プロローグ
「え?」
勤務していた企業の経営状態が、怒濤の急落を見せたのが先々月。
関連会社に転籍出向、という名の非情なるリストラをあなたが喰らったのが先月。
しかしその関連会社も、積み木の城に赤ちゃんがパンチしたときのように倒壊したのが今月……というか、今日だ。
かくして、晴れてあなたは仕事を失った。失業したのだ。
「冗談、よね?」
残念! 冗談ではない!!
ペラッペラの整理解雇通知を手にしたあなたは、勤め先の残骸に立ち尽くしている。
用意周到なのか世間のサイクルが高速なのか、もうオフィス跡はどんどん片付けられつつあった。目の前では大名行列のように、債権回収業者がせっせと段ボール箱を運び出しているではないか。箱に貼られた『差押え』の赤紙がまぶしい。
失業しようがA.R.O.A.の依頼はある。オーガや悪のマントゥール教団を追って東へ西へ、それさえ頑張ればたつきを立てる道はあるはずだ。多分。
といってもこのところ世の中は平和になりつつあり、それにともないA.R.O.A.業務は減少傾向にあった。
世の中が平和になることは喜ばしいことだ。とても。
しかし、おかげで専業とするには、ウィンクルムの業務は不安定すぎるようになってしまったのである!
さらば! 月給生活!
去ってゆく! 多忙なる日々!
スケジュール表は真っ白だ。つぎの収入もさしあたって見通しはない。
だったら……だったらもう……。
「ニートになるしかないじゃないか!」
あなたは書類鞄をゴミ箱に投げ込み、スーツの上着もかなぐり捨てて走り出した。
「自由だ! あたしは自由だ!」
きらきら、宝石のように嬉し涙が輝く。
ジャンクフードばりばり食べて、今夜はうんと夜更かししよう。明日は昼過ぎに起きて、丸一日だらだらとゲームをして過ごそう。
身なりなんて知ったこっちゃない! 仕事がないんだから! メイク落とし? お風呂? いんだよ、細けえ事は!!
なあに失業保険があるさ。節約すれば一年くらいは遊んで暮らせるだろう。
職安に通って再就職? それとも学校に戻って学位? フリーターにジョブチェンジ? そんな未来のことなんかわからない。それよりはこの瞬間を楽しもうじゃないか!
夢の高等遊民、天下無敵のニート生活が今、始まる!
「……って、待てーい!」
ぐいと襟首をつかまれて、亞音速で宇宙(そら)を駆けていたあなたは我に返った。
なんだこの狼藉者はと見てみれば、他でもないあなたの精霊だ。
「ニュースを見てすっ飛んできた。予想通り自暴自棄になってるようだな」
彼はため息をついている。
「なによ! 失業者になんのご用!?」
「そうつっかかるなよ。オレからひとつ提案があるんだが……転職先の」
「転職先?」
コホン、と空咳して彼は言った。
「その……主婦、とか……。いや、わかってる、あんたがキャリア志向なのは。だから将来は共働きとしてでもだな、一時的に……」
「えー? ニートがいいー」
「おいっっ!!」
オレ今すごい勇気ふりしぼったんだからなー! という彼の声が残響音とともにフェードアウトしていき、あなたは目が覚めた。
「……なんだ夢か」
スマホのアラームよりいくらか早く目が覚めたらしい。でも、そろそろベッドから出て着替えなくては。
それにしても、妙にリアリティのある夢だった。夢で聞いた彼の声は、まだ脳裏にこびりついている。
――その……主婦、とか……。
もそもそと掛け布団を畳みながら、あなたは「あっ」と小さく声を漏らした。
ようやくその意味が理解できたのだ。
このときあなたの頬はいくらか赤い……かもしれない。
◆◆◆
……と、いうのはあくまで一例だ。
今回は夢! ドリームである。
勤め先が消滅したり、退学になったり、実家が破産したり勘当になったりして、あなたあるいは彼のどちらかが、それまでの生活基盤を失ったとしよう。
そんなとき、あなたたちはどうするだろう。
悲嘆に暮れるもよし楽天的にニートするもよし、一念発起して新商売を始めるもよし、いっそのこと開拓団に志願して新たなアドベンチャーに乗り出すもよし!
すべてを失ったところで拾った小さなチャンスが大きく化ける、なんていう奇跡的展開も夢なのでありとしたい。
盛り上がったところで目が覚めるという正統派オチが中心となるだろう。しかし『夢だと思ったら正夢で、本当に転職してました』といったダイナミックな展開も、よほど無茶な規模でなければ通させていただこう。
経済的ピンチにおちいったときこそ、その人の素質がものを言うといわれている。突如訪れた逆境に、あなたと彼はどんな反応を示すだろうか。
さあ、いささかショッキングな開幕となる夢、そのストーリーを語ろう。
解説
夢オチです、と最初に書いてしまいます。
些細な理由で放校になったり解雇されたり、富豪のはずが一文無しになってしまったりしたあなた(もしくは彼)は、サバイバルの荒野へと投げ出されました!
そんな状況下でのあなたと彼のお話を、リザルトノベルとして描かせていただきます。
逆境でも挫けない強さを見せるか、あるいは、挫けまくるけど希望の灯を見つけるか、それでもやっぱりマイペースか……キャラクターによってお話は変わってきそうですね。
夢ですのでダイナミックな失職具合もありです。たとえば、超高性能翻訳機が発明され通訳のあなたは職を失う、なんていうのもこのお話に限っては認めます。
もちろん失う仕事は『現実でついている仕事』でなくても大丈夫、『さる国の王子だったのだが、故国がクーデターにより消滅してしまった』という大規模な失業(?)も可能とさせていただきます。
ジャンルはコメディに設定しましたが、大マジのお話であっても頑張って対応いたします。
起きたあとは頭をしゃんとさせるためカフェインを取ったりしますので、現実に一律300ジェールを消費するものとします。ご了承下さい。
ゲームマスターより
お久しぶりです! マスターの桂木京介です。
最初に『夢オチ』と書いておりますが、たとえ夢であれ、日常が崩壊するような極端な状況だからこそひときわ輝くキャラクター性というものはあると思います。逆に、普段は頼りないけど窮地には強い、という人がいても面白いでしょう。
展開はできるだけ希望に添わせていただきますのでお気軽にどうぞです。
それでは、次はリザルトノベルでお目にかかりましょう。
桂木京介でした!
リザルトノベル
◆アクション・プラン
アリシエンテ(エスト)
エストが風邪を引いたですって?意外っ!ゆっくり休んで頂戴っ そしてエストは翌日朝起こしに来ず…様子を見に行ったら様子がおかしく… 風邪は治ったようだけれども、代わりに『暇を出されたものかと…』等と言っている… ……確かに、ウィンクルムでさえも精霊は死ねば代わりがいる 誰であっても、人は環境には適応する エストのいない人生でも私はきっと生きていく ──しかし、私がそのような愚行に走ると、夢の中であっても思われていたのは心外だわ! 『生存しているのと、生きているのは全く違うというのに!』 この……オーガを倒すくらいしか目的の無い私に、更に世界から色を奪おうとは、エストのくせに良い度胸ではないっ! そこに直りなさい! |
篠宮潤(ヒュリアス)
夢内:大学院生。講義外は教授の手伝い等バイト有、だった ●夢の中 「バイトクビ!?だけでなく、退学!?」 先日確かに遺跡から解析で預かって来た石板一つ、割ってしまったが 「え?自力で、割った石板と同価値、の、発掘物見つけてくれ、ば……帳消しに?」 教授より条件 藁にもすがり承諾 今や廃れた採掘場へ望みをかけて 精霊の小言がチクチク (あ、れ…特別な関係に、なったって思ったのは、夢……?) 発掘作業しながら そうかあっちが自意識過剰な夢だったんだ…と岩影でしょんぼり 〇現実へ がばっ (え!?どっちが夢!?) そう…院への試験、控えてて… 「良かったぁ…っ」 「その…僕、とヒューリって…えっと…?」 こっちはこっちで心臓に悪かった |
かのん(天藍)
天藍の夢の中 疲れた雰囲気の天藍が心配 大丈夫です、お仕事が見つかるまで私が頑張りますから! 困った時はお互い様じゃないです? 2人で暮らしているのですから、大変な事は半分こした方が良いでしょう? 良い事を思いついた様子で手を合わせて それなら2人で会社を作りませんか? 天藍、動物の関係詳しいですし、大工仕事も得意ですよね 鳥が自然に集まる庭とか、自然公園の植栽管理で鹿や野ねずみの食害の対策とか ツリーハウス付きのお庭も需要があると思います それに2人で一緒にお仕事できるのはきっと楽しいです 隣で眠る天藍がうなされてたので起こした 無職になった夢と聞いて、もしそうなっても大丈夫ですと もう、どうしてそんなに笑うんですか |
水田 茉莉花(八月一日 智)
ちょっと待ってまたこれ? 2回目なんて洒落になんないんですけど いつ見ても空っぽのフロアなんて慣れないし…嫌だ 最初の会社内保育園に勤めてた時は 出勤したらこんな有り様だった…多分一部の人だけ知ってたんだろうな アパート戻ったら火事で全焼してるし あの時ほづみさんが居なかったら、あたし路頭に迷ってた でも今は…ほづみさんも居ない…どうしよう… あ、ほづみさん、え、会社? は?へ?何、何がどうなってるのうそーっ! 飛行機怖い…船がいい…ふぁっ! もう移転先に着いたんですか?パスポートは… すごい…机が見渡せる…宣伝動画撮影できるブースも増えてる あれ?周りから見られるこのブースって え?今回の辞令ってこれ? が、頑張ります! |
桜倉 歌菜(月成 羽純)
とある国の姫 父王と母が亡くなり王位を継ぐという所で大臣のクーデターで国を追われ、護衛の騎士の羽純と逃げてきた ごめんね、羽純くん、巻き込んでしまって… 私ね、全然平気です! 羽純くんが居てくれるから… 二人きりだし昔みたいに呼んでもいいよね? 羽純くんも昔みたいに呼んでくれる? 姫なんて呼ばれると目立つし、ね? 羽純くん、あそこに屋根が見えるよ かなりボロボロだけど、誰も住んでないみたい やったー!これで雨風凌げるね♪ 羽純くんと二人での生活 お城の暮らしと全然違うけど…私、嬉しくて 羽純くんの近くに居られる 畑仕事だってなんだって、二人なら楽しくて 姫のままじゃ出来なかった事 今なら言っていいかな? …羽純くんが大好きです |
篠宮潤にとってこの部屋は、毎日のように通う場所、学舎(まなびや)であり仕事場であり、ときとして憩いの場所ともなる。いわば使い慣れた洗顔料のように、皮膚感覚でなじんだ空間だった。
資料室だ。教授室と続きになっている一室、潤のような大学院生が、講義資料の用意や論文発表のリハーサルをおこなう準備室としての性質ももつ。本棚を埋める書物の香り、壁を飾る古地図のセピア色、事典の上の埃ですらも、潤にとっては愛おしい。
ところがそのすべてが今このとき、潤に冷たい顔を向けていた。見知らぬ場所に足を踏み入れてしまった、そんな錯覚にとらわれる。
晴天の霹靂だった。
「バイトクビ!? だけでなく、退学!?」
あまりのことに潤は、おのれの耳が信じられない。
普段は温厚な教授が、石像になったように重々しくうなずいた。
思い当たるところがあるだろう、と教授は言う。
「もしかして……石版、の……?」
恐る恐る問いかけた。心持ち、猫背になってしまうのはいたしかたないところだ。
先日のことだ。遺跡から発掘された石板ひとつを、潤は不注意で割ってしまったのだ。解析のため預かったもので、文字数こそ少ないが未解読の文字が刻んであった。そのとき恐縮する潤に教授は、それほど重要な資料ではないから、とむしろ慰めてくれたくらいだった。
それなのに、今になって――。
つづく教授の言葉を聞いて潤は絶句した。
ありふれたものに見えたこの石版は、未発見の古代文明にかかわるものと判明したというのだ。その価値は、ほとんど天文学的数値に達するものらしい。
「でも、だからといって、いきなり、出て行け、だなんて……」
つっかえつっかえ潤は言う。
胸が苦しい。
史学科で大学院に合格し、興味深い研究に没頭してきた日々、教授の手伝いというアルバイトを得て、充実していた生活が唐突に無になったこと、それ自体もショックではあったが、超がつくほど重大な発見に立ち会うことができたというのに、もうあの石版解析に関わることができない、という冷酷な事実こそが潤を打ちのめした。
目の前で扉を閉められた気分だ。扉の向こうには、歴史学の広大で肥沃な新天地がひろがっているというのに……!
挽回チャンスを、と潤は懇願するように告げていた。
地獄にあっても一条の蜘蛛糸は垂れてくるものだ。
「え? 自力で、割った石板と同価値、の、発掘物見つけてくれ、ば……帳消しに?」
どんなにか細い希望であろうと、すがるしかない。
「……概要は、理解した」
ヒュリアスは腕組みを解いた。ようやく潤が事情を打ち明けたのだ。
話を聞いてもヒュリアスは、悲しむでもなければ怒るでもない。たやすく同情的になるわけでもなかった。
ただ、ため息をついたに過ぎない。
「数日は戻らない、などと言って飛び出したのだから驚いた」
「驚いた……?」
言葉とはうらはらにヒュリアスは、落ち着き払っているように潤には見えた。
「それに、あきれたな」
「石版を、僕が、割ってしまった、から……?」
「違う。そんな軽装で、しかも単身で例の遺跡に行こうとしたことに対して、あきれたと言ったのだ」
まったく、とつぶやいてヒュリアスは歩き出した。慌てて潤は従う。最初は、走る潤をヒュリアスが追うという構図だったのが今は逆だ。
「石版が見つかった『ブラック・ムーン』とかいう採掘場は、廃坑になって久しいのだろう?」
「うん……オーガがねぐらにしていたのを退治に行ったウィンクルムたちが、偶然、あの石版を、見つけて」
「そこだ」
「えっ?」
「まだ危険があるとは思えないのかね。採掘場は広いのだろう。残党が潜んでいる可能性がある。そんな場所に単独で向かうなど、無謀を通り越して自殺願望があるとしか思えない」
「ご、ごめん、なさい」
「しかも、ろくな装備もなしに」
うう、と潤は言葉に窮してしまった。ヒュリアスの言葉が胸にチクチクと突き刺さる。
「で、でも、僕ひとりの、責任、なのだし……」
「当然だ」
風が出てきた。ヒュリアスは手で、首に垂れた髪を背後に流した。長い髪は、水色した光の川のようになびく。
「ウル個人の責任作業に手を貸すつもりは無い」
「う、うん……わかってる」
「分かっているなら良い」
彼は腰の得物を確かめた。
「だが俺にも責任がある。ウルを護るという、精霊としての責任がな」
そう告げるとヒュリアスは口を閉ざし、狼を思わせる鋭い眼で黒い岩山を睥睨した。
ブラック・ムーン鉱山、その採掘場についたのだった。
カンテラに火を灯す。とうに廃れた採掘場で、潤は額に汗して調査をはじめた。
空気は埃っぽくカビ臭い上に、細かい粉塵でも散っているのか目がチクチクと痛む。
黒っぽい岩肌に土ということもあって、はめていた軍手はたちまち真っ黒となった。
それでも安心して作業に没頭できるのは、ヒュリアスが背後に立ち、坑道の入口、そして奥部を見張っていてくれるからだった。といっても彼は宣言通り、作業はまったく手伝ってくれないのだが。
――冷たくは、ない。けど……。
潤はふと顔を上げ、こちらに背を向けているヒュリアスを見上げた。
さして優しくもない、よね――。
彼は今、何を思っているのだろうか。長身のその背中は、黙して語るところがなかった。
精霊とウィンクルム、パートナーシップといっても結局のところは業務契約だ。これくらいドライなのが普通なのかもしれない。
――あ、れ……?
でも、おかしいな、と潤は思った。
――特別な関係に、なったって思ったのは、夢……?
そんな記憶がどこかにある。
その記憶においてヒュリアスは、もっと潤に優しくて、もっと親身になってくれていた。もしこんな状況に陥ったとしたら、今ごろヒュリアスは潤以上に必死になって、護衛をこなしつつ採掘場を掘り返しまくっていたのではないか。
彼に姿を見られたくない、そんな気持ちになって、潤は作業を続けるふりをして岩陰に隠れていた。
そうか、と、冷え冷えとした岩肌にもたれて思う。
――こっちが現実なんだ。あっちが、自意識過剰な夢だったんだ……。
「ウル」
とヒュリアスの呼ぶ声を聞いた気がした。
がばっと跳ね起きる。
……えっ!?
潤は目覚めた。腕にしびれを感じる。
暗い坑道はどこへ行ったのだろう。見回せばそこは資料室、本棚も、壁の古地図も、よく馴染んだ光景だ。
「ウル、試験勉強に精を出すのは結構だが、根を詰めて疲れているのでは?」
言いながらヒュリアスが、潤を見おろしている。
潤がとっさに思ったのは、どっちが夢!? という言葉だった。
不安げにきょろきょろする潤を見てヒュリアスは口元を緩め、
「……悪い夢でも見たのかね」
と、潤の隣の椅子を引き腰を下ろした。
「夢、悪い、夢……そっか……」
潤はペチペチと両頬を叩いてみた。意識がはっきりしてくる。
うたた寝していたようだ。
院試を控えた潤はこの日、家だと集中できない、と師事する教授の資料室を借りて猛勉強していたのである。
ヒュリアスはなにも言わず付き合ってくれた。ずっと黙って、潤の邪魔をせぬよう静かに読書していたのだった。
窓の外はもう真っ暗だ。夕焼けの記憶はあるから、寝ていたのは十数分だったのではないか。
「良かったぁ……っ」
しびれる腕に構わず、潤は大きく伸びをした。石版も、坑道も、もちろんクビになったことも、全部全部夢だったのだ!
「その……僕、とヒューリって……えっと……?」
一抹の不安を残して潤が問いかけると、わかってる、というようにヒュリアスはうなずいた。
「俺の心は常に、ウルと共にある」
その言葉が、潤の心に情熱の赤い花を咲かせた。ヒュリアスは潤の大切なひと、かけがえのないひと、いつだって愛をくれる人だ。
音もなく立ち上がった彼は、予告もなく潤の耳元に唇を寄せた。
「さて、気分転換も必要だ。飲み物でも買ってくるかね」
そうして微笑むのだった。どことなく、いたずらっぽく。
「……!!」
そんな不意打ちは予想外、潤は耳まで赤くなる。
こっちはこっちで、心臓に悪かった。
●
平気だ、そう天藍は言ったものの、自分でも嘘を言っていると理解していた。
天藍はこれまで、レンジャー業務はフリーの状態で請け負っていた。ここでいうフリーとは、専従職員ではない、という意味である。
登録しておき、仕事が必要なときにはレンジャー組合に問い合わせる。そうして請け負った仕事を自分の裁量でこなすのだ。
そのうち、頼まなくても組合のほうが天藍に業務を依頼してくるようになった。仕事ぶりが評価されたのだろう、紹介される業務も、困難かつ高報酬のケースが増えていった。
組合から正式職員への勧誘は数限りなくあった。しかしその都度、天藍は断ってフリーの立場を継続した。
神人と契約となれば、どこで暮らすことになるかもわからない。それゆえフリーという状態は、フットワークが軽く動きやすいという意味で望ましいものだったからだ。
なのにこのところ天藍は、正職も悪くはないかと思うようになったのである。
かのんと結ばれ、もう独り身ではない。自警団の活動、ウィンクルムの任務とも、両立できるコツがつかめてきた。
そろそろ安定というものが、欲しくなったのかもしれない。
次にその手の話があればそのときは――そう心に決めていた天藍につきつけられたのは、むしろ正反対の話だった。
急に組合に呼び出された天藍は、刹那とはいえ頭の中が真っ白となった。
登録を解除する、それが組合からの通告だった。
――次に頼む仕事は無いときた。
なにが組合の不興を買ったのか、根本原因はなんなのか、それは一切あきらかにされなかった。
ただ一方的にレンジャー組合は天藍に追放処分を下したのである。そうして、銃剣でも突きつけるようにして彼を組合本部から放逐したのだった。
組合から絶縁状を叩きつけられたといえよう。いくら技量があっても、経歴があっても、天藍がこの界隈でレンジャー業を請け負うことは困難……いや、ほぼ不可能となった。
たちまち無一文になるわけではない。明日から路頭に迷うなどということもないだろう。
しかし、失職したことは間違いなく事実だ。
かのんにどう話したものか――夢遊病者のような足取りで自宅に向かいながら、天藍はひたすらそのことに頭を悩ませた。
落胆と不安、焦燥が顔に出ていたに違いない。帰宅した天藍の顔を見たとたん、かのんはたちまち表情を曇らせた。
「どうかしましたか? 疲れたご様子ですが……体調がすぐれないのですか?」
「平気だ」
隠し通せるものでもないだろう。かのんにうながされてはこらえきれず、天藍はうなだれながら顛末を語った。
かのんが涙を浮かべるのではないか、そう彼は危惧した。それこそ、一番見たくないものだった。
ところが彼女は明るくこう言ったのである。
「大丈夫です、お仕事が見つかるまで私が頑張りますから!」
「……いや、しかし」
「困った時はお互い様じゃないですか? ふたりで暮らしているのですから、大変なことは半分こしたほうがいいでしょう?」
「だけど……」
「『だけど』は無しにしましょうよ。心配しないで、天藍には私がいます」
腕を伸ばしてぐいと曲げ、力こぶを誇示するようなポーズをとってかのんは笑った。
「そうか……それは、頼もしいな」
天藍は、弱々しく微笑み返すことしかできない。
ふたりが暮らしているのは、かのんの両親が遺した家だ。そのうえ無職の身とあっては、まるでヒモじゃないか――と忸怩たる思いがあった。男の意地といっては古くさいかもしれない。それでも、自分がかのんの荷物になることだけは避けたかった。
そんな彼の意を知ってか知らずか、
「まずはお昼ご飯にしません? 食べて元気になることが先決です! ちょうどパスタが茹で上がったところなんですよ」
かのんは言い、天藍の背を押すようにして食卓まで運ぶのだった。
バジルソースのスパゲティを半分ほど平らげたところで、かのんは突然、ぱちんと両手を合わせた。
「そうだ!」
「……どうした?」
ゆで加減はアルデンテ、自家製のバジルは香ばしく、もちろん味も絶妙だったのだが肝心の食欲がなく、天藍の皿はかのんの半分も減っていない。
「それならふたりで会社を作りませんか?」
いいこと思いつきました! と言わんばかりに彼女の声は弾んでいる。
「会社……? 起業するということか」
「そうです!」
エンジンがかかってきたとでも言うかのように、フォークをくるくると回しながらかのんは言う。
「天藍は動物の関係詳しいですし、大工仕事も得意ですよね?」
「動物については、そういう職だったからな」
職という言葉を口にしたとき胸の奥に鈍い痛みがあった。もう『職業』ではない。『前職』なのだ。
「大工仕事については、半分以上趣味だ」
「いいんです! 好きこそものの上手なれ、ですよ!」
かのんの言う『会社』の業務とは、個人や公共サービスから仕事を請け、庭や自然公園の管理業を行うというものだった。
「言わば大規模なガーデニングです。私は仕事で色々なお宅で造園を行ってきましたけれど、建築や害獣対策までは手が回りませんでした。そうしたものはこれまで別の業者さんにお願いしていました。でも私たちが組めば、一括でできるようになります」
かのんにはビジョンがあるようだ。さらに言う。
「法人化すれば、これまで対象外だった公共事業にも関わることができるようになります。鳥が自然に集まる庭とか、自然公園の植栽管理で鹿や野ねずみの食害の対策とか、ツリーハウス付きのお庭も手がけられます。できることはたくさんあると思いませんか?」
アイデアがどんどん出てくるようだ。
「そんな方法もあるのか……たしかに、需要はあると思う」
決して単なる思いつきではないとわかって、天藍の顔にも血色が戻ってきた。
見積もり、施工、メンテナンス、それにアップデート、関与できる仕事はいくらでもあるはずだ。
「企業としては小規模だがその分、小回りがきくところも強みとなるだろう」
天藍が興味を示したので、かのんはますます嬉しそうに言ったのである。
「それに、ふたりで一緒にお仕事できるのはきっと楽しいです!」
そうだな、と返したとき天藍は身を乗り出していた。
仕事であり経営なのだ、楽しいだけではないと思う。
それでも、ふたりなら何とかなりそうな気はする。
かのんと自分のふたりなら……!
目を覚ましたかのんは、ベッドサイドの灯りに手を伸ばした。
時計を見ると朝にはまだほど遠いとわかる。隣では、目を閉じたまま天藍がうなり声を発していた。悪い夢でも見ているのだろうか、額にはうっすら汗まで浮いているではないか。
「天藍……? 天藍?」
不安になって彼の肩に手を乗せると、くぐもったうなり声は消えていった。
「落ち着いたようですね……」
その声に導かれたのだろうか。ごろりとひとつ寝返りを打ち、天藍はぼんやりとまぶたを開けたのである。
「……夢か」
安堵したように天藍は息を吐き出した。
「ずいぶんうなされていましたが……」
「そのようだな」
のそりと身を起こすと天藍は額を拭う。
「夢でよかった、心底そう思うよ。もっとも救いはあったが……」
「どんな夢だったか教えてもらっていいですか?」
「ああ。無職になった夢だ。どういうわけかわからないが、レンジャーの業界から追い出されてしまって」
それは大変でしたね、とかのんは微笑んで言った。
「もしそうなっても大丈夫です。お仕事が見つかるまで私が頑張りますから! だから心配しないで、天藍には私がいます」
天藍は一瞬目を見開き、顔をかのんに向けた。
聞き覚えのある言葉じゃないか。
ぷっと吹きだしてしまう。苦笑いしながらこう返すのである。
「そうか……それは、頼もしいな」
その末尾は、笑い声に紛れてしまう。いつしか彼の苦笑は、本当の笑いへと転化したのだった。
「もう、どうしてそんなに笑うんですか?」
「いや、すまん。悪気はないんだ」
自分がいかに彼女を信頼しているか、夢に教えてもらった気がした。
かのんのことが愛おしい。
愛おしくて、たまらない。
●
「ちょっと待ってまたこれ?」
肩にかけていたカバンがずるりと落ちて、ぺたっと床に落ちてしまった。
水田 茉莉花自身も同じだ。膝を折って座り込む。
「2回目なんて洒落になんないんですけど……」
そりゃないぜベイビー。まさかこの光景を、もう一度見ることになるなんて思ってもみなかった。
がらんどう、まさしくそれだ。
昨日オフィスがあった場所がすっかり空っぽ、もぬけの殻となっていたのである。
何度目にしようと空っぽのフロアなんて慣れないし……嫌だ。
思い返したくもない記憶が、地獄の底からよみがえってくる。
茉莉花最初の『もぬけの殻』体験は、最初の職場で発生した。
企業内の保育園、某社が誇る福利厚生施設が、ある朝会社ごと消滅した。朝、出勤したらこんな有り様だったのである。この企業がひた隠しにしていた脱税と粉飾決済が一気に露呈した結果だったのだが、それは経営陣の罪であって、保育士の茉莉花はもとより、園児たち母親たちにはなんの咎もないはずである。
だがどんな場合も、泣くのは責任の決定権もない末端の人間なのだった。茉莉花はたちまち失職し、園児たちは彼女の足元にすがって泣いた。といっても報道はされなかったので、この悲劇的光景は世間の注目を集めなかった。
――たぶんこの倒産、一部の人だけは知ってたんだろうな。前のときと同じで……。
震える膝に力をこめ、茉莉花は立ち上がろうとする。
それでも前回よりはマシなはずだ。なぜってあの日はさらなる追い打ち、不審火によるアパートの全焼が彼女を待ち受けていたのだから。ほうほうの体で帰路につき、家が消し炭になっていると知ったときの絶望度合いといったら!
――あのときほづみさんがいなかったら、あたし路頭に迷ってた……。
そうだ。あのときは、捨てる神あれば拾う神あり、八月一日 智が彼女を居候させてくれたのである。あの僥倖がなければ茉莉花は今ごろ、段ボールハウスで冬の足音を聞いていたことだろう。
駄目だ。膝に力が入らない。茉莉花は再び崩れ落ち、床に両手をついて突っ伏していた。
「でも今は……ほづみさんもいない……」
そう。理由は忘れたが、もう智は彼女のそばにいない。いなくなってしまったのである。そういうわけで、籠もるべき家も自動消滅したのだったと茉莉花は思い至った。
要するに、前より悲惨だ。
どうしよう――泣いちゃいそうではないか。
だが突然、このとき、
「うぉーい、出発すんぜー」
覚えのある声を茉莉花は聞いた。
「あ、ほづみさん……え、どうしたの?」
いつの間に現れたのか、顔を上げるとそこには、細身のスーツを着た智の姿があった。
一目でわかる高級スーツ、ネクタイも靴も腕時計も高そうだ。髪型はあいかわらずだが、むしろそれがあいまって『成功したヤングエグゼクティブ』感をかもしだしている。その立ち姿は力とエネルギーに満ちあふれており、後光が差して見えるほどに格好良かった。
「どうしたもこうしたもないだろ? 行く時間じゃないか」
「どこに……?」
「おいおい忘れたのか? おれの会社手伝う手はずになってたろ?」
とりあえず段ボールハウスは回避できそうな流れのようだ。
それでも茉莉花は狐につままれた気持ちで、体育座りの要領で床に腰を下ろした。
「会社って?」
「マジ忘れてるな……やれやれ、みずたまりはこれだから」
肩をすくめて智は言った。
「じゃあ改めて教えてやろう! おれ、サクセスしたんだ!」
「いつの間に!?」
「そんなんじゃ時代に取り残されるぜ! 男子三日会わざれば刮目して見よ、って言うだろ」
「難しい言葉知ってますねえ。感心感心」
「どこに感心してんだ。どうせならおれの現状に驚いてほしいもんだな!」
右人差し指を立て、その腕を天に振り上げて智は声を上げた。
「今のおれはIT長者! アプリ開発会社からカッ飛んでビッグになったんだぜいえーい!」
どさどさどさっ、どこから振ってきたのか、智の足元に経済誌が大量に散らばった。よく病院に置いてあるニュース誌やビジネス誌、株式情報誌はもちろん、ファッション誌もあればゴシップ誌まであるではないか。驚くのはそのいずれもが、智を表紙に選んでいることだった! スーツ姿でプレゼンを行う智、プールサイドでカクテルグラスを掲げる智、サングラスで休暇を楽しむ智、『本年の顔』に選ばれた智……!
「は? へ?」
茉莉花は両腕をひろげ、後方に倒れ込まないよう我が身を支えた。
「で、会社の場所はどちゃくそカネ持ちIT大国ドロバイってわけだ!!」
「何、何がどうなってるのうそーっ!」
「サァ向かうためのチャーター便はすぐそこに呼んである! ふたりだけで向かおうぜ!」
突き上げた手を下ろし智はパチンと指を鳴らす。するとたちまち四方の壁が外側に倒れ天井も消え、二人がいる場所は平原の飛行場へと変化した。
ぶわっと風が吹く。そして耳を聾す風音! 茉莉花は今度こそ後方に倒れ込んでしまった。
空から小型ジェット機が降下してくるのだ!
「飛行機怖い……船がいい……!」
「この期に及んでそんなこと言うか-っ!」
すると今度はふたりの立つ背景がぐるり、回り舞台のごとく一回転したのである。
「ふぁっ!」
気がつくとそこは、砂漠の中の黄金郷、超高層ビルが乱立する超巨大都市であった。
「もう移転先に着いたんですか? パスポートは……」
「細かいことは後だ後! あの一番高いビルの最上階、ぶちぬきペントハウスのオフィスが待ってる!」
という智の言葉が終わらぬうちに、ふたりは新品のオフィスに到着している。
「うわぁ……!」
茉莉花は立ちつくした。声がエコーする。
オフィスは野球くらいできそうな広さがあった。机も椅子もコンピューターも、すべてが新品かつ最新だ。
茉莉花の新たなキャリアがはじまろうとしている! なんという輝かしさ! なんとう幸福! なんという……!
「おーいまりか、まりか起きろって」
智に声をかけられ、狭苦しいシートで茉莉花は目覚めた。
軽トラックの助手席だ。変な姿勢でうたた寝していたせいで体の節々が痛い。
「……ま、こんなこったろうと思ってたけどね」
ふっと茉莉花は口元にシワを寄せた。
「で、移転先のIT大国ドロバイってここ?」
「なんだそりゃ? 移転先は海外じゃねぇよ」
「ハイハイ、わかってます!」
トラックを降りて歩き出す。
やや猫背になっている茉莉花を見て、智は頬をかいた。
――会社の引っ越し作業のとき、空っぽのフロア見て足震えてたからなぁ……出会った日でも思い出したか。
智と一緒に勤務している会社が引っ越すことになり、彼女はその荷物運びと一緒に移動させてもらったのである。
もちろん超高層ビルではない。四階建てのこぢんまりした社屋だ。築30年近い古さで壁の一部にはヒビが入っている。エレベーターがないという現実にも泣けるではないか。
といっても借りたわけではなく購入したものだという。つまり初の自社ビルとなるわけで、ビッグサクセスとまでは言えずとも、会社はそれなりに成功しているとはいえそうだ。
新社屋に足を踏み入れ、目にしたものに茉莉花は心を弾ませた。
「すごい……机が見渡せる……宣伝動画撮影できるブースも増えてる!」
と言ったところで、ガラスで区切られたスペースに彼女は気がつく。
「あれ? 周りから見られるこのブースって」
その一角はカーペット敷きだった。小さなトイレと水場も用意されている。
「おう、ここがまりかの担当、前に話してたプロジェクトな」
「前? ああ、なんかあたしには特別辞令が出るんだよね」
「家庭持ちの社員も増えたから、社内保育所作ったのよ。ってわけで保育士と現場の擦り合わせ係、頼むぜ!」
なるほど、茉莉花の頬に紅が差した。巡り巡って戻ってきたというわけだ。元の仕事に!
ぴしと両の踵をあわせ、茉莉花は仰々しく敬礼した。
「が、頑張ります!」
よし、やってみせようじゃないか!
茉莉花は思う。
――これぞ天職! どちゃくそカネ持ちIT大国より、こっちのほうがあたしの性に合ってる!
●
受け入れるのは、思いのほか簡単だった。
「私たち、A.R.O.Aを解雇されたの」
すでに覚悟していたのだろう。解雇、つまりクビを通告されたにもかかわらず、アリシエンテの口調に乱れはない。
続けて彼女は、水のように宣言したのだった。
「なので精霊のパートナーも不要になったということ。執事にはもっと有能な者を雇ったから、エスト、貴方には暇を出すことにしたわ」
さすがにこの瞬間ばかりは、エストも呼吸を忘れた。
といってもそれはわずか、一秒にも満たない時間にすぎなかった。
執事たるもの、いかな場面であれ冷静沈着たるべし――これぞエストが墨守する鉄の職業意識であり、矜持でもある。
それにエストは、彼女がこういった類の戯れを嫌っていることをよく知っている。
ゆえに彼は受け入れた。
「仰せのままに」
恭しく、深く、一礼する。思いのほか簡単だった。
「これまでお世話になりました。お健やかに……アリシエンテ様」
彼女の名に『様』をつけたのは、いつ以来になるだろう。
こうしてアリシエンテに背を向け、エストは屋敷を後にしたのである。永遠に。
受け入れるのは簡単だった。
しかし、このとき生まれた虚無感は、その後もずっと、エストにまとわりつづけた。
再就職先はすぐに決まった。
アリシエンテの家が紹介してくれた実業家のもとで、エストはふたたび執事の職を得た。
実業家は孤独でかたくなな老人で、しばしばエストに辛くあたり、ときそれは暴力に及んだが、エストはどんな仕打ちにも黙って従った。実際、辛いとも思わなかった。
当然だろう。アリシエンテに『様』をつけたあの瞬間に、彼の心は死んでいたのだから。死人には、どんな剣も痛みを与えることはできない。
それから数年。死の床についた実業家は悔恨の涙をこぼし、エストの手を取って何度も詫びた。そして老人は、自分の財産と事業をすべてエストに譲ると言い残して事切れた。
けれどもエストは涙を流さなかった。ありがたいとも思わなかった。財産にもまったく興味を示さず、すべて慈善事業に寄付してしまった。
ただ、故主の命令ゆえ事業だけ淡々と引継ぐと、またたくまにその規模を数倍にするほどの大成功を収めた。
されどその成功すら、エストのなかの虚無を埋めるものではなかった。
ある良く晴れた日、髪に白いものが混じり始めたエストは、高層ビルの窓から眼下に身を躍らせたのである。
偶然なのか故意なのか、それはちょうど、十数年前のあの日のことだった。
◆◆◆
鬼の霍乱、というべきなのか。
「風邪を引いたですって?」
アリシエンテは、まず耳を疑った。意外っ! と素直な感想が口をつく。
一日が始まって早々、「どうやら熱があるようで……」とエストが早退を申し入れてきたのだ。
実際、彼の顔は強い酒でもたしなんだかのように赤い。目には苦しげな色が浮かんでおり、呼吸も荒れて、立つのがやっとという様子だった。それでも立ち姿は凛として美しく、服装にしたって、ネクタイの結び目ひとつにすら乱れはない。「アリシエンテにうつしては……」と、自分から距離をおいて控える姿も甲斐甲斐しかった。
頑健なエストが早退を申し入れてくるなど、よほどのことであろう。もちろん申請は速やかに認めたうえ、
「ゆっくり休んで頂戴っ」
と告げてエストを帰すと、その日アリシエンテは、なんとなく落ち着かぬ一日を過ごした。
翌日もアリシエンテの『意外っ!』は続いた。エストが起こしに来なかったのである。
こうなっては、もうじっとしてはいられない。
「様子を見に行かないとね……」
胸に不安と心配と、けれどもいくばくかの温かな喜びも抱えながら、アリシエンテはエストの部屋を訪れたのだった。
ノックをしても返事がない。けれども鍵は開いていた。
「エスト、入るからね」
細く開けた扉から、猫のようにするりとアリシエンテは彼の寝室に身をすべりこませた。
エストはすぐに見つかった。ベッドに身を起こしている。
着替える間もなく寝床に倒れ込んだのだろう。ネクタイを解いたシャツ一枚というラフな服装だった。やつれた様子で、光沢のある黒髪も、その一部が頬に貼り付いる。とはいえ血色は復していた。
なのにエストの表情はうつろだ。
「私は……一体……?」
ぼんやりと、そんなことを呟いている。
「もしかして、目覚めたところだった?」
笑みを含んでアリシエンテが告げるも、エストの様子は変わらなかった。
いま気がついた様子で、エストは焦点のぶれた眼差しを彼女に向けたのである。
「アリシエンテ……様?」
自信のなさが語調に現れていた。
「様(さま)?」
なに言ってるの? そういうジョーク? アリシエンテは怪訝な顔をする。
「どうして、このようなところへ? 私とアリシエンテ様はもはや主従ではないというのに……」
「主従じゃない、ってなんの話よ? まだ熱あるの?」
「暇を出されたものかと……」
アリシエンテは頭に血が上るのを覚えていた。寝ぼけているにしても悪質すぎないか!?
つかつかとベッドに歩み寄ると、アリシエンテは両手を腰に当て、彼を真正面から見据えた。
「ちょっと! 誰が誰に暇を出したって!?」
ようやく事態が飲み込めたのか、エストは彼女から視線を外した。
そのまま、うつむき加減に告げたのである。ささやくように。
「……申し訳ありません。夢を、見ていました。アリシエンテさ……いえ、アリシエンテが、A.R.O.Aの職を失ったことを理由に『他の執事を雇った』と私に告げるという夢です」
そうしてエストは、言葉少なに夢の詳細を説明した。
アリシエンテは口を閉ざして聞いていた。しかしエストの語りが終わるを待って、
「エスト!」
乗馬鞭をふるうかのように声を上げた。
「はい」
「聞きなさい」
エストは黙って頷いた。
「……たしかに、あらゆるものは取り替えがきく。ウィンクルムでさえも、精霊は死ねば代わりがいる」
アリシエンテの声には怒気とともに、傷つけられた者の悲痛なトーンがあった。
「誰であっても、人は環境には適応する。エストのいない人生でも、私はきっと生きていく」
けれど、と告げてアリシエンテは大きく息を吸い込んだ。
「私がそのような愚行に走ると、夢の中であっても思われていたのは心外だわ!」
その言葉は刃であった。エストの胸を抉る冷たい刃物、けれどその切っ先は、アリシエンテ自身にも向けられているのだった。
「生存しているのと、生きているのはまったく違うというのに!」
雷に打たれたようにエストは身を強張らせていた。姿勢はやはりうつむいたままだ。アリシエンテを見ることができない。
「この……オーガを倒すくらいしか目的の無い私に、更に世界から色を奪おうとは、エストのくせに良い度胸じゃないっ!」
感情が頂点に達したのか、ここでアリシエンテの言葉は途切れたのである。
しばしの沈黙が、ふたりの間に流れた。
何秒、いや、何分経っただろうか、
「……私のほうを向きなさい」
やがて、おもむろにアリシエンテは告げた。
「向きなさい」
繰り返した。
黙って彼は従った。
頬のひとつでも張られるかと思いきや、エストは直後、やわらかな腕の感触に包まれたのだった。
「……もう、馬鹿な夢は見ないで。たとえ夢でも、惑わされないで」
アリシエンテはベッドに乗って、エストをぐいと抱きしめたのだ。
か細い腕ながら、アリシエンテが込めた力は、強い。
けれども凍えているかのように、音もなく小刻みに震えていた。
「アリシエンテ」
エストは最初、ためらいがちに、されどもいつしか迷いを振り切ったかのように、アリシエンテの背に腕を回した。
――彼女の中にあるのですね……『私の居場所』は……。
エストはようやく知った気がした。このときになって、はじめて。
アリシエンテは頭を、エストの胸にぐいと押しつけていた。そのまま押し倒せそうなほどの勢いで。
エストは目を閉じた。
アリシエンテの髪の香りがする。
夢には香りはない。これこそが現実なのだと、エストはあらためて認識していた。
●
夜半より疾走を続けた馬は、黒い肌を汗でしとどに濡らし、息も絶え絶えの様子であった。
駒を反転させるべく、月成 羽純は手綱を引く。馬は、白い息を煙のように吐き出して従った。
しばし耳を澄ませる。追っ手の声や蹄の音は聞こえない。朝靄に潜む者の気配もなかった。
羽純は軍靴の踵で鞍を軽く蹴った。それでも駆けようというのか、馬は耳を立てぶるっと震えたが、
「無理はいけない。まだ先は長いのだから」
と告げると、羽純は愛馬の首筋を優しく叩いたのだった。馬と、自身の心を鎮めるかのように。
重い鎧や盾は荷物になると、道々かなぐり捨ててきた。兜に手甲、脛当ても然り。ゆえに現在、羽純は途上で反乱軍より奪った軍服ひとつという軽装だったが、いざとなれば我が身を盾としてでも、守り抜きたい人とともにある。
するりと鞍より滑り降りると彼は、なお馬の背にある桜倉 歌菜に手をさしのべた。
「姫、ここまで来ればひとまずは安心です。少し休みましょう」
マントの合わせ目からのぞく、歌菜のまなざしは沈んでいた。
「ごめんね、羽純くん、巻き込んでしまって……」
そう言って細い手で彼の手を取る。
歌菜はさる王国の姫君、王位の第一継承者である。
いや、『であった』と書くべきだろう。すでに落魄(らくはく)の身の上なのだから。
父王と母が亡くなり、王冠を継ぐというところで大臣のクーデターが勃発したのだ。国を追われた彼女は身一つで、護衛の騎士――羽純とここまで逃げてきたのだった。
いまの歌菜は夜着の上に厚いマントを羽織っただけの格好、慌てて持ち出した靴は狩猟用の不格好なブーツだ。途中で落としたので王室のティアラもない。加えて血色も良好とはいえなかった。しかしそれでも彼女の貌(かお)には、王家の気高さが備わっている。
歌菜は、こうしてまだ生きていることを不思議に思う。幸運に恵まれた、とも。
決死行という言葉は大袈裟ではない。道中、刃の林を抜けるような危うい場面に何度も遭遇したからだ。だがそのたび羽純が剣を抜き、獅子奮迅の働きをみせて切り抜けてきたのである。
歌菜は騎士に眼を向けた。ここまで戦い続け、緊張し続けてきた羽純だ。疲労困憊の体であってもおかしくはない。なのに彼はそんな素振りを微塵も見せず、大きな木の根元に歌菜の座をしつらえてくれた。
「どうぞこちらへ。座り心地は最良とは言えますまいが……」
構わない、というように首を振ると、歌菜は草をならしただけの空間に腰を下ろした。ほっとする。慣れぬ馬上に長時間いた。しかもほとんど眠っていないのだ。まだ体が揺れているような気がしていた。
「……大丈夫ですか?」
羽純は歌菜とは幼馴染みであった。もっとずっと歌菜が幼く、自身も少年の頃よりそばに仕えてきたのである。ゆえに彼女がいま、どんな状態なのかは容易に想像がつく。
けれど歌菜は気丈に振る舞った。
「私ね、全然平気です!」
そしてこう付け加えたのだ。
「羽純くんがいてくれるから……むしろ、羽純くんのほうが心配」
「私のことは気にしないで下さい。姫を守るのが私の役目です……」
と言う彼はひざまずいている。
冷たい風が吹いていた。馬は静かに草を食んでいる。
「ふたりきりだし……昔みたいに呼んでもいいよね?」
栗色の髪を指でくしけずり、歌菜は言った。
「羽純くんも昔みたいに呼んでくれる?」
「ですが」
「姫なんて呼ばれると目立つし、ね?」
羽純はためらうように視線を落とした。
昔の呼び方……平常なら許されないことだろう……。
――だが今は……。
顔を上げたとき、羽純の瞳から迷いは消えている。
「はい。姫がそうしたいのであれば」
すっくと立つと、彼は薄笑みを浮かべるのだった。
「では……行こうか、歌菜」
陽が昇り始めている。
旅は続いた。
昼間は草木の間に身を潜め、夜中を選んで移動する。わずかな木の実を口にし野生動物を屠り、夜露で乾きを癒すという苦しい行程だったが、歌菜はけっして不平を口にしなかった。そのことに羽純は内心驚いている。
やがて彼らは遙か異郷の地、名も知らぬ森の奥に、放置されたとおぼしき山小屋を発見したのだった。
「羽純くん、あそこに屋根が見えるよ」
「ああ。しかし……あまりいい状態ではないようだが」
木造。壁は朽ちて濃い緑の蔦に覆われ、扉は半ば崩れているうえに、屋根の荒れようたるやはまるで鳥の巣だ。見捨てられて数年は経過したものと見える。この小屋には王侯貴族はもちろんのこと、一般市民だって近づこうとはしないだろう。
なのに歌菜はもう、馬の背から飛び降りていた。さくさくと枯葉を踏みながら小屋に近づくと、
「それなら好都合じゃない? 誰も住んでないってことだし」
と手をかける。
「そういう考え方もできるが……」
気の進まない様子の羽純だったが、すでに歌菜の心は決まっていた。
「やったー! これで雨風しのげるね♪」
と言って、黒馬をつなぐよう羽純に促したのである。
一時しのぎの仮の宿、そう羽純は思っていた。
ところが歌菜の気持ちはまるで逆だ。ここに定住するつもりだったのだ。
歌菜の考え通りになった。
出発は一日延び、二日延びして、とうとうふたりはここで暮らしはじめたのである。
すでに国境線は三つも超えており、最後の境も遠い。追っ手がかかる心配はもうなかった。
「魔法でもかかったかのようだ」
羽純は目を丸くする。荒れ放題だった小屋が、数日もする頃にはなんとも快適な生活空間となった。
蔦は払いのけられ、扉は直され、屋根にも修繕が施されている。古びた小屋だが芯から腐っていたわけではない。黒っぽい表層が剥がれると、内側から鮮やかな木目があらわれた。小屋周辺に積もっていた枯葉も、掃き清められて一箇所にまとめられている。
「まだまだこんなもんじゃないよ」
マントの切れ端から作った雑巾を、ぎゅうっと絞りながら歌菜が言った。
「今日は徹底的に拭き掃除をするつもりだからね♪」
着ていた夜具はとうに、途中の宿場町で売り払っている。今の歌菜は、粗末ながらしっかりした作りの木綿の服に衣装替えをしていた。
ずいぶんと逞しい――羽純は思う。
歌菜は深窓の姫君だった頃より、現在のほうがずっと活き活きしている。汚れることなどまるで気にせず、粗末な食べ物でも喜んで口にする。生きることに積極的だ。常に嬉しそうで、そんな歌菜を見ているだけで、羽純は元気になるのだった。いつの間にか、彼のほうが彼女に支えられていた。
「俺は、このあたりを開墾しようと思う」
小屋の南側の土地を羽純は指した。彼もまた、軍装を棄てて農夫のような姿に身を変えていた。
「豊富とまでは言わずとも、最低限生きていく程度なら作物が採れるはずだ」
「楽しみだね! 掃除が終わったら耕すのを手伝うよ」
夜になった。
たったひとつのカンテラのもとにふたりは身を寄せ合い、やはりひとつきりの夜具にくるまる。
「こういうの、憧れてたんだ」
歌菜が言った。
「羽純くんとふたりきりの生活、お城の暮らしと全然違うけど……私、嬉しくて」
「つらいことも多いぞ。畑仕事ひとつとっても楽じゃないだろう」
「わかってる。でも、畑仕事だってなんだって、ふたりなら楽しいもの」
そうだな、と羽純は微笑した。
「俺もそう思う」
騎士の肩書きはもうないけれど、その誓いが消えることはない。歌菜こそ、自分が生涯、身を捧げる相手だと羽純は今でも思っている。
「姫のままじゃできなかったこと……いまなら言っていいかな?」
歌菜は彼に身を寄せた。
「……羽純くんが大好きです」
かつての地位を失うまで、口にすることが許されない想いだった。
羽純の返答は決まっている。
「俺も……好きだ」
ずっとずっと、それこそ幼少の頃から、この言葉は決まっていたに違いない。
羽純は思うのだった。
これからは、一人の男として彼女を護りたい――と。
そして彼は、カンテラを吹き消した。
目覚めてなお、思い出のように大切に、胸にしまっておきたい夢というものがある。
これこそが、まさにそれだ。
依頼結果:成功
MVP:
名前:アリシエンテ 呼び名:アリシエンテ |
名前:エスト 呼び名:エスト |
名前:水田 茉莉花 呼び名:みずたまり・まりか |
名前:八月一日 智 呼び名:ほづみさんさとるさん |
エピソード情報 |
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マスター | 桂木京介 |
エピソードの種類 | ハピネスエピソード |
男性用or女性用 | 女性のみ |
エピソードジャンル | コメディ |
エピソードタイプ | EX |
エピソードモード | ビギナー |
シンパシー | 使用可 |
難易度 | 簡単 |
参加費 | 1,500ハートコイン |
参加人数 | 5 / 2 ~ 5 |
報酬 | なし |
リリース日 | 11月21日 |
出発日 | 11月28日 00:00 |
予定納品日 | 12月08日 |