プロローグ
6月。女の子なら誰もが夢見る、ジューンブライドの季節である。
そしてもうひとつ。忘れてはならないのが、
『これをシュシュっと吹きかけるだけで、頑固な寝癖も瞬時に直る!』
『そこのあなた、毎朝起きて鏡を見たときに絶望していませんか?』
梅雨、だった。
『新発売! ネグセナオール!』
『新発売! イオンの息吹ワックス!』
田畑や作物にとっての恵みの雨は、しかし、湿気というたいへん厄介なものまで生きとし生ける者へと恵んでくれる。
テレビのコマーシャルは、どこのメーカーも競うようにして新商品を売り込み、雑誌の表紙ではヘアスタイルについての謳い文句が目立つ6月。
今年は特にそれらが顕著だった。
なんでも、ここ数年の雨季で最も高い湿度が日々続いているのだとか。
――時間通りにセットしておいた目覚ましに起こされたあなたは、鏡と向かい合って文字通り絶句した。
窓の外は、昨日の天気予報が見事に当たり、久し振りの曇り空だ。
太陽は雲に隠れて見えないが、雨が降っていないだけ万々歳。
だから。だからこそ今日は、精霊と一週間振りに外へ出かけようと約束していたというのに!
鏡に映るあなたの髪は、どこかの爆心地から戻った生還者のようにダイナミックにうねり、爆発していた。
コマーシャルの新商品をテレビ画面から抜き出すような能力は、生憎とあなたは持っていない。
普段から使用しているスタイリング剤は、運の悪いことに底を突きかかっている。連日の雨模様のせいで、あまり買い物に行けなかったのだ。
とんでもない存在感を示すラスボスを倒すには、些か頼りない量でもある。
しばらく呆然と立ち竦んでいたあなたは、ブラシとドライヤーを握りしめて時計を仰ぎ見た。
精霊が迎えに来るまで、ひとっ走りヘアウォーターだのミストだのを買いに行く時間はない。
そもそもこの髪型では外に出られない。
今すぐ精霊に連絡し、すべての事情を打ち明け、強力なスタイリング剤を買って来てもらうか。
いや、この有様を見せるのは早計かもしれない。今日は一日、帽子を被って隠し通すか。
明日からはまた雨が降るのだ。折角の約束を反故にするわけには――
必死で考えを巡らすあなたを余所に、この時刻からはジューンブライド特集だなんだと朝の情報番組は宣い、テレビ画面には幸せそうに微笑む新婦の姿が映っている。
解説
※精霊にスタイリング剤or帽子を買ってもらった場合の料金、
その後の外出にかかった費用など全て一括して300Jrを消費
※基本は個別エピソードになります
・普段の髪型と、寝癖が爆発している現在の髪型を忘れずご記載ください
・約束していた外出内容(買い出し、デートなどなど)もお願いします
流れとしましては、
①精霊にスタイリング剤やら帽子やらを買って来てもらい、ふたりがかりで寝癖を直す
→お出かけへ!
②精霊が来る前に帽子で隠ぺい工作
→ドキドキのお出かけへ!
となります。
①の場合は寝癖直しが主な軸に。
②の場合は出かけた先での話が軸に。バレるもバレないも皆様次第でございます。
お好きなほうを選んで下さい。
ゲームマスターより
6月といえば結婚式。じゃねえ、湿気だ。というシンプルなエピソードです。
大切な人に、寝癖のついた姿を見られるかもしれない……そんなドキドキを味わってもらえれば幸いです。
リザルトノベル
◆アクション・プラン
上巳 桃(斑雪)
※年中寝癖だけど、梅雨もあっていつもより爆発マシマシになってる模様 ふわあ…おはようって(鏡見た)おお、今日のあたまは特別すごいぞ 普段がツバメの巣なら今日のはこりゃカラスの巣だな うーん、これじゃあ帽子でごまかせないや はーちゃんと紫陽花観にいこうって約束してたのに、どうしよう ほら、迎え酒ってあるじゃない?←おっさんみたいな単語を知ってる13歳 あれの要領でもう1回寝たら寝癖も収まったり…しないな じゃあ、はーちゃんにお願いしちゃおうかな 髪留めまで買ってきてくれたの? センスいいね ありがとう、さすがはーちゃんだ 折角はーちゃんに綺麗にしてもらったのに帽子被るのもったいないな よし、今日はこのまま遊びに行こう |
シルキア・スー(クラウス)
① 夕方から観劇に出かける約束 午前自室 きゃー 爆発頭をあたふた整えるが難航 ぼやきつつも でも私には強い味方があるのだ これさえあれば とヘアオイルの容器を取りワンプッシュ 空振る音 き 切れてる…(絶望 あ!帽子被れば て 劇場じゃ脱ぐでしょー うわーんバカ髪質~ リーンと呼び鈴 彼だ 思案しパーカーフードを被り玄関に出る 朝食に来ないので呼びに来たそうだ※食堂がある 彼の顔が不安気になっていくので正直にかくかくしかじか ここは頼るしかない 彼が買いに行ってくれる事に うう…ごめんなさい 恩に着ます~ 彼が帰る迄に少しでも髪のコンディション整えておく 帰宅の彼に ありがとう~大好きよ 抱き付いて勢いで言ってしまった 無事髪は治まった |
向坂 咲裟(ギャレロ・ガルロ)
◆1 おはようギャレロ 急なおつかいだったのにありがとう、ええそれで大丈夫よ もう、あまり笑わないでくれないかしら? ワタシもあまり見せたくないのよ こんな髪型じゃあ外に出るのも恥ずかしいもの さあ上がって頂戴 鏡の前で格闘 あら手伝ってくれるの? じゃあブラシをお願いするわね …痛いわギャレロ、優しくして頂戴? ええそう、上手よギャレロ ありがとう 漸く髪の毛が落ち着いたわね ギャレロのお蔭よありがとう あら、嫌いな香りかしら? ふふ、よかったわ もうお昼の時間になってしまったわね さ、約束のお出かけをしましょうか ◆髪型 通常:少しウェーブがかった腰辺り迄のロングヘア 今:倍以上のボリュームに爆発 ◆家 庭付き一軒家 白を基調とした一室 |
●「イイ匂いのやつをくれ」(咲裟&ギャレロ)
連日の雨は、けれども庭先の植物には大いなる恵みとなっているらしく、どの葉も瑞々しく潤っていた。
豊かな自然に囲まれた村で育ったギャレロ・ガルロは、そんな景観に目を奪われることなく、一目散に玄関へと向かう。
己を頼ってきたひとりの少女に褒められたくて仕方がないのだ。
呼び鈴を数回押し、鍵を開けられるのを今か今かと待つ。
ギャレロが身じろぐ度に、手に提げたビニール袋ががさりと笑う。
「おはようギャレロ。呼び鈴は一度だけ押せばいいって教え――」
「サカサ、おはよう! す……すたいりんぐざいってのを買ってきたぜ! なんか目立ってたやつだ!」
万全とは言い難い現在の容姿を通行人に見られることを嫌い、内側から細く扉を開けた向坂 咲裟の思惑は、咲裟の言葉を途中で遮り大きく扉を開け放った精霊によって見事に打ち砕かれた。
まだドアノブを掴んでいた咲裟は、引きずられるようにして曇り空の下へと出てしまう。
咎めるつもりで見上げた先。
袋から取り出したスタイリング剤――フローラルフルーティの香り――を掲げ、褒められることを期待して目を輝かせているスカーフェイス。
「……。ええ、それで大丈夫よ。急なおつかいだったのにありがとう」
小さく嘆息してから、神人は心からの礼を告げた。
無垢な精神そのままにさぞ喜ぶだろうと思われたギャレロはしかし、何故か呆けたような顔でじいっと咲裟を凝視するのみだ。
「……サカサ、か……? 頭ってそんなだったか? ふはっ、爆発してんな! ハハハ!」
「もう、そんなに笑わないでくれないかしら? ワタシもあまり見せたくないのよ」
色こそ常と変わらぬが、咲裟の美しいロングヘアは今、普段の倍以上のボリュームに――爆発、していた。
好き勝手に方々に跳ねる毛先に最初こそ唖然としていたギャレロは、髪の毛ってそんな風にもなるのか! と感心しつつも腹を抱えて笑っている。
笑い声につられ、道行く人の視線が向坂家に集まり出すのを敏感に察知し、咲裟はギャレロの裾を掴んで数回引っ張った。
「だからあなたにおつかいを頼んだのよ。こんな髪型じゃあ外に出るのも恥ずかしいもの。さあ、早く上がって頂戴」
「おう、スマン……ふはっ」
笑い声をその場に残し、素早く扉が閉められる。
テーブルに置いた鏡を前にして、買ってきてもらったばかりのスタイリング剤を惜しげもなく使い、咲裟は真剣な顔つきでブラシを握る手を動かす。
「さすがに牛乳の力でも寝癖はどうにもならないのね」
心底残念そうに呟いた直後、先程から室内をうろうろしているギャレロと、鏡越しに目が合った。
「どうしたの? お腹が空いたのかしら?」
短く首を横に振り、ギャレロは漸く咲裟の隣に腰を落ち着ける。
「なぁ、何かやれることねぇか? それとも、オレが笑ったこと、まだ怒ってんのか?」
ギャレロのことを良く知らない者は、彼のこの見た目にまずは驚き、そして恐怖する、らしい。
それは、咲裟にはまったく理解の及ばない話だった。
肩を下げて、大きな図体のくせに器用に咲裟を上目遣いで窺うギャレロの、いったいどこを怖がればいいのだろうか。
「まさか。怒ってないわ。じゃあ、これを。ブラシをお願いするわね」
そっとヘアブラシを握らせると、ぱあ、とギャレロの顔が晴れていく。
任せろ! と意気込み、座ったまま絨毯の上を移動して咲裟の真後ろに陣取ったギャレロは、意気揚々と長い金髪を梳かし始めた。
真面目に。それはもう、痛いぐらいに。というか、痛い。
「……痛いわ、ギャレロ。優しくして頂戴?」
「! 痛かったか? すまねぇ。オレこういうことやったことなくてよ……や、優しく、優しく」
呪文のように、優しく優しくと言いながら、指摘された通りに柔らかな手つきでギャレロはブラシを滑らせる。
咲裟の頭が映る高さに置いた鏡では、ギャレロの胸元しか映らない。
けれども咲裟には、精霊のひたむきな表情を容易く想像することが出来た。
「上手よ、ギャレロ。ありがとう」
「そっか! へへ、どんどんやるぜ」
作業に熱中するギャレロの邪魔にならないよう、静かに静かに工程を見守り出して、数分が経った。
鏡の中の咲裟の髪も、だいぶおとなしくなっていた。
ブラッシングを中断させ、鏡を持ってあらゆる角度から出来上がりを確かめる。
「漸く髪の毛が落ち着いたわね。ギャレロのお蔭よ、ありがとう」
「お安い御用だぜ。今日は、サカサにたくさんありがとうって言ってもらえた。いい日だ!」
背後を振り返り、改めて労おうとした矢先、何故かギャレロは首を傾げて不思議そうに咲裟の頭部を見詰めていた。
「なあに? まだどこか変かしら」
「いや、何時ものサカサの髪の毛になってる、けど……ああ、匂いが違うからヘンな感じだな」
なるほど。振り返った拍子にスタイリング剤が香ったらしい。
嫌いな香りかと尋ねると、全然、と明解な答えが返ってきた。
「いろんな匂いのが売ってた。バラとか、セッケンとか、いろいろ。でもこの、ふろーらるってのが、一番サカサに合うと思って買ってきた」
咲裟は、床に転がるスタイリング剤を一瞥する。
この可愛い弟のような存在が、そうして選んでくれたこの商品。周囲からの評判も良ければ、これからも使い続けてみるのもいいかもしれない、と考えながら。
そのまま視線を時計へと動かし、あら、と瞠目した。
「もうお昼の時間になってしまったわね」
「腹へったー」
空腹を訴えるギャレロに小さく笑い、スカートの皺を伸ばして咲裟は立ち上がる。
「さ、約束のお出かけをしましょうか」
「早く行こうぜ!」
玄関へ向かうふたりの背中を、鏡とブラシとスタイリング剤が見送っていた。
●「この髪留めもください!」(桃&斑雪)
可愛らしくデフォルメされたかえるの飾りがついた髪留めを眺めていた赤い瞳が、緊張の面持ちで立っているまだ幼い精霊を捉えた。
「センスいいね。ありがとう、さすがはーちゃんだ」
裏も表もない賛辞の言葉に、斑雪は照れ臭そうに頬を緩ませる。
遡ること一時間前。
大人の女性は、スカートに様々なものを隠しているらしい。
愛憎だとか。悲しみだとか。凄腕のスパイなんかはきっと武器も隠しているのだろう。
そして上巳 桃はいつも、キャスケット帽の下に奔放な猫毛を隠している。
『おお、今日のあたまは特別すごいぞ』
充分過ぎるほどたっぷり睡眠を摂り、珍しく精霊に起こされる前に自力で起床した桃は、鏡を覗き込んでのんびりとそれだけ言った。
何よりも睡眠欲を優先させる傾向にある桃は、謂わば寝癖のプロである。
だから普段からキャスケット帽を被り、芸術性すら醸していそうな寝癖を隠しているのだが、今日は帽子でさえ匙を投げそうな仕上がりだった。
『普段がツバメの巣なら、今日のはこりゃカラスの巣だな、っと』
特に嘆いたりもせず、愛用している帽子を頭に乗せてみる。
普段の寝癖のレベルが10だとすると、今朝のレベルは30近い。
ほぼほぼラスボスと化した髪は、やはりキャスケット帽には荷が重いようだった。
帽子を取り、桃は初めて物憂げに唸る。
旬を迎えた紫陽花を、斑雪と共に見に行く予定があるのだ。
女子力のじの字もないとはいえ、さすがにこの頭では外に出るのは躊躇われる。
どうしたものかと考え込む桃の背後で、コンコン、と扉がノックされた。
『主様、おはようございますっ』
少年の伸びやかな声。桃を起こしにくるのが、精霊である斑雪の仕事のひとつ、なのだ。
鏡から目を逸らさず、はーい、と応える。
『今朝はもう起きていられましたか! 天気予報によるとたまに小雨もぱらつくかもしれないとのことですが、お出掛けの間はきっと大丈夫ですよ。なんなら拙者が主様の傘も持ちますから……主様?』
元気良く入ってきた斑雪が、後ろからでもわかる桃の寝癖の威力に、元々大きな目を更に見開く。
『す、すごいことになってますね』
『そーなんだよね。どうしよう』
この状態でブラッシングをしても、髪がブラシを捕食して絡め捕ってしまいそうな気配すらあった。
そのとき桃に電流走る。
『ほら、迎え酒ってあるじゃない? あれの要領でもう一回寝たら寝癖も収まったり……しないな』
『し、しないでしょう。しかし主様は難しい言葉を知っておられるのですね』
『まあね。でもこのままじゃ、紫陽花は見に行けないなあ』
基本的にマイペースで、睡眠さえ絡まなければ喜怒哀楽の差もあまりない桃の横顔が、どこか残念そうな色を宿したように――斑雪には見えた。
気のせいかもしれない。光の具合かもしれない。
けれども斑雪にとっては、それだけで充分だった。
『拙者が主様の髪をセットします! ちょっと待っててください』
『へ。うん、いいけど』
『待ってる間に、二度寝しちゃ駄目ですよっ。あと、あまり気にされませんよう。きっと主様と同じで、主様の髪もがんばりやさんなんです』
それでは行って参ります、と。
慌ただしく出て行った小さな背中に、桃はぽつりと呟いた。
『……それ、褒めてる?』
そして冒頭に戻る。
枕と布団が魅惑の二度寝の世界へと誘ってくるのをなんとか耐え、髪型以外の身支度を済ませた桃は、息せき切って帰って来た斑雪から渡された髪留めを見て、センスいいね、と。そう言った。
「ちゃんとスタイリング剤も買って来ました。主様さえ良ければ、拙者にセットをお任せください」
「じゃあ、はーちゃんにお願いしちゃおうかな」
主直々の許しをもらい、斑雪は気合を入れてまずはブラシとスタイリング剤を手に取った。
「えへへ、一度やってみたかったんです。……あっ」
「え、なに?」
「言うのを忘れていました。ただいまです」
「……うん、おかえり」
顔を見合わせて、ふたりは短く笑った。
爆心地となっている髪に、小さな掌がスタイリング剤を馴染ませていく。
「かえるちゃんの髪留めにしたのは、雨の日の主様にお似合いだと思ったからなんです!」
「じゃあ今度は、晴れの日の私にも似合う髪留めを選んでもらおうかな」
「お任せください」
ブラシが、少しずつ髪のボリュームを削いでいく。
「買い物に行った店で、恐らくは名のある武人であろう方を見かけました。何やらスタイリング剤を買いに来たようで、匂いを確かめては真剣に選んでおられました」
「武人が? スタイリング剤?」
「はいっ。……少し、その、顔が怖い方でした」
普段と変わらぬ形まで落ち着いたところで、サイドの髪を左右からふんわりと後頭部に持ってくる。
仕上げにかえるの髪留めで固定し、斑雪は綺麗なハーフアップで桃の髪を纏めた。
「出来ました。どうでしょうか?」
「おお……」
それは起き抜けに鏡を覗いた際と同じ反応ではあったが、声の調子はまるきり別物だった。
二枚の鏡を使って後頭部の具合を見せてもらうと、かえるの飾りが上機嫌におどけた顔でそこに鎮座していた。
まるで桃の心境を表すかのように。
「折角はーちゃんに綺麗にしてもらったのに帽子被るのもったいないな」
光栄です、とはしゃぐ斑雪が、続く「よし、今日はこのまま遊びに行こう」という言葉を聞いて大袈裟に感動するまで、あと十秒。
●「あの日と同じものを」(シルキア&クラウス)
シルキア・スーは、生まれて初めて己の髪質に対して深い深い憎悪を感じた。
本来なら、生まれつき癖のある髪を持つシルキアがここまで取り乱す必要はなかったのが、とあるふたつの要因が重なり、彼女は今こうして両手で髪を押さえて茫然自失になっているのである。
ひとつ。今日は夕方から、クラウスと観劇に行く予定があること。
ひとつ。愛用しているヘアオイルが、このタイミングで切れていたこと。
「あ、そうだ、帽子! 帽子を被れば……って、劇場じゃ脱ぐでしょ! うわーん! バカ髪質~っ」
シルキアの嘆きにつられたかのように、呑気な呼び鈴の音が鳴る。
クラウスだ、とシルキアは瞬時に悟った。
時計を見れば、既に朝食の時間をいくらか過ぎてしまっている。
この豪快な寝癖をクラウスに見せるのか? どうしようどうすれば、と思案するシルキアを急かすように、もう一度呼び鈴が響いた。
覚悟を決め、取り合えずパーカーのフードをこれでもかと目深に被り、シルキアは漸く玄関を開ける。
「……」
「お、おはようございマス……」
「シルキア……どうしたんだ、体調でも優れないのか? それとも俺が何か仕出かして顔も見たくないと――」
「違うよ! あの、えーっと、つまり……こういうこと、です」
クラウスの顔が見る見るうちに曇っていくのが耐えられず、シルキアは勢い良くフードを取っ払った。
現れた爆発ヘア。降り立つ沈黙。早く食堂にいらっしゃい、という大家夫人の声が、止まりかけていたふたりの時間をなんとか動かしてくれた。
風呂から出たシルキアは、ほぼ普段通りの癖毛に戻りかけている髪をタオルで拭きながら、肺を空にするかのように深い溜息を吐き出した。
事情をすべて打ち明けたあと。
ならば俺が同じヘアオイルを買ってくる、と早々にクラウスは出かけてしまった。
聞けば昨年のホワイトデーにそのオイルを買ったデパートまでは、バスを乗り継いで一時間弱かかるという。
『そんなに遠いの?! いいよ、近所のドラッグストアで適当に買って来てくれればそれで……』
『……。お前が、あのヘアオイルを使い続けてくれていたことが嬉しかったんだ。これくらいさせてくれ』
眼鏡の向こうから見詰められ、シルキアはそれ以上何も言えなくなった。
『気に入ってくれていたんだろう? あれを』
あの爽やかな香りのオイルを一年以上かけてここぞという日に愛用していたのは、もちろん商品自体が気に入っていたから、だが。
クラウスからの贈り物だという大前提の上で、シルキアは好んで使い続けていたのだ。
窓を開けると、真向いの遊歩道に咲いた紫陽花を愛でる少女と少年が見えた。
「大事なことは口に出さないと伝わらない、よねー」
クラウスはもう、目的地に到着しただろうか。
他には目もくれずに、クラウスはデパートのボディケア用品専門店へ直行した。
ホワイトデーの際とは異なり、男性客が他にはいないことにも気付いていないようである。
「ヘアオイルを! あ、いや……失礼。ショコランド産の材料を使った--」
「畏まりました。こちらのシリーズですね。どのタイプにされますか?」
「?!」
店員のひとりを捕まえ、逸る気持ちを抑えて目当ての商品名を告げれば、にこやかに店の角へと案内され、そしてクラウスは驚愕した。
明らかに、去年よりもラインナップが増えている。
(……確か、そう。シトラスオレンジの香りだった。シトラスオレンジの香り……うるおいタイプと、傷み予防タイプ。二種類もあるのか)
恐る恐るテスター用の香りをそれぞれ確認し、クラウスは己の直感に従い、うるおいタイプを購入した。
プレゼント用にお包みしましょうか、という申し出を断り、すぐさまバス停へと戻る。
数十分待ってやっと――とは言っても運行通りなのだが――来たバスに乗り込み、クラウスはひとまず安堵の息をつく。
が、
(こちらで合っていただろうか。香りはシトラスオレンジで間違いはない。シルキアの髪は傷んでもいない。だが……もしかしたら……)
疑心暗鬼の精霊を乗せ、バスは走る。
「只今戻った」
「おかえりっ。ごめんなさい、恩に着ます~」
玄関まで出迎えてくれたシルキアの髪は、朝よりもだいぶおとなしくなっていた。
だが劇場というフォーマルな場に赴くにはやはり、少々活発過ぎている。
ヘアオイルは、必要不可欠だった。
「これで……間違いなかったか?」
背筋を密かに滑る緊張の汗と、内心高鳴る心音を見事に取り繕い、クラウスは洒落た紙袋を手渡す。
がさり、と袋を開けるシルキア。
生唾を飲み込むクラウス。
ヘアオイルを手に取るシルキア。
自然と呼吸が止まるクラウス。
ボトルに貼られたシールを確認して、シルキアは――
「これこれ! ありがとう~、助かったよ! 大好き!」
ボトルと紙袋を持ったまま、晴れ晴れしい笑顔でクラウスの胸に飛び込み、感謝の気持ちを表現するかのように彼の背中に腕を回した。
「そうか、良かった」
緊張から解放されたクラウスの声が掠れていたことに、そっと抱き締め返してくれるクラウスの腕が微妙に震えていることに、シルキアは気付かなかった。気付けなかった。
(私、勢いですごいこと言っちゃったし、すごいことしちゃってる…?!)
面映ゆい感情を押し殺し、ぎくしゃくと抱擁をやめたふたりが果たして観劇に間に合ったかどうかは、大家夫人も知らない。
依頼結果:成功
MVP:
エピソード情報 |
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マスター | ナオキ |
エピソードの種類 | ハピネスエピソード |
男性用or女性用 | 女性のみ |
エピソードジャンル | コメディ |
エピソードタイプ | ショート |
エピソードモード | ノーマル |
シンパシー | 使用不可 |
難易度 | とても簡単 |
参加費 | 1,000ハートコイン |
参加人数 | 3 / 2 ~ 5 |
報酬 | なし |
リリース日 | 06月11日 |
出発日 | 06月19日 00:00 |
予定納品日 | 06月29日 |