気質だったこともあり、作業のあいだ、積極的な会話は生まれなかった。まれに言葉があっても「それ」やら「こっち」やら、単発の指示語程度で終わった。
おもむろに寂びを佩く時間。何かを待つことに似ていなくもない、心地よい緊迫。気遣い不要の間柄でのみ生じる、無言の安堵。親しい友のように、静寂は優しい。愛も罪も告げずとも、全てをありのままに受けとめる。
アイリスの蔵書は、多岐にわたった。小説、卜占、天文学、その他諸々。中に、いっぷう変わった手触りの一冊があった。ラルクは表紙を眺める。……読めない。未知の言語だ。
ラルク、姿勢を正して本を開く。表紙のものとよく似た符丁が、何列・何行にも及んで綴られている。挿絵らしき図版以外は、頁を繰っても繰っても、同じ。雲を掴むような感覚をおぼえる。
「なあ、これはどこの言葉なんだ?」
ラルクが本をひらつかせながら尋ねると、アイリスはゆるりと振り向いた。
「分かりません。どこの言葉かは私も知らないんです」
「どういう意味だ」
「流星融合のときに飛ばされてきた本なんです。その世界での神話……虹の女神の話らしいんですけど」
「らしいって……読めないのか?」
「姉が好きだった本なので、実家から持ってきただけです」
冷ややかな苦笑いを残しつつ、アイリスは新たに本を抜き出す。この話は此処までだ、という意思表示だろうか。
これが虹の女神のテキストというのなら、先ほどの雲を掴むような感覚は、あながち間違いではないのかもしれない。そんな益体もつかぬ空想に気を散らしながら、ラルクもまた作業を再開する。しかしながら、散じた色気のひとつは、思いもかけぬものをとらえた。
巡らせた視線の先が、先ほどのホロスコープに架かる。その側に、ごくシンプルな写真立てがあった。二人の少女が、木枠の中から、値踏みするようにこちらを見据えている。
一人は、アイリスにとてもよく似通っていた。第一印象の正体は、少女の髪と瞳が理由である。ラルクに近しい神人と同じ色合いだったのだ。
別の一人は、今のアイリスよりも幼い。銀色の髪と赤い瞳。
ラルクは一度、強くまばたきした。己のカーマインの瞳を連想する――俺の目は『彼女』に似ているだろうか。無意識の底から泡のように浮かびあがる、とりとめのない所見。
「……あれは、姉と私です。銀髪のほうが私」
だが、ラルクの空虚は、そこまでだった。木枯らしのようなアイリスの声音が、ふたたび静閑を打ち払ったからだ。
「姉は私のすべてでしたから」
唯一の事情。それ以上も以下も必要ない、と、口を噤む。くだくだしい言い訳を足して、いったい今更なんになる?
「……ああ、そうか」
ラルクの返答も長くはならない。心から口にしたかった台詞ではなかったけれど、室内の結晶した空気が、多くを彼に許さなかった。
見た目まで姉貴の真似ってわけか。思い付きの言葉が浮上しないよう、自制の重りを繋ぎ、無意識の奥底へ沈める。
ぬかるむ時間。予定より一時間ほど遅れて、作業は完了した。
依頼結果:成功
MVP:
エピソード情報 |
|
---|---|
マスター | 紺一詠 |
エピソードの種類 | ハピネスエピソード |
男性用or女性用 | 女性のみ |
エピソードジャンル | ハートフル |
エピソードタイプ | ショート |
エピソードモード | ノーマル |
シンパシー | 使用不可 |
難易度 | 簡単 |
参加費 | 1,000ハートコイン |
参加人数 | 4 / 2 ~ 4 |
報酬 | なし |
リリース日 | 06月08日 |
出発日 | 06月14日 00:00 |
予定納品日 | 06月24日 |
参加者
会議室
-
2015/06/13-23:17
向坂 咲裟よ。
お掃除したくなるなんて不思議ね…腕が鳴るわ。
プランは提出しているわ。
皆、素敵な時間になると良いわね。 -
2015/06/13-23:01
-
2015/06/13-18:27
初めまして。
クロエとパートナーのリネルさんです。
よろしくお願いいしますね。
お掃除、頑張ってきますっ! -
2015/06/11-22:19
アイリス・ケリーと、パートナーのラルクと申します。
クロエさん達は初めまして。ハロルドさん達はお久しぶりです。
現地でお会いすることはないでしょうが、よろしくお願いいたします。
折角の機会ですから、しっかり掃除したいと思います。 -
2015/06/11-17:07