大誘惑ッ!(テンプテーションッ!)(桂木京介 マスター) 【難易度:簡単】

プロローグ

「ウィンクルムの仲を裂く方法を、そろそろ真剣に考えるべきときじゃなくって?」
 ここは、某所に存在するマントゥール教団テューダー派の秘密基地である。より正確に言えばその会議室だ。
 テーブルを挟んで向かい合っているのはテューダー派の幹部ふたりで、髪の両サイドに渦巻きがある青年はバル・バラという名であり、髪の両サイドに渦巻きがある少女はプリム・ローズと名乗っている。別にマントゥール教団でこういう髪型が流行っているわけではなくて、両者とも、単なるくせ毛だ。ちなみに兄妹である。
 彼らのことを詳しく知る必要はないしそのスペースもないので、ここは『悪者』と認識しておけばオーケーだ。悪いぜ。
 さてその悪い妹は悪い兄に向かってこう力説していた。
「奴らのコンビネーションさえ乱してしまえば、倒すこともわけないはず!」
 気合いが入りまくりのプリムとは対称的に、バルのほうは消極的だ。
「そうは言ってもだな……先日の仮称『Sになっちゃう薬』作戦も無意味だったというか、逆に親密さを増しただけだったというか……ともかく、成功とは言いがたいものであったし……」
「同志バル!」
 煮え切らないバルの姿に腹を立てたか、プリムはぴしゃりと机を平手で打って、
「だから今回の私の作戦を遂行するというわけでしょ!」
「いや……その作戦というのがまた、どうかと思うのだが……」
 バルが躊躇しまくっているその作戦とは、一体どういったものであろうか。
 簡単に言えば、精霊が一人のときを見計らって、変装したプリムが近づき、誘惑するというものなのである。
「急な雨、一人で雨宿りしている精霊に傘を差し掛け、『入りませんか』と声をかけて近づく。そして私はヤツに強烈な印象を残して去るの。なんなら傘を預けちゃって、返すついでに会う約束をする、とかね」
「それをあえて神人に目撃させるよう仕向け、連中を不仲にさせるというのだろう……」
「なに? 文句ある?」
「なんというか、そのきっかけというのがあからさまに怪しいような」
「雨宿りうんぬんは、たとえばの話よ、たとえば! 『……というのは、あくまで一例だ』ってやつ! そのパターンだけとは言ってないでしょ! もっとストレートに『前からファンでした』とか言って熱烈アタックするとか、実在しない過去の同級生を騙って近づくとか、色々手はあるんだから!」
 それ全部怪しいぞ、と言いたくなったバルだが、とりあえず、自制した。もっと本質的なことを問うことにしよう。
「……その筋書き通りにいったとして、相手の精霊がそう簡単に心を動かすとは思えんのだが」
「だから甘いというのよ、同志バル。男なんてケダモノ、目の前の餌に飛びつくに決まっているじゃない」
「いや、一途な男もいると思うぞ」
 男子代表として、やや鼻白むバルである。
 ところがプリムはそんな兄の言葉を完全に無視して、
「あと、サンチェスを借りるから」
 と言い放った。
 サンチェスというのはバルの部下で、太陽のように明るい髪色をした紅顔の美少年である。
「待て、サンチェスに何をさせる気だ?」
「私はほら……身長が、あまりないでしょ。成長もまだ途中の段階、だし……。だから、あの子に女装させれば、結構な戦力になると思うのよね。悪女っぽいのとか、清楚な和服の人妻風とか似合いそう」
「なんと破廉恥な……! それに、そもそもサンチェスが首を縦に振ると思うか? 私は、そんな内容の命令をするのは嫌だぞ」
 プリムの提案はいたくお気に召さなかったと見えて、バルは腕組みして顔を横に向けるのである。
 ところがプリムは意地悪猫のように笑みを浮かべる。
「あら? 同志バルもサンチェスも、私に借りがあるのをお忘れ?」
 それを言われると立つ瀬がないらしく、バルはムスっと口を結ぶのである。
 ややあって、
「だが……万が一だぞ、万が一、相手の精霊がその気になって、お前やサンチェスの身に危険があっては……」
「大丈夫よ。そんなヘマしないから。でも、どうしても気になると言うのなら」
 ちらっ、とプリムはバルを見て、
「兄さんが物陰で見張っててくれればいいんじゃない?」
 ――こういうときだけ『兄』と呼びおる……!
 ますますムスっとしつつも、そうせざるを得まいな、とバルは思った。
 バルの様子を肯定と受け取って、プリムは言う。
「というわけで、美少女が好みの精霊には私が、もっと年上が好みっぽい精霊には女装したサンチェスが迫るということにしましょう。やつらの仲を引き裂いてあげる!」
 フフフと含み笑いするプリムを横目で見ながら、ついにこらえきれなくなったのか、バルはぷっと吹き出した。
「ちょ! なにがおかしいの!?」
「いや、自分で自分のことを『美少女』と言うか、と思ってな――!」 
 バルの顎にスクリュー気味のアッパーカットがめり込んだのはその直後だった。

解説

 あなたがちょっと目を離したスキに、彼に女性が声をかけてきます。

 それは、プリム・ローズの変装(お嬢様タイプ、童女タイプ、勝ち気な少女タイプなど)かもしれませんし、サンチェスの変装(彼は男性ですが、見事なまでの女っぷりに化けます。文学少女タイプからキャバ嬢まで、色々演じ分けます)かもしれません。

 あるいは、プリムたちとはまったく無関係で、精霊の幼なじみが突然登場、とか、彼のストーカーが、とか、A.R.O.A.の女性職員がたまたま……とか、別の理由で彼と一般女性が二人きりになるシチュエーションというのもありえます。
 彼女ら一般女性の場合は、プリム&サンチェスのように意図的に誘惑してくるパターンに限りません。単に偶然居合わせただけなのをあなたが遠目で見て誤解する、という展開も良いですね。
 
 自由度は高く設定しますので、枠に囚われず色々想像してみて下さいませ。
 ボーイッシュな神人を男性と誤解して、プリムが声をかけてくる、という展開なんかも面白いと思います。ご要望とあらば、バル・バラが近づいてくるという展開ももちろんOKです。

 なお、色々ありまして300~500ジェール程度で費用がかかります。

ゲームマスターより

 ハピネスエピソードなので、プリムやサンチェス、バル・バラと戦いになることはありません。ここで会ったが百年目、と彼らを逮捕する展開にもちょっとならないでしょう。
 あくまで、あなたと彼の関係に揺さぶりが(!?)というちょっとした事件を描くお話と思っていただければ光栄です。

 てきとうにあしらってもよし、逆にからかってもよし、プリムやサンチェス以外の女性が来たことで、彼の過去が明らかになる……というのもよしです。
 いずれにせよ、楽しんでいただければこれに勝る喜びはありません。

 それでは、次はリザルトノベルでお会いしましょう。
 桂木京介でした。

リザルトノベル

◆アクション・プラン

月野 輝(アルベルト)

  一緒に住む部屋を探そうって言われて出てきたのはいいけど
なかなか良い部屋ってないものね
アル、喉渇かない?そこの公園で一休みしましょ
私、飲み物買ってくるわね

アイスコーヒーとアイミティを手に戻ってみたら
女性と?誰かしら
アル、こちらどなた?知り合い?
あ、良かったらお茶飲みます?(アイミティを差し出し
一緒にお茶しましょ
どうしてアルに声掛けたのかとか興味あるわ
お話聞かせて?

何だったのかしら、さっきの人
え、余裕?そう?
だってアルが浮気なんてするわけないもの
なんか変ね
前だったらちょっとムッとしたりしてたと思うのに
今日は何だか自信が溢れてくるって言うか

だってアルの笑顔、営業スマイルだったもの
本当の笑顔は私にだけ


桜倉 歌菜(月成 羽純)
  今日も暑くなりそう
バーの開店準備がきっと忙しい羽純くんの為に、冷たいゼリーを差し入れようと向かっていたら…
女性と羽純くんが、抱き合ってて…

頭が真っ白
持ってた鞄も落として

羽純くんが近付いてきたら…感情が爆発しちゃいます

羽純くんの、バカ!!

叫んで走って
息が切れその場にしゃがみこんで…
…私、何やってるんだろ
羽純くんは、そんな事をする人じゃない
分かってるのに…不安で
綺麗な大人の女性…
私とは全然違う
何て醜い嫉妬だろう

いや、今は見ないで…顔ぐちゃぐちゃで…
だって、あの時とは違う
羽純くんがあの人を選んだとしたら私…

ううん、嘘だ
嫌…羽純くんを奪われたくないよ
お願い、嫌いにならないで…

安心したら腰が抜けちゃった


瀬谷 瑞希(フェルン・ミュラー)
  「以前助けていただいたんです」と言って、
可愛い女性が近づいてきたのだけれど。
今まで関わった案件で、被害者でこんな人居なかったわ(記憶Lv5)。
それより面立ちがローズさんに似ている?
なんて少し考えていたら
いつの間にかフェルンさんのすぐ近くで腕でも組みそうな勢い。
そのまま彼の手を取って「ありがとうございます」って見上げてる。
その一連の動きが余りに滑らか(というか自然)。
こういう人もいるのだと随分感心してしまいました。
相手の警戒心を生むことなく、するりと接近。恐るべき行動力です。
これが女子力とかいうものでしょうか。
彼女は服装も随分華やか。可愛い系で纏めていますね。
少し参考にさせて貰いましょうと観察。


レベッカ・ヴェスター(トレイス・エッカート)
  精霊と女性が見え立ち止まり
楽しげな様子につい物陰に隠れてこっそり伺う

知り合い、かしら?
随分と仲が良さそうね…
い、いやいや。別に仲良くていいじゃない、私には関係ないわ
そもそも何で隠れたのよ、私…
やましい事などないのだから堂々といけばよかったと咄嗟の行動に後悔

さっきの人って友達?結構話が弾んでいたみたいだけど
人の交友関係に首を突っ込むまいと思っていたが、どうしても気になり
…初対面?
正直私とは今でも割と話がかみ合わなかったりしてるのに、初対面でああも…
もやもやと

私もその本、読んでみるわ
別に疎外感を感じた訳ではなくて(もごもご

私、何で張り合っているのかしら…
…まあ、いっか。エッカートさんも嬉しそうだし


メイリ・ヴィヴィアーニ(チハヤ・クロニカ)
  ホームルームが長引いて待ち合わせに遅れそう…
ぎりぎりセーフ…ってナンパ!?

知的で綺麗な人…年も身長も並んでて違和感ない…
それに私が見たことのない顔してる…
年も身長も全然釣り合わない私とは大違いなの
こうして見ちゃうとなんかへこむなぁ

え?なんでこっち来るの?しかも相手の人も笑ってるし!?
えっとえっといつも通りの対応しなきゃ。

叔母さん…?ちー君とほぼ変わらないでしょ!?
そういえばちゃんとちー君の家族の話聞いたの初めてかも
距離がもっと近くなったみたいで嬉しいな

特に深い意味なんてないんだろうけど爆弾発言には気を付けてなのよ!
まぁ、どんな形であれ暫くの間ちー君の隣は私だけのものなのは嬉しいけど


 まだ午前中だというのに、もう太陽は分厚い光を放射しており、蝉の声もかまびすしい。
 けれど風があるせいか、肌に感じる温度は不思議なほどに涼しいのだ。とりわけ、日陰に行くと清々しい。もっとも、あと二時間もすればそんな悠長なことは言ってはいられまいが。
 この日アルベルトは「一緒に住む部屋を探そう」と言って月野 輝を連れ出していた。
 もちろん自身にも輝にもその準備ができたことを踏まえての発言であるが、いよいよふたりの生活がはじまることを考え、ほんのわずか、言葉が上気していたことは否めない。輝もそれを意識し、軽く頬を染めつつうなずいていた。
 そして今、
「なかなか良い部屋ってないものね」
 輝はため息をつく。不動産屋をふたつほど回り終えたところで、彼らは途上の公園で休息しているのである。
「そうだな。シンプルな条件だとは思ったのだが」
 アルベルトも肩をすくめた。たくさんの物件を紹介されたものの、いずれも帯に短したすきに長しで、これはというものにたどりつかない。まあ実際、住居探しとはこういうものなのかもしれないが。
 アルベルトは木に背を預けていた。両手を広げるように枝を伸ばした大樹の下は、ひんやりとして心地よい。そう焦ることはない――こうしていると楽観的な気分になってくる。いずれ落ち着くところへ落ち着くはずだ。
「アル、喉渇かない?」
 輝が言った。彼が応えるより早く、
「私、飲み物買ってくるわね」
 と言って日傘を持ち、その場を離れる。
 それくらい自分が、と言いかけたものの、アルベルトは考え直して「すまないな」と告げた。たまにはこうして、愛する女性を頼るというのもいいものだ。
 ちらっと輝は振り返ると、笑顔を残して立ち去った。
 蝉が鳴くのを聴き、涼やかな風に頬をなでられながら彼女を待つ。そのとき、
「お一人?」
 声を掛けられて、アルベルトは閉じかけていた瞼を開いた。
 幹から背を上げて振り返ると、木陰から黒いワンピースの女性が姿を見せた。やはり黒い帽子から、豊かなブロンドが流れ落ちている。色は白く、顔立ちもはっとするほど美しい。ブランド品と思わしきハンドバッグを肩に掛け、胸に薔薇のコサージュをしていた。
「失礼、どこかでお会いしたことがあるでしょうか?」
 アルベルトは怪訝な顔をした。彼女のことは知らない。初対面だと思う。
 ――にしても、この女性、どこかで見た事があるような気がするんだが。
 彼女はうっすらと微笑むと首を振った。
「いいえ、初めてですわ」
 黒い手袋の指でみずからの顎に触れ、誘うような目で彼女はこちらを見ている。
 値踏みされているような気がする。あるいは、飛びかかる機会を探っているような――。
「なにか御用で?」
 警戒しながらもアルベルトは、甘い香りを嗅いでいた。彼女の香水だろう。
「サーシャと申します。誤解しないで、わたくし、普段は知らない人に声をかけたりしませんのよ。ただ、とても素敵な殿方がいらっしゃるので、どうしても声を掛けずにはいられなくって……」
 女性は恥じらうように軽く顔を伏せた。でも、と顔を上げて、
「もしよろしければ、少しの間で結構ですから、話し相手になっていただきたいと思います」
 目を潤ませながらそう告げたのである。
 ――おやおや。
 アルベルトは冷めている。これは俗に言う逆ナンという奴だろうか、そう客観的に考える余裕もあった。相手がいくら美女といったところで、ショーウィンドウの中のマネキンのようにしか見えない。
 モテて嬉しい、と言った単純な発想も彼にはなかった。むしろ、こういう行動を取る女性の心理、あるいは狙いが気になるだけだった。
 だからあえて、アルベルトは笑顔を作った。それも、これ以上ないほど誠実そうな笑顔を。
「そうですか。お声を掛けていただき光栄ですね。あなたはどちらからいらっしゃったのですか?」
「ええと……近くですわ。散歩していたのですが、暑くなってこちらに」
「日傘も持たずに?」
 瞬間的にだが、えっ、とサーシャが驚きの表情を見せた。
「ええ、うっかり忘れてきてしまって……」
 取り繕うようにそう言ったものの、アルベルトは彼女の動揺を見逃していない。やはり怪しい。この陽射しである。輝もずっと晴雨兼用の傘を持っており、さきほども差して出て行ったのだ。サーシャというこの女性はこのためにだけ出てきたのか、それとも……?
「そんなことよりも」
 すっと彼女は、誘うように手を伸ばしてきた。
「どこかへ一緒に行きません? わたくし、あなたのことがもっと知りたいと思います」
 ――知りたいのはこちらも同様だ。君の正体をな。
 よっぽどそう言ってやろうかと思ったが、もう少し泳がせてみるのも一興だ。確かにミステリアスな美女ぶりではあるが、彼女はどうにも抜けている印象だ。案外簡単に馬脚を現しそうな気がする。
 ところがこれほどに冷静なアルベルトが、直後飛び上がりそうになったのだった。
「アル、こちらどなた? 知り合い?」
 背後から輝の声がしたのである。アルベルトは内心ヒヤッとした。
 振り返ると輝の姿があった。手に、コンビニの袋を提げている。きっと中身は、アルベルト好みのアイスコーヒーと、自身の分のアイスティだろう。
「連れが戻ってきたようだ」
 言いながらアルベルトは心底ホッとしていた。輝がいたって穏やかで、にこやかな表情だったからである。「誰かしら?」とは思っているようだが、不要な疑いは抱いていないらしい。輝は腹芸をするタイプではないので、余計な心配は必要なさそうだ。
 輝はサーシャにも微笑みかけて、
「あ、良かったらお茶飲みます?」
 とアイスティーのカップを差し出していた。
「お話、私も加わっていいですか?」
 ところがサーシャはといえば、そんなゆとりはまるでなさそうだった。登場当初の妖艶な雰囲気はどこへやら、尻尾をつかまれた猫のように焦った表情で、
「い、いえ、結構です。そうだ、僕、いやわたくし、用事を思いだしましてよ」
 などと支離滅裂なことを言いながらじりじりと後退し、ぱっと一目散、逃げるようにして姿を消したのである。髪が帽子ごとずり落ちそうになっているように見えた。気のせいでなければ、きっとカツラなのだろう。
「何だったのかしら、さっきの人……?」
「私も初対面だ」
 アルベルトは一部始終を話した。
「余裕だったな」
「え、余裕? そう?」
 輝はしばらく言葉の意味を考えていたようだが、気がついたように笑い出した。
「もしかしてアル、私にヤキモチを焼いてほしかったの?」
「そうとは……言っていないが……」
 ――違うとも言い切れない。
「だって、アルが浮気なんてするわけないもの」
 うん、と伸びをしながら輝は言う。
「なんか変ね……前だったらちょっとムッとしたりしてたと思うのに、今日は何だか自信があふれてくるっていうか」
 輝は鈍感なのでも、無防備なのでもないのだ。
 ただ、アルベルトを信頼しているのだ。
 知らず、アルベルトの頬に笑みが浮かんでいた。作り笑顔ではない。心からの笑顔だ。
「わかった! その笑顔ね」
 輝が唐突なことを言ったので、「何が?」とアルベルトは聞き返した。
「さっき、アルがあの女の人に向けてた笑顔と全然違うもの。さっきのは営業スマイルだったから」
 参ったな、とアルベルトは額に手を挙げた。輝にはかなわない。
「私の営業スマイルを見破れるのは輝くらいだな」
 よく冷えて水滴の浮いた缶コーヒーを受け取ったとき、不意にアルベルトは気がついた。
「そうか、彼女、いや彼はあのときの……」
「さっきの人、知ってたの?」
 不思議そうな顔をする輝にアルベルトはうなずいて、
「あの底の浅い感じ、抜けている印象を思いだしたんだ。マントゥール教団テューダー派の手下だ。バスジャックを図っていた『キノコ人間』」
「あの馬鹿っぽい人!? 化ければ化けるものね!」
「まあ、相変わらず薄い化けの皮だったがな」
 ふたりは顔を見合わせて笑った。
 さあ、どこかでランチにして、午後も不動産屋巡りだ。



 ベンチに腰を下ろし、トレイス・エッカートは鞄を膝に置く。
 少し早く来すぎたようだ。レベッカ・ヴェスターの姿はまだ見えない。
 公共施設内の休憩所。御影石に支えられた木製のベンチは作られたばかりらしく傷一つついていない。清潔で、よく冷房が効いていて居心地がよかった。他に人の姿がないこともあり、礼拝所のように静かだ。
 トレイスは鞄から厚い書籍を取り出した。時間を潰す方法には困らない。
 今日は純文学を選んで持ってきた。『カラマーゾフの兄弟』、寒い国の物語を、真夏に涼をとりながら読むというのも乙なものだ。
 いくつかの台詞や文章は、そらで言えるほど愛読した一冊なので、付箋を挟んでいる箇所を選んでトレイスは頁を繰る。たちまち頭に浮かぶのは、どことなく滑稽で、やがて悲しき人生模様。三兄弟のうち自分は誰に似ているか――そんなことを想うのも楽しい。
「『いまさら日数なんて数えて何になるというのです? 人間が幸福というものを知るには、一日あれば十分なんですよ』」
 聞き慣れぬ声がした。
 トレイスは顔を上げ、見知らぬ少女と目が合った。
 慌てて少女は目をそらす。そうして、
「ご、ごめんなさい……!」
 こちらが申し訳なくなるくらい恐縮している。黒いロングヘアで、地味な襟付きトップスに袖を通し、やや季節外れな印象があるチェックスカートをはいていた。シューズは黒で、ソックスはまぶしいくらいに純白だ。フレームの太い眼鏡をかけているが、その下にある瞳は大きくて美しい。
「君は?」
 怯えさせるのは本意ではないので、トレイスは優しげな口調を心がけた。
「カラマーゾフ、ですよね? 私も大好きな本なので、つい、セリフが口を突いて出てしまって……」
「俺のは少し訳語が違うけど、好きな言葉だ。短いながら真理をつくフレーズだと思う」
 ぺこりと頭を下げて少女は言った。
「私、サーシャって言います……ロシア文学、お好きなんですか?」
「俺はトレイス・エッカート。本は色々好きで、いわゆる雑読みなんだ。気になったものは片っ端から読んでいる」
「私もそうなです!」
 拍手するようにサーシャは両手を合わせた。
「少しお話……させてもらっていいですか? ご、誤解しないでくださいね。私、普段は知らない人に声をかけるなんて、とても……ただ、本好きそうで、その……と、とても素敵な方だと……きゃ、私、何言ってるんだろ!?」
 話しながら少女はどんどん赤面していく。
 締めくくりの言葉の意味はいまひとつわからないのだが、構わず、どうぞと言ってトレイスはベンチを詰めた。
「日傘置いていいですか? あ、これ、日傘なんです。日傘」
 やはり緊張しているのだろうか、サーシャと名乗った少女はなぜか、なんの変哲もない日傘を持参していることを妙に強調してから、これをベンチに立てかけた。
 トレイスは話し始める。
「せっかくだからロシア文学の話をしようか。ドストエフスキーはまさに巨人だが、トルストイも素晴らしい。といっても、ツルゲーネフの繊細さも捨てがたいのだが」
「そ、そうですね。ええと、ゴーゴリなんかも」
「ゴーゴリか。失念していた。彼と言えば、地味ながら中編集にいいのがあるな。知っているだろうか? 初期に出た本なんだが……」
 トレイスは得意な話題では饒舌になるタイプだ。つい、どんどんと話を掘り下げてしまう。最初はなんとか応じていたサーシャであったが、途中からは圧倒されたのか、それとも、付け焼き刃的な知識でたちまち太刀打ちできなくなったのか、ほぼ一方的に聞いているだけという状況になっていた。うなずきながら彼女は、だんだんとトレイスから距離を取りはじめている。

 その頃。
 御影石の柱の陰からレベッカは、トレイスと謎の少女とのやりとりを観察していた。……より正確に言えば、盗み見ていた。
 どうしてとっさに隠れてしまったのか、その理由はレベッカにもわからない。
 彼らが会話しているのを見て、反射的にそうしてしまったのだ。
 会話内容がはっきり聞こえない。ただ、トレイスが楽しそうなのが気になった。
 ――知り合い、かしら? 随分と仲が良さそうね……。
 ここでレベッカは、はっとなって首を振る。
 ――いやいや。別に仲良くていいじゃない、私には関係ないわ。そもそも何で隠れたのよ、私……。
 やましいことなどないのだから堂々といけばよかった――と唇を噛む。
 などと気を揉んでいるうちに変化が起こった。少女が、慌ただしく席を立つやパタパタと逃げるようにして姿を消したのだ。
 少女はちょうどレベッカの前を駆け抜けていった。同性のレベッカすら思わず見とれそうになる美人……でも黒い髪の下から、金髪がのぞいているように見えたのは錯覚だろうか。

 まだ語り足りていないのだが――。
 トレイスはいささか、不完全燃焼な気持ちでサーシャの背を見送った。彼女は突然、「用事を思いだしまして」と席を立ったのだ。
 惜しいことをした。思う存分本の話をできる相手というのは貴重だというのに。
 胸ポケットから懐中時計を取り出し、すでに待ち合わせの時間を過ぎていることにトレイスは気がついた。場所を間違えたかと思い立ち上がったところで、柱の陰に身を潜めるようにしているレベッカを見つける。
「来ていたのか。すまない、気がつかなかった」
 縮まりかけたレベッカだが、隠れてどうする――と考え直し逆に胸を張るようにして、
「さっきの人って友達? 結構話が弾んでいたみたいだけど」
 唐突気味に本題を切り出した。
 人の交友関係には首を突っ込むまいと思っていたが、どうしても気になったのである。でも熱心に知りたがっていると思われたくないので、答を待たず彼女は目的地に向かって歩き出していた。
 トレイスも歩きながら応じる。
「いや、さっき初めて会った」
 まさか、とレベッカは思ってしまう。
 ――正直私とは今でも割と話がかみ合わなかったりしてるのに、初対面でああも……。
 もやもやとしたものが心に持ち上がってくるのはどうしようもなかった。
 ふぅん、と気のない返事を装ってからさらに訊く。
「それで、どうして熱心に話し込んでいたのかしら? まあ、どうでもいいんだけど」
 トレイスは小首を傾げた。どうでもいいと言いながら、なんだか眉を曇らせているレベッカの表情の理由をはかりかねたからだ。
 トレイスは経緯を語った。そうして、いささかの悪意もあれこすりもなしにこう加えたのである。
「なかなか話のわかる人だった」
 きっ、レベッカの視線がトレイスに向かった。鋭い光がこぼれる。
 だがそれは現れたと同時にもう消えて、レベッカはふたたび、へぇ、と興味があるのかないのか曖昧な口調で返事した。少なくともレベッカ自身は、曖昧な雰囲気を心がけたつもりだ。
「私もその本、読んでみるわ」
 思いつきで言ってみた――とう言外に匂わせている。
 その言葉の意図を深読みしようとせず、トレイスは素直に顔をほころばせたのである。
「そうか、それはいい。実にいいことだ」
 何か理由が? と訊かれている気がして、レベッカは目線を逸らせながら言った。
「別に疎外感を感じた訳ではなくて……」
 言葉の末尾は後半はもごもごした口調になって空気に溶けていった。
 ところがトレイスのほうは、レベッカの決心の理由を求めようとせず、うなずきながら、
「『カラマーゾフ』が文学史上の最高峰であることは否定しない。大袈裟ではなく、人生が変わる一冊になるかもしれないな。他にも『罪と罰』や……」
 と、またも多弁になるのであった。
 トレイスは嬉しいのだ。レベッカが、自分の好きなものに興味を示してくれたことが。
 なぜさっきの少女と張り合おうとしているのか、レベッカにはわからない。
 けれど思う。
 ――まあ、いっか。エッカートさんも嬉しそうだし。
 と。
 けれども。
 これを貸そう、とトレイスに渡された『カラマーゾフ』の分厚さ、ずしりとした重さを知ってレベッカは少し後悔した。
 さらに表紙に『上巻』と書かれているのを見て、もう少し、後悔した。



 メイリ・ヴィヴィアーニは急いでいた。待ち合わせ場所に急いでいた。
 これというのもホームルームが、無闇に長引いたせいなのだ。学校制度の不条理!
 弾丸みたいに走る。心は青い小鳥のように滑空してずっと先を進んでいるのだが、馳せる足のほうは翔ぶようにはいかず、信号待ちや踏切でいちいち捕まって、砂金のごとく貴重な時間を、さらさらと零れ落ちさせている。
 けれどもメイリは不平を言わない。言う前に行動するのだ。交通量の多い通りは避けて路地裏を進み、塀をくぐって柵を飛び越え、いささか危なっかしい勢いながら、うんとショートカットして時間と競った。
 息は荒く、額は汗で濡れたものの、それでも頑張った甲斐あって……ぎりぎりセーフ!
 チハヤ・クロニカはすでに待ち合わせポイントの書店前にいて、メイリに向かって手を……振れるような状況ではなかった。
 そればかりか、メイリの到着に気がついている様子もなかったのである。
「……ってナンパ!?」
 ぎょっとしてメイリは立ち尽くした。
 チハヤが話しているのはメイリの知らない女性だった。
 すらりと長い脚、グラマーな肉体、髪型は、濃いブラウンのショートボブ。黒いサングラスを外すと、トパーズ色をした切れ長の瞳が現れた。ぴったりした黒いパンツに、白いVネックシャツを合わせただけの装いなのに、モデルかと見まがうばかりに似合っている。年齢は二十代後半くらいだろうか。色っぽく、豹のようにシャープな印象もある。
 ――知的で格好いい大人の女性……クールビューティーって言うのかな……?
 メイリは我が身と彼女を比較せずにはいられなかった。
 彼女とチハヤの組み合わせは絵になる。まるでファッション誌の表紙だ。ワイルドさと都会っぽさの両方を兼ね備えたふたりは、均整の取れた組み合わせといえよう。
 なのに自分とチハヤとでは――。
 まず、身長が釣り合わない。
 年齢も差が大きい。
 容貌も……メイリには自信がなかった。
 自分たちふたりだと、良くて兄妹、悪くすると迷子とその手を引く親切なお兄さんに見えたりするのではなかろうか。
 なんかへこむなぁ――せっかくここまで超特急で来たというのに、メイリは小石を蹴り蹴り家まで帰りたくなっていた。
 でもなによりメイリの胸を痛めた事実は、このときチハヤが、メイリには見せないような表情を彼女に見せていたところである。

 メイリがショックを受けたチハヤの表情の正体は……『困惑』だった。
 正直、チハヤは困っているのだ、わかってくれ、というように彼女に告げる。
「なあ、俺、人を待ってるんだけど?」
「あれチハヤ? もしかして私に『どっか行け』って言ってる?」
「……言ってる」
「ちょっと冷たくない? 久しぶりにこうして会ってるってのに」
「たまたま出くわしただけだろ」
 逃れようとしたチハヤの前に彼女は回り込んだ。
「それはそうと、ねえ? 先週からルージュ変えてみたんだ。似合う? ダーリンは、前より情熱的になったね、って言ってくれるのよ」
「そうだな。わかった。もう行ってもらっていい?」
「なによ! ちゃんと話を聞きなさい! それでダーリンがね……」
 ここから彼女は怒濤ののろけ話モードとなった。『ダーリン』との生活をのべつまくなしに語り続けるのである。かつて典型的な肉食系女子で、恋から恋へと渡り歩いていた彼女をチハヤは知っているだけに、身を固めたとたんのこの豹変ぶりには内心舌を巻くのであった。それでも、惚れた腫れた二股掛けられた不倫だ略奪だ争奪戦だと波瀾万丈大騒ぎしていた独身時代の彼女に比べると、相当に落ち着いたものだとはいえるのだが。
 しかしまるきり聞き流せるほど、無意味なおノロケでもなかった。
「だから思うわけ。重要なのは心が響きあってることだ、って。年齢差なんて後でどうにでも埋められるから」
 甘い話の合間にときおり、彼女ははっとするようなことを口にしたのだが、とりわけこの言葉はチハヤの心に刺さった。
 彼女の『ダーリン』すなわち結婚相手は、彼女からするとなんと16歳も歳上なのだ。
 ――年齢差なんて後でどうにでも埋められる、か。
「そう思わない?」
 と訊かれて、
「俺は……」
 視線を泳がせたチハヤは、視線の先にメイリの姿を発見したのである。
 メイリはこっちを見ている。
 目を潤ませている。
 ほんの一押ししたら決壊しそうな、危なげなダムのように見えた。

 メイリは狼狽して目を擦った。
 チハヤが気付いた。こちらに来る。あの女性と一緒に!
 ――しかも相手の人も笑ってるし!?
 それに一番うろたえた。
 えっとえっといつも通りの対応しなきゃ――。
 すぐ目の前まで来たチハヤは、居心地が悪そうに頭をかいて、
「悪い。気付くのが遅れて。こっち、俺の……」
 と、かたわらの女性を示した。
 ガールフレンドとか恋人とか、そんな過激な発言をメイリは覚悟した。婚約者という衝撃的な言葉すら脳裏をよぎった。でも、
「俺の、叔母さん」
 ちょっと、拍子抜けした。だが疑問がないわけではない。
「叔母さん……? でも歳、ちー君とほぼ変わらないでしょ!?」
「なんだよ変な顔して」
 むくれ気味のメイリをなだめるように、その頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でて言う。
「父親の妹だよ。12歳も下のな。だから俺とは同年代に近い。たしか31歳だ」
 しまった、とチハヤは内心舌打ちする。年齢を暴露された叔母が怒るかと思ったのだ。
 ところが結婚した者の強みか、叔母は目を細めてメイリに挨拶したのである。
「叔母さんよ、よろしくね。あなたのことはチハヤから聞いてるわ」
 なんだー、と彼女はチハヤを肘でつついて、
「水くさいなあ『ちー君』、待ち合わせているのが彼女だったら、紹介くらいしてくれたって」
「……『ちー君』はよせ」
「いいじゃない。可愛いヨ、ちー君!」
「ああもう……! また俺を子ども扱いして……!」
 むすっとチハヤは返すと、改めてメイリに言う。
「ご覧の通りのキャラなんでな、叔母っていうより姉の一人みたいな気もしてる。まあ、このヒトが最近特に浮かれているのは、結婚したばかりってのもあるわけだが」
「イエス! 新婚さんなの!」
「それはおめでとうございます」
 急いでメイリは告げる。それと、遅ればせながらの「はじめまして」も。
 叔母はそれから、笑い話を交えつつチハヤの両親や姉たちの話をしてくれた。チハヤも不承不承ながら、エピソードの数々に注釈を入れたり説明を加えたりしている。
「俺の親戚、こういう無闇に明るいのばっかなんだよな……両親なんか万年バカップルだし……」
 頭が痛い、と言わんばかりのチハヤではあるが、メイリはうらやましく思うのだった。嬉しくもなる。
「そういえばちゃんとちー君の家族の話聞いたの初めてかも」
 なんだか彼との距離が、もっと近くなったような気がしたから。
 さて、と腕時計に目を落とし、叔母は「そろそろ行くね」と言いつつ、ぽんとチハヤの肩に手を載せた。
「最後に聞いておこうかな? チハヤって、この子……メイリちゃんのこと、どう思ってるの?」
「どう、ってパートナーだよ。命を預け合う間柄」
「そういう優等生的な答じゃなくって!」
「まあ理想通りではないけど……今一番大事にしたい子では、ある」
 なるほど、と叔母は笑って、
「せいぜいあがきなさいね」
 そんな謎めいた言葉を残して別れを告げたのだった。
 ふう、とメイリは息を吐いた。色々ハイパーではあるが、いい人だと思う。
 それはそうとして――。
「特に深い意味なんてないんだろうけど爆弾発言には気を付けてなのよ!」
 チハヤを仰いでメイリは声を上げた。
「爆弾? 考えすぎだろ」
 チハヤは素っ気なく返しながらも、そっと言い加えていた。
「でもまあ、お前の傍が一番リラックスできるのは事実だ」
 どん! これはメイリが両手で、チハヤの背中を叩いた音だ。彼の背後に回ったのは、照れ隠しのため。
 どんな顔をしたらいいのか困るではないか。
 ――まぁ、どんな形であれしばらくのあいだ、ちー君の隣は私だけのものなのは嬉しいけど……。



 巣箱の中の蜜蜂のように、多数の人々が行き来している。ここは大きな駅、その雑踏の中心部。
 夏の休日ゆえか、楽しげな顔が多かった。とりわけカップルが目立つ。待ち合わせている男女がいる。並んで歩く男女もいる。寄り添って歩く男女も……瀬谷 瑞希とフェルン・ミュラーもその一組だ。
「ミュージカル映画なんですよね? 知識がなくても楽しめるでしょうか……」
「大丈夫だと思うよ。音楽を楽しむにはもってこいの軽めのストーリーだって聞いてる」
 駅そばの映画館のチケットはもう押えてある。上映開始にはまだ間があるので、ふたりは会話を交わしつつ駅内を散策していた。ショップをのぞいてみたり、鑑賞後に入るカフェの候補を見つくろってみたり。
 そうしてエスカレーターを降りたところで、ふたりは予想外の闖入者に出くわしたのだった。
「やっとお会いできました!」
 たーっと四歳児が母親の胸に飛び込むようなスピードで、小柄な少女が駆け込んでくる。両腕ひろげてフェルンに抱きつきそうな勢いだったが、彼は無意識のうちに、半歩動いて突進をかわしていた。
 小さな砲弾のようになった彼女は勢いがとまらず、昇りエスカレーターの手すりに激突して乗り上げ、「うおわ!」と声を上げ階上に運ばれていった。
 ……あ、逆走して戻ってきた。
「あの……大丈夫ですか?」
 恐る恐る瑞希が声を掛ける。少女は息が乱れていたものの平気な様子で、
「はい! ご心配かけてすいません!」
 妙に甲高いトーンで返して片手を挙げた。
 お人形のように可愛いのだけど、なんだか違和感のある少女であった。高校生くらいだろうか。
 ストレートパーマを当てたばかりだろう、やけにまっすぐな紫色の髪をしている。けれどもその髪のこめかみのあたりが、うっすらではあるが渦を巻きつつあるのも見えた。よほど強靱な癖毛なのだろう。ロリータ系というのか、レースのたくさんついた桃色のワンピースを着ている。髪飾りもリボンという華やかさだ。ウサギちゃんのポーチに、ビクトリア朝時代みたいなパラソルをぶら下げていた。
 こんな一風変わった少女が相手でも、フェルンが紳士的な態度を崩すことはなかった。
「俺たちのことをご存じのようだが……?」
 優しい口調で問いかける。
 少女はローザと名乗って元気にこたえた。
「おふたりには、以前助けていただいたんです!」
「そんなことがありましたっけ?」
 ところが瑞希の明晰な記憶力をもってしても、ちょっと彼女のことは思いだせなかった。無論、瑞希はA.R.O.A.としてこれまで数限りない活動をしてきたので、ほんの少し関わった程度の相手だったとしたら忘れていても仕方のないところではあるが。
 だけどそれにしても――無意識のうちに自分のポニーテールに触れながら瑞希は思った。
 ローザというこの少女には、確かにどこかで会ったような気もする。
 ローザ、ローザ、ローザ……そもそも名前がひっかからないか?
 フェルンもとんと思い出せないようだ。
「助けてもらったと、お礼を言われるのは悪い気分ではないが……」
 と言いながら、やはり紳士的な物腰を崩すことなくそっと半歩、無意識のうちに後退していた。
 ――このお嬢さん、パーソナルスペースが狭いのか近い近い。
 彼は少々困惑しているのだった。
 ローザがなぜか、やたらとフェルンの近くに立とうとするのである。ややもするとくっつきそうな距離にまで。
 それでもフェルンは心中をあきらかにせず、銀行員のように慇懃な笑みを浮かべた。
「いずれにせよ、どういたしまして、と返させていただくとしよう」
 このときようやく瑞希はピンと来た。
 ローザじゃない。ローズだ。
 プリム・ローズ! マントゥール教団テューダー派の。
 ファッションと、これに合わせたメイクと声色に惑わされがちだが、よく見れば彼女はやたらとプリムに似た顔立ちをしているのである。
 既視感の理由がわかって一安心、とはいかない。そのときすでに『ローザ』はさらに大胆な行動に出ていたのだ。
 フェルンが身を引いたというのに意にも介さず、するっと猫のように、ローザは彼の間近にすり寄ったのである。
 しかもそうして彼の手を握って、
「あの日から私……あなたのことが忘れられなくて……」
 などと小声で、頬を染めつつ言ったのだ!
 フェルンもさすがにこれには動揺しないではなかったが、表情は水面のように沈着に、
「いえいえ」
 これはどうも、と手を入れ替えて、軽く握手する姿勢に変えた。彼女の妙な発言はさらりと聞き流す。
 一瞬の行動だったから不審な点はないはずだ――フェルンはちらとミズキの顔色を窺った。
 あれ? とは瑞希も思いはした。なんだか少女が、フェルンと腕でも組みそうな勢いだったからだ。なにか言ったかもしれないが聞こえてはいない。
 けれども気になったのはそれくらいだった。フェルンはごく自然に、少女と握手をしていたのである。
 しかし感心しないでもない。誰に? もちろん自称ローザにだ。瑞希からすれば、彼女はフェルンに警戒心を起こさせることもなく、するりと接近してボディタッチしたという格好である。たとえるならば、対戦相手の懐を瞬時にして取る柔術の達人……恐るべき行動力ではないか。
 ――これが女子力とかいうものでしょうか。
 ちょっと、憧れないでもない。
 服装を含め、少し参考にさせてもらいましょう――と瑞希は思う。あのポーチは、あんまり参考にしたくないが。
 一方フェルンは、瑞希が怒っている様子ではなさそうなので息をついていた。
 ミズキってこういうことには少し無頓着だからね――。
 気にする必要はない。むしろ、信頼されているという証でもある。
 フェルンにとっては良かったような。
 少し、淋しいような。
 ここまでたくみに外されて、ローザのほうはアテが外れたと言いたげな表情だ。ガゼルに逃げられたチーターが、うぐぐ、と牙を向いているようにも見える。しかもその目は、フェルンだけではなく瑞希の様子もうかがっていた。
 ――ミズキを嫉妬させようとしたのか?
 直観的にだが、フェルンは相手の狙いが読めたような気がした。
「今日はお目にかかれて光栄だったよ。ところで我々には所用があってね」
 そろそろ失礼するよ、とフェルンは紳士的態度をいささかも崩すことなくローザに告げた。
 上手にあしらわれた格好だ。さすがに少女も、
「あ、はい、どうも……」
 と、ぎこちなく返すことしかできない。
 行こう、とフェルンは瑞希に呼びかけて背を向けた。
 ローザという少女にどんな意図があれフェルンには関係がない。今、彼が優先すべきは瑞希なのである。
 ――ミズキとの時間を大切にしたいからね。
 他の女性がフェルンの心に、忍び寄る余地はまるで存在しないのだ。
 ローザも諦めたのか、肩を落として去って行った。
 ところがこのとき、瑞希は振り向いて彼女に呼びかけていたのである。
「ローズさん」
「なに?」
 といささか邪険な表情で振り向いて、ロー『ザ』はびくっと肩を強張らせた。
「ロロ、ローズ? 私はローザですよ。プリム・ローズなんて人知りませんわ」
 オホホ、と笑う口調が妙に棒読みだ。
「あ、間違いです。ローザさん」
 プリムのことを考えていたせいで言い間違えたのだ。瑞希は素直に謝って、
「傘、落としましたよ」
 彼女に歩み寄り、にこやかにパラソルを手渡したのである。フェルンに急迫したときに落としたものと思われる。
「……ありがとう」
 受け取る瞬間、プリム・ローズ(ローザ)はボソっと、瑞希にだけ聞こえるような声で告げた。
「今日は私の負けね」
「え?」
 勝ち負けを競うようなことがなにかあっただろうか? 瑞希にはわからない。
「認めてあげる。あなたは私のライバルよ」
 ライバル? 何の?
 しかしローザが真顔だったのは短い時間のことだ。すぐにまた笑顔で、
「ではご機嫌よう」
 ひらひらと手を振り小走りで去ったのである。
「あ、どうも……」
 つられて瑞希は手を振り返した。
 不思議な子だったな、と瑞希は思った。
 変な子だけど、また話してみたい気もした。


 まだ昼前だというのに、蝉の声も陽射も強烈だ。外を歩いているだけで、全身に陽射しと音のシャワーを浴びている気になる。
 これで七日連続の快晴、見上げれば入道雲と青い空。
 今日も暑くなりそう――と思いながら桜倉 歌菜は道をゆく。手に提げた籐編みのバスケットには、手作りのマスカットゼリーが入っている。目指すのは月成 羽純のバーだ。今頃はきっと、開店の準備をしていることだろう。
 しかし歌菜は、店に着くより先に羽純の姿を発見したのである。
「……羽純くん?」
 道ばたの木陰、広葉樹がもたげる影絵の世界のような場所に羽純が立っていた。
 ただし、彼は単身ではではなかった。
 歌菜の知らない女性と、抱き合った体勢で立っていたのだった。
「――!」
 柔らかな音を立ててバスケットが落ちた。
 それを気にする余裕は歌菜にはなかった。頭の中が、封を切ったばかりのノートのように真っ白になっていたから。
 羽純が顔を上げるのがわかった。驚愕の表情だ。
「歌菜、これは……」
 ぱっと女性から離れ、彼は歌菜に歩み寄ろうとする。弁明でもしようというのか。
 しかし歌菜に彼の言葉を聞く余裕はない。そればかりか、彼が近づいてくることすら我慢ができなかった。
 そのとき歌菜の感情は、風船を針で突いたように爆発した。
「羽純くんの、バカ!!」
 自分でも驚くほどの大声を上げ、歌菜はきびすを返し走り出したのである。
 羽純が声を掛けてくるのだが聞こえない。
 あれほどうるさかった蝉の声も聞こえない。
 なにも聞こえない。聞きたくない。
 ただただ走った。
 衝動が歌菜を走らせている。どこを目標にしているわけでもない。走ることそのものが目的なのだ。肺が破れるくらい走った。いや、もう歌菜の肺は破れ、血を流していたかもしれない。
 やがて息が切れて、どことも知らぬ無人の路上で、歌菜は足を止めていた。同時にその場にしゃがみこんでしまう。
 頭がぐらぐらする。両脚がじいんと痺れている。
 私、何やってるんだろ――このときようやく、彼女の意識は体に追いついた。
 ――羽純くんはそんなことをする人じゃない……分かってるのに……不安で……。
 歌菜の心に黒い染みのような不安を生ませたもの、それは、羽純と抱き合っていた女性の姿だった。
 その姿を歌菜は、ほんの一瞬しか目にしていない。
 けれども彼女の容姿は、銀塩写真のように歌菜の脳裏に焼き付いている。
 綺麗な大人の女性、そう歌菜は判断した――私とは全然違う、と。
 夏らしい絽目の着物、白地に、艶やかな茶屋辻模様。髪型は夜会巻風にアップにして、白い襟足を誇るように見せている。総じて、清楚な人妻風と言えようか。
 そんな女性が羽純と一緒にいた。そればかりか彼と親密げに抱き合っていた。そのことが許せない。
 なんて醜い嫉妬だろう――歌菜はこのまま、頭上に輝く炎熱に溶けて消えてしまいたいとすら願った。

 羽純がその女性と出会ったのは、開店前の買い出しの途上であった。
 オリーブのピクルスが切れたので、馴染みの食料品店まで遠出していたのだ。通常のものであれば夕方になってから近場のスーパーに行けば揃うのだが、あの店のオリーブ瓶詰めだけは唯一無二だ。せめて暑い盛りになる前に、と、やや早い外出となっていた。
 路地の端、日陰にほの白い姿を見かけた。彼女は、羽純の姿を見るやうずくまった。
「どうしました?」
 声を掛けると女性は、「草履の鼻緒が……」と足元を示した。なるほど、足袋の爪先で鼻緒がちぎれている。
 まるで羽純が来るのを待っていたかのようなタイミングの悪さ(良さ?)だが、疑いもせず羽純は自分のハンカチを裂いて応急処置を施した。
「これで歩けますか?」
「ご親切に……」
 と顔を上げた女性を見て、羽純はいくらか驚いた。着物と、かたわらに置いた竹製の和日傘から、もっと年配の女性を想像していたからである。けれど改めて彼女を見るともっとずっと若くて、自分と同じか、いくらか歳上くらいに見えた。
 そして、息を呑むほどの美女だった。昔の映画女優風の。
 もっとも、彼女の美を目にしても羽純には恋慕の情はわかず、名工による陶芸品を見たときと同じような感慨を抱いただけだが。
 羽純を驚かせたのは、彼女の若さだけではなかった。
 ――どこかで見たような……?
 初対面にもかかわらず、変になじんだ感覚があった。
 それにどうにも、彼女の容貌には『作り物』のような印象もあるのである。イミテーションというか、漫画の登場人物風というか……ちょっと現実から浮いているような。
 このとき和服の女性が急に動いた。
「あっ」
 なぜか突然よろけて、羽純の支えを求めて両手を伸ばしたのである。
 反射的に彼は彼女を受け止めて、ほぼ同時に、
「羽純くんの、バカ!!」
 雷鳴のような、歌菜の叫びを聞いたのだった。
 一瞬唖然とするがただちに気を取り直し、羽純は歌菜を呼びながら歩み、走りだした。途中、歌菜が落としたバスケットを拾っている。
「あー、私は、紗々(さーしゃ)と申しま……ちょっとー」
 背後で和装の女性が何か言ったようだがもう随分距離が空いていたので、声は羽純の耳には届かなかった。

「バル様ー」
 ひょいと振り返って紗々ことサンチェスは言った。
「ぜんぜん駄目ですー」

 まもなくして羽純は歌菜に追いついている。
 しゃがんだ彼女の背を見ると、ほっと息を吐いてゆっくり歩いて近づいた。
 膝を曲げて歌菜の背を撫で、そっと告げた。
「顔、上げてくれないか?」
 けれど歌菜は顔に両手を当て、いやいやする少女のように首を横に振ったのである。
「今は見ないで……顔ぐちゃぐちゃで……」
 その涙声に、羽純は胸に痛みを覚えた。
 けれどもそれを押し殺し、やはり優しく問いかける。
「……以前、俺をナンパしてきた女を追い払ったときの威勢はどうしたんだ?」
「だって、あのときとは違う……」
 違わないだろ、と羽純は言う。怒りを含まぬ、口の中でキャラメルを溶かすような口調で、
「そんなに俺が信用できないのか?」
「羽純くんがあの人を選んだとしたら私……」
「まさか」
 羽純はきっぱりと言う。
「俺が他の女を選ぶと? ……歌菜はそれでいいのか?」
 ありえない話だ。自分の言葉に一片の偽りもないことを、羽純は我ながら晴れ晴れしく思った。
 その意が通じたのか、ようやく歌菜の言葉はいくらか和らいだ。
「ううん、嘘だ。嫌……羽純くんを奪われたくないよ」
 やはり涙声だが、見え隠れしていた棘はもう含まれていない。
「お願い、嫌いにならないで……」
 震えているのだ。羽純には理解できた。歌菜の心が。雨宿りしている子猫のように。
 抱きしめたい――このとき、羽純に生じた気持ちだ。
 その衝動に彼は従った。背後から、優しく。
「……馬鹿だな」
 不格好かもしれないが気にしない。背を丸めて頬を歌菜の背にくっつける。
 そして話した。背を通過し、彼女の心臓に届くように。
「どうして俺がお前以外の女を選ぶと思うんだ。嫌いになる訳もない。約束したろ?」
 ……数分、そうしていたと思う。
 やがて、ぐすっ、と歌菜が涙をすする音が聞こえた。
「信じてくれたか?」
 こくりと歌菜がうなずくのが見えた。
「じゃあ、立とうか?」
 ところが歌菜はまた首を振ったのである。
「できない……」
 一瞬羽純は顔を曇らせたが、すぐ誤解は解ける。
「だって……安心したら腰が抜けちゃったから」
 思わず噴き出しそうになったが羽純はこらえた。けれど顔には笑みがひろがっていた。
「まったく……歌菜らしいというか」
 よし、と籠を腕にぶらさげたまま羽純は立ち上がる。仕方のないお姫様だ。お姫様らしく横抱きにして運ぶか、それとも、オーソドックスに負ぶっていくか。いずれにせよ恥ずかしいだろうがお互い様だ。よし、歌菜自身に選ばせよう――。
 けれどその問いを切り出すより先、こちらの顔を見られる前にこれだけは言っておこう。
「………嫉妬してくれたの、嬉しかった」

 ゼリーは崩れてしまったものの、冷して食べたら美味だったということも、書き加えておきたい。
  



依頼結果:成功
MVP
名前:レベッカ・ヴェスター
呼び名:レベッカ
  名前:トレイス・エッカート
呼び名:エッカートさん

 

名前:メイリ・ヴィヴィアーニ
呼び名:メイ
  名前:チハヤ・クロニカ
呼び名:ちーくん

 

メモリアルピンナップ


エピソード情報

マスター 桂木京介
エピソードの種類 ハピネスエピソード
男性用or女性用 女性のみ
エピソードジャンル コメディ
エピソードタイプ EX
エピソードモード ノーマル
シンパシー 使用可
難易度 簡単
参加費 1,500ハートコイン
参加人数 5 / 2 ~ 5
報酬 なし
リリース日 07月16日
出発日 07月22日 00:00
予定納品日 08月01日

参加者

会議室


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