プロローグ
日曜日、天気は晴れ。それも二重丸を付けたいくらいの晴れだ。
今日は彼と久々のデート、ドライヤーで髪を乾かしているあなたは、鏡の中にちらと、父親が横切っていく姿を目にした。
スーツを着ている。ネクタイを直しながら歩いていた。
平日はいつもぱりっとスーツだが、日曜はたいてい昼までパジャマで、寝癖も直さずボサーっとしている父にしては珍しいことである。日曜出勤? でなければ法事かなにかだろうか。
しかしあなたはにわかに不安な気持ちになった。たとえるならばそれは、猛犬注意、と書かれた家のドアベルを押すときのような気持ちだ。とんでもないものが飛び出してきそうな、そういう不安。
まさか――。
そのまさかであった。
父は、彼に会わせてほしいと言うのである!!
「いつも娘がお世話になっております、と、そんなあいさつに行くだけだ」
と本人は主張するのであるが、この『背広』と書いて『フルアーマー』と読みそうないでたちを前にして、あなたはそれを字義通りに受け取るわけにはいかない。今の父はどう考えても、
「ところで君は、娘との将来についてどう考えているのかね?」
……とか言い出しかねない危うさをはらんでいるではないか! ヒーッ!
「デートの邪魔する気はない。1時間も話したら帰るから」
ちょっとちょっとちょっと! 1時間『も』話す気なのか!
だがそんなあなたのジタバタぶりもどこ吹く風、涼しげに笑いながらも父はもう、駅へ向かって歩き出している。
ああもう――!
昨夜ついうっかり、明日がデートであると口にした油断をあなたは後悔している。それをいうなら、待ち合わせ場所までペラペラしゃべってしまった己の軽率さも。
逃げようか。
背中から翼を生やして飛んでいってしまおうか。
けれど、どこへ逃げるというのか?
そもそも、彼を待ちぼうけにして?
……こうなったらもう覚悟を決めるほかない。あなたはため息とともに、父の隣を歩くのである。
まあ、でも彼なら――とあなたは思う――お父さんだって、認めざるを得ないはずだ。
たぶん。きっと。
……と、いうのはもちろん一例だ。
ある日、降ってきたのは大ピンチ!
表題は『お父さん』だが、もちろん父親に限定しない。
あなたの、あるいは彼の、
お母さんが、
おじいちゃんが、
妹が、
執事が、
ばあやが、
はたまた剣の師匠や中学時代の親友が……、
ひょんなことから、あなたと彼のひとときにお邪魔する!
……それを乗り切る、さもなくば、乗り切れない(!)というお話である。
かわいい愛称で呼ばれ赤面したり、知られたくなかった黒歴史をさらりとバラされ悶絶したり、あるいはその人と彼が妙に意気投合してしまってそれはそれで居場所がなかったり、といった風に、頭をかかえて「もー!」と叫びたくなるような、そんなフクザツな一日がやってくる!
解説
デートでも、依頼後のささやかな打ち上げでも、あるいはA.R.O.A.での会議の帰路でもいいのですが、神人のあなたと精霊の彼が連れ立っているところに、思わぬ闖入者が現れてしまいます。
タイトルには『お父さん』が入っていますが、あなたないし彼の家族親族に限らず他の関係者でも構いません、ともかく『ちょっとこの状況に訪れるとは思っていなかった誰か』がやってくるのです。
彼の天然お母さんが登場し、うっかり発言を連発して彼がたじたじになるとか、あなたのハイパーお姉さんが現れて彼をチェックしまくるとか、職場の同僚から「もしかして彼氏!? カッコイイ! 紹介して紹介して!」と困った展開になるとか、色々パターンがありそうですね。
関係者については、アクションプランで『これこれこういう人です』と詳しく指定して下さっても、『だいたいこんな感じ』とマスター任せにして下さっても結構です。名前もあってもなくても大丈夫、ご希望とあればマスターのほうで名付けておきます。(名前は「なし」で、というのも対応しますよー)
コメディ風のタイトルですが、シリアス展開でも歓迎いたします。
なお、なんやかんやで300~500ジェール程度かかります。
ゲームマスターより
例で上げたような気恥ずかしい展開になるのはもちろん、彼の母親に正式に紹介されるという緊張しまくる展開、姪っ子である赤ちゃんをふたりでアタフタとあやすなんていうハートフルなお話も面白いと思います。
どうぞ自由に、想像の翼を広げてみて下さい。
それでは、次回はリザルトノベルでお目にかかりましょう。
桂木京介でした。
リザルトノベル
◆アクション・プラン
リチェルカーレ(シリウス)
A.R.O.A.の受付に見覚えのある人影 …お母さん? 薄い茶色の髪 明るい水色の瞳 笑う母を見てぽかんとした顔 うちとタブロスは大分離れていると思うんだけど… 全然迷惑じゃないわ 折角だからお茶に行かない? 美味しい喫茶店があるの 母と同じ顔で首を傾げ 彼を見る 何故?全然邪魔じゃないわ ーお母さん!そんなことシリウスに言わなくたって! 慌てて母の口を抑える 彼の視線に赤く にこにこ笑顔で暴露されて小さくなる 「無理をしているって言っていました …体の具合はいいんですか?」 「今度から体調が悪ければ家にいらしてね リチェのお婿さんになって来てくれたら もっと嬉しいんだけど」 さらりと言われ 数秒遅れて真っ赤に (シリウス 笑ってる |
向坂 咲裟(カルラス・エスクリヴァ)
カルラスさんとお出かけ中に お買い物中のお母さんと会うなんてね カルラスさんにお母さんを紹介するわ でも…何故かしら カルラスさんとお母さんがお話ししているのはなんだかこう…違うのよ 楽し気な二人の横でなんとなく周りを見渡して…あクレープ屋さん 皆で美味しい物を食べると気分も良くなるかしら 2人に提案して買ってくるわ 戻ってクレープを渡して…あらお母さんもう行くの? ねぇカルラスさん。お母さんと何を話していたの? カルさんからの言葉に目をぱちくりさせた後胸を張ってこう言うわ ええ、向坂咲裟の家族はとってもとっても素敵なのよ ◆咲裟母 向坂 エレナ 30代 髪は咲裟似 瞳は青 性格はのんびり 家族への愛情が深い カルラスの長年のファン |
ミミ(ルシード)
うっかり待合せ場所を駅前と口滑らせ父がついてきた 父:ミミと似てる、170弱、普通の40代会社員、名前おまかせ 建前:挨拶 本音:牽制 巻こうとして失敗、遅刻 遅れてごめんなさい! …えっと、父です ご、ごめんね。すぐ帰ってもらうから… え、待って、流されないでお父さん! はあ、やっぱり私お父さん似なのかな… …き、気まずい! お父さん、勝手についてきたんだし何か喋ってよ 小声でぼそぼそ。袖ぐいぐい 何かある、でしょ?定番のとか…あ、でも言われても困るような… 父が帰り安堵の吐息 うちの父がすみません… そうですね、やっぱり親子ですし え、むりむり!むりです! ルシードさんて前向き、だよね 気兼ねなく話せる仲に、なれるのかな… |
アラノア(ガルヴァン・ヴァールンガルド)
精霊父 ヴァルリエル・ヴァールンガルド 一人称 私 伯爵風イケおじ魔性族 角 尻尾 髪色 表情 仕草 口調等が子とそっくり いつものように歩いていると 宝石店のショーウィンドウを真剣な眼差しで観ている人影 あれ…? あの人、ガルヴァンさんと似ているような… え… お父さん…?! 声に気付いたのか振り向く わ…今の振り向き方と表情ガルヴァンさんっぽい 厳格で厳しそう… 喫茶店 場違い感に固まる は、初めまして… 曰く息子が迷惑を掛けていないか い、いえ…!迷惑を掛けてるのはむしろ私の方で…! 本当に、いつも守っていただいているので心から感謝しているんです 曰く…そうか わっ 頭ポンポンされ …あれ?この撫で方… 無愛想で少し不器用な… ああそうか 親子だなぁ |
長雨の季節が去るとたちまちに夏、強い日射しに蝉の声、ずっと夏であったと言わんばかりに。
太陽は、街ゆくふたりの真上にあった。
「暑いね」
アラノアが言った。黒地にレース飾りの傘を肩にかけている。
「暑い……か。そうだな」
いま気がついた、といった表情で、ガルヴァン・ヴァールンガルドはアラノアを見た。軽くウェーブのかかった髪が、首の動きにあわせてふわりと揺れた。
「ガルヴァンさんって、夏でもジャケットをきっちりと着てるよね。暑くない?」
いま急に宮廷晩餐会に招待されても、そのまま出席できそうな彼なのである。
「サマージャケットだ。上着があるほうが落ち着くというのもある」
炎天下というのにガルヴァンは汗一つかいていない。
ガルヴァンさんって体温が低いのかな――アラノアは考えてしまう。肌も氷枕みたいだったりして……。
彼女の想像は突然に途切れた。
行く手に、既視感のある人物を見かけたのだ。
彼は宝石店のショーウィンドウを見ていた。真剣な眼差しで。
――あの人、ガルヴァンさんと似ているような……。
左右対称の角、葡萄色の髪、隙ひとつない正装、腰から伸びた黒い尾……尾の先がスペード型をしているところまでそっくりだ。
けれど彼はガルヴァンよりは年輪を重ねていた。20年後といった感じだろうか。髪型も、短く揃えたオールバックだ。
「ん……?」
アラノアの視線を追って、ガルヴァンは小さく絶句する。ややあって、述べた。
「まさか、父……さん……」
「お父さん!?」
アラノアは頓狂な声を上げてしまった。それに気がついて、「彼」が振り向いた。
凜として鋭く、その反面優雅で、よく研磨された典礼用サーベルのごとき仕草。
眉間に怪訝なものを浮かべつつ、それでも威容を感じさせる表情。
――わ……今の振り向き方と表情、ガルヴァンさんっぽい。
一方でアラノアは彼に、厳格そう、という印象も抱いている。
「ガルか、久しいな」
喫茶店に席を取り、ガルヴァンとアラノアが隣り合って、ガルヴァンの父――ヴァルリエル・ヴァールンガルドと向かい合うという構図になった。
ヴァルリエルはカップを悠然と口に運んでいるのに対し、ガルヴァンのほうは茶に手もつけず、
「……それで、何故ここにいる」
憮然とした口調である。
「成長ぶりを見に来た」
「ご覧の通りだ」
どことなく喧嘩腰のガルヴァンに対し、父はずっと悠揚だ。軽くいなすように言う。
「そう結論を急ぐな」
「母さんは」
「息災だ。出がけも、部屋で新作のデザインに苦悩していたよ」
ガルヴァンは軽く息を吐き出していた。安心したとでも言うように。けれども追求は続ける気らしい。
「来る知らせはなかったが」
「その方が取り繕わずに済むだろう」
「……つまり抜き打ちか」
「そうとも言うな」
アラノアは固まってしまい声が出せない。父子のやりとりはまるで鴻門の会だ。流麗に見える剣舞が、いつ剣戟になるやら知れたものではない。
「……残念ながらまだ納得のいく領域にまで達していない」
ガルヴァンは腕組みしかけたが、失礼にあたると思ったのか途中でそれを解く。
ところで、とヴァルリエルはアラノアに目を向けた。
「そろそろ紹介してくれんか? そちらの淑女を」
――淑女!
その言葉を聞いただけで、背中に電気が走ったようになるアラノアだった。
「ああ、紹介し忘れた。神人のアラノアだ」
ガルヴァンの紹介は実に簡素だ。けれども言い方には親愛の情が感じられる。
緊張しながらアラノアは頭を下げた。
「は、初めまして……」
「よろしく願う。ヴァルリエル・ヴァールンガルドだ。ジュエルデザイナーをやっている」
そしてヴァルリエルは楽しげに言うのである。
「ガルは顔も髪質も母親似でな、故に幼い頃はよく女の子と間違えられたものだ」
おい! と言わんばかりの目でガルヴァンは父親をにらみ付けていた。暴露されたくない話だったようだ。ただ彼も、会話を邪魔するのはこらえていた。
「息子が迷惑をかけていないかな?」
「い、いえ……! 迷惑をかけてるのはむしろ私の方で……! 本当に、いつも守っていただいているので心から感謝しているんです」
「そうか」
ヴァルリエルが目元を緩めるのをアラノアは見た。
そして彼は、息子にも同じ笑みを向けたのである。
「良い神人と出会えたな」
「……まあ、な」
かすかながらガルヴァンは嬉しそうな目をした。
アラノアは気付いた。
ガルヴァンは素っ気ない態度を取りながらもその実、父親のことを尊敬しているのだ。ただ、素直になれないだけなのだ。
気が緩んだせいか、アラノアはティーカップに添えられたスプーンを床に落としてしまった。
「わっ!」
すいません、と椅子から飛び降りるようにして拾う。
このとき、優しい手が彼女の頭に触れた。ポンポンと撫でられる。
「気にせずともよい」
ヴァルリエルの手だった。
――あれ? この撫でかた……。
無愛想で、少し不器用、この感触をアラノアは知っている。
ああそうか、と彼女は思った。
――親子だなぁ。
とも。
●
もー!
ミミは、両手を頭に乗せしゃがみこみたい気持ちだ。
昨夜うっかり口を滑らせて、彼女は今日の約束と待ち合わせ場所を父親に話してしまっていた。
父のケンは温厚で真面目、ミミにも優しいが頑固な面もあった。だから彼が回れ右してくれるような可能性は一億分の一もないけれど、それでもミミは問わずにはいられなかった。
「本当に来るの……?」
「もちろん」
爽やかにケンは笑う。年齢は四十代半ば、髪にもちらほら白いものが混じっている彼ではあるが、こうして歯を見せて笑むと今なお青年のようである。
やはり計画変更の意思はないらしい。途上で一度ミミは父を撒こうとして果たせず、数分を無駄にしていた。
このとき、父の表情が強張った。
駅前広場に、すっくと立つ人物を認めたからだ。彼の顔は知らないはずだが、確信したものらしい。
ルシードだ。
彼はつややかな蜂蜜色の瞳で街路時計を見上げている。その整った容貌は、多数の人が行き交うこの場所でも目立っている。
ルシードの視線を追い、ミミはすでに待ち合わせ時間から五分ほど経過していることを知った。
いけない、と小走りで彼の元にむかう。
「遅れてごめんなさい!」
ルシードは気がつくと、ミミに向かって片手を上げ……固まった。
ミミの隣に見知らぬ男性がいる。けれど、
――どこかで見たような……。
ルシードには既視感があった。初対面ではないと思うが、誰だったか。
ミミが足を止めた。けれどケンのほうはさらに数歩進んだ。
そうして、触れあえるほどの距離で、ケンとルシードは向き合ったのである。
ルシードは記憶を探るのに忙しく言葉が出てこない。
一方でケンも長身の青年から直視され、用意していた挨拶を忘れてしまったようだ。
互いに、無言である。
湖に張った薄い氷に両足を乗せた心境で、ミミは二人の顔を見比べていたが、意を決し、
「……えっと、父です」
と告げた。
ルシードは魔法が解けた思いだ。確かに、父親の理知的な目と形のいい口元はミミとよく似ている。頭を下げ挨拶した。
「はじめまして。ルシードと申します。お嬢様のパートナーを務めさせていただいております」
けれどケンは、まだ気圧されている様子で空々しく笑った。
「父親のケンだ。君のことは娘から聞いているよ」
とりなすようにミミが、
「ご、ごめんね。すぐ帰ってもらうから……」
と言うも、大丈夫、というようにルシードはうなずいて、ケンに呼びかけるのである。
「立ち話もなんですから、どこかでお茶にしませんか」
「いいね」
即答。父はなぜか胸を張った。
――え、待って、流されないでお父さん!
ミミの目は×印になる。挨拶終了はいサヨナラ、といきたかったのに!
手近なカフェで、親子とルシードが対面するように席取った。
ルシードは微笑んでいるが、『わざわざ来てくれたのだし、きっとケン氏から話があるのだろう』と信じており自分から話を切り出さない。
ところがケンのほうもまた、愛想の良い表情をしながらも何一つ言葉を口にしないのである。
給仕に注文をした。
コーヒーと茶菓子が運ばれてきた。
でもこのテーブルについてから、会話はただのひとセンテンスすら流れていなかった。
――き、気まずい!
ザ・針のむしろ! ミミは逃げ出したい気分だ。
彼女はテーブルの下で父親の袖をぐいぐい引いた。
「お父さん、勝手についてきたんだし何かしゃべってよ……」
ひそひそ声で告げる。
「といってもだな……」
でも父の反応は煮え切らない。
「何かあるでしょ?」
「何が?」
「定番のとか……あ、でも言われても困るような……」
『娘との将来についてどう考えているのかね?』と父が言いだしたら、きっとミミは爆死する。
一方でルシードは、父娘のやりとりを楽しく眺めていた。彼らの会話は丸聞こえなのだが、仲が良さそうで羨ましいと思う。
どれくらい無言の時間が経ったか。
突然、ケンが立ち上がった。
「そろそろ仕事の待ち合わせが……失礼するよ」
伝票を持って行こうとしたので、「誘ったのはこちらですから」とルシードが言い、「いいからいいから」と父は断って姿を消した。
彼らが店に来て交わした会話は、この短いやりとりだけだった。
はぁー、とミミは安堵のため息を吐き出していた。
「うちの父がすみません……」
合掌してしまう。けれどルシードは手を振った。
「いや、興味深い経験だった。お父さん似なのだな、ミミは」
「そうですね……やっぱり親子ですし」
よくそう言われるが、複雑な気分である。
ルシードは自分の左手首を、右手で引っ張るジェスチャーをした。
「俺にもあれぐらい気安く接して構わない」
ところがミミは力強く首と両手を振るのだ。
「え、むりむり! むりです!」
「そうか……」
ルシードは、しぼんだ朝顔の花みたいな気分になる。俺がいけないのだろうか――。
だが彼は前向きだ。まあ、いずれは、と思い直すことにした。
ミミもぼんやりと考えていた。
――気兼ねなく話せる仲に、なれるのかな。
もしかしたら、いずれは……?
●
外の炎天下とは別世界、真夏のショッピングモールは、適度に冷房が効いていてすがすがしい。ちょうど夏期休暇がはじまった頃ということもあって人出は多いものの、決して不快なほどではない。
さてそのにぎやかな場所で向坂 咲裟とカルラス・エスクリヴァが遭遇したのは、月光のようなブロンドを長く伸ばし、夢見るように蒼い瞳をもつ女性であった。髪色のみならず顔立ちもどことなく咲裟と似ている。
それもそのはず彼女こそ、咲裟の実の母こと向坂 エレナなのだった。
「あら? 偶然ね」
エレナが見せた笑顔は清らかで、語調も、雪解けの水が小川となって流れるかのようである。
エレナに紹介されてカルラスは、さすがに驚きを隠せなかった。
「ええと……」
若い頃はアリーナ級の大舞台に上がったこともある名チェリストといえども、幾千幾万の目よりも、ただ一対の視線に緊張することもある。
それでも彼は改まって自己紹介したのだが、そのときずっと、エレナは両手を胸の前で結んで、それこそ乙女のように目を輝かせたていた。
「娘がお世話になっております。お目にかかりたいと思っていました」
おっとりした口調ながら、感激に胸震わせている様子が声色に現れている。
「私、カルラスさんのファンなんです」
カルラスは思い出した。
咲裟の自宅にあったオーディオセット、そのすぐそばに飾られていた写真。
いくらかセピア調になったそのポートレイトは、若き日のカルラスを撮影したものだった。
『お母さんがカルさんのファンなのよ。ワタシが生まれる前から、ね』
咲裟の言葉も憶えていた。
最近は表立った活動はしていないというのに、こうして今も記憶していてくれる人がいる。
あまつさえ、ファンだと名乗ってくれる。
……面映ゆいとはいえ、悪い気はしなかった。
「恐縮です」
カルラスは相好を崩して会釈した。
エレナはつづけて、カルラスに関する様々な知識を披露してくれた。いわく、何年のコンサートは名演だった、とか、優勝したときのコンサートの実録盤をまだ持っている、とか。カルラス自身がすっかり失念していたような事項まであった。
「よくご存じで……そんな頃のことまでチェックしていて下さったなんて光栄ですよ」
「尊敬する音楽家のことですもの」
このとき咲裟は置いてけぼりを食ったような格好で、自分の頭上で展開されるカルラスと母の楽しげな会話を聞いていたが、いつの間にか腕組みしていた。
――なぜかしら。
地熱のように浮き上がってくる、このしっくりこない気分は何だろうか。
――カルラスさんとお母さんがお話ししているのはなんだかこう……違うのよ。
上手く一言で表現できないものの、ともかく、このままではいけないという気がした。
なんとなく周囲を見回して、咲裟は小さな店舗を見つけていた。
「あ……クレープ屋さん」
皆で美味しい物を食べると気分も良くなるだろうか。
買ってくるねと簡単に断りをいれて、咲裟は駆け足でそこを離れていた。
咲裟が離れると、それまで『音楽家のファン』だったエレナが、たちまちにして『母親』の顔へと復した。
それも、『神人としてときに、命を危険にさらす任務すら請け負う娘』を持った母親である。
「あの子は……ちゃんと活動できているでしょうか?」
言葉こそ控え目だが、そこに込められているメッセージは明白だ。
「ええ、その点は、目を見張るほどのものがあります」
言葉を選びながら応えるカルラスにうなずくと、エレナはさらに心の内をさらした。
「あの子は夫に似て自分の芯を持っています。あの子が望んだ道でも、それでも……不安なんです」
非難する口調ではない。
けれどもカルラスにも、エレナが抱いている、ときとしてそれに押し潰されそうになる不安の大きさは痛いほど伝わっていた。
カルラスは居住まいを正すように直立の姿勢となり、頭を下げた。
「改めてご挨拶が遅くなって申し訳ない。ウィンクルムのパートナーとして、必ずお嬢さんを守り、傷つけないと誓いましょう」
軽々しく口にした言葉ではない。一命を賭す覚悟の上での言葉だ。
まもなくして咲裟が戻ってきた。
「はい。お母さんにも一つ」
ありがとうと言い受け取るも、じゃあ買い物へ戻ります、とエレナは娘に告げた。
「……あらお母さんもう行くの?」
「今日は買うものがたくさんあって」
そうしてエレナは深々とカルラスに一礼し、雑踏の中に戻っていったのである。
咲裟はただ、その背を見送るしかない。
「ねぇカルラスさん。お母さんと何を話していたの?」
と自分を見上げる咲裟にカルラスは直接答えることをせず、なにか眩しいものを見るように目を細めてつぶやいた。
「……お嬢さんは、家族に恵まれているんだな」
咲裟はその意味を理解できなかった。ただ、目をぱちくりさせていた。
けれどもカルラスが口にしたのが、褒め言葉だということだけは肌でわかった。
だから彼女は、胸を張ってこう言ったのである。
「ええ、向坂咲裟の家族はとってもとっても素敵なのよ」
●
リチェルカーレとシリウスを乗せたエレベーターは、音もなく受付フロアに停止した。
ここはタブロスに点在するA.R.O.A.支部のひとつ、本日、打ち合わせがあって、彼らはこの建物を訪れていた。といっても簡単な内容だったので、小一時間もせずに終了している。
IDカードを受付に通し、「お疲れさまです」と守衛に声をかけたところで、リチェルカーレは足を止めた。
ある人影を目にしたのだ。
薄い茶色の髪、明るい水色の瞳。
その透き通る双眸がまっすぐ、リチェルカーレに向けられている。
きっとここで待っていたのだろう。その女性は、花が咲いたような笑みを浮かべていた。
リチェルカーレの様子に気がついて、手元の資料に目を落としていたシリウスが顔を上げた。翡翠の目を軽く見開くと、すぐに彼は頭を下げる。
「お世話になってます」
と告げたシリウスの声と、
「……お母さん?」
呟きとも呼びかけともつかぬリチェルカーレの声が重なった。
リチェルカーレの母親には、シリウスも少しだけ面識がある。大きな娘がいるとは思えないほど若々しく、顔立ちもよく似ているため、うっかりすると母娘ではなく姉妹と間違われかねない。
彼女とリチェルカーレの最大の共通点は、見た目よりむしろその雰囲気だろう。春風のようにふわりと優しげな言葉使いは、娘のそれとそっくりだ。
「近くまで来たから」
「うちとタブロスは大分離れていると思うんだけど……」
すると母は、こてんと首をかしげるのである。ジャンプを失敗した猫のような仕草だ。
「迷惑だった?」
「全然迷惑じゃないわ」
すぐにリチェルカーレは否定する。むしろ、嬉しいサプライズというものだ。
「せっかくだからお茶に行かない? 近くに美味しい喫茶店があるの」
母娘の会話に、シリウスはわずかに表情を緩ませた。
「じゃあ、俺は帰るから」
失礼します、と母親に再度頭を下げた彼を見て、今度はリチェルカーレが母そっくりに、こてんと首をかしげ不思議そうな顔をするのである。
「どうして?」
「……いや、邪魔だろう?」
親子水入らずを妨げる気は彼にはない。ところが、
「全然邪魔じゃないけど?」
「シリウスさんにはお急ぎの用でも?」
娘に続いて母も言う。しかも、リチェルカーレとまったく同じポーズで。
そしてさらに、
「行きませんか?」
息を合わせたわけでもないのに、ふたり同時に同じ言葉を、ユニゾンで発声したのだ。
――リチェがふたり……。
シリウスは軽く眩暈を覚えていた。
母娘が同じ側に腰を下ろしているので、シリウスはよく似たふたりを左右の目で見ることになっていた。
母親は日頃のお礼や故郷のことなど、熱心にシリウスに話してくれていた。シリウスは彼なりに気を遣って相槌を打つものの、表情も声も、どうしても小さな反応にとどまっている。
――こんな話し甲斐のない聞き手が相手でいいのだろうか……?
そう彼が思ったとき、意外な言葉が母親の口から出た。
「この子はいつもシリウスさんのことばかり話すんですよ」
えっ、と不意をつかれシリウスはリチェルカーレを見た。それと同時に、
「お母さん! そんなことシリウスに言わなくたって!」
飛びつくようにしてリチェルカーレは母親の口に手を当てていた。シリウスの視線は痛いほどに感じている。頬が紅潮しているのが自分でもわかった。
娘のそんな反応を予期していたのか、母はにこにことあふれんばかりの笑顔だ。
シリウスは唾を飲み込んでいた。――聞きたい、その続きを。
「たとえば、どんなことを話していたんです?」
母は娘からするりと逃れて、指折り数えるようにして言うのである。
「強いとか、優しいとか、もっと笑ってくれればいいのにとか……」
「それは……どうも」
シリウスは下を向いてしまった。照れくさいものだ。顔が、熱い。
恥ずかしさから身を小さくしているリチェルカーレ、同じようにしているシリウス、その両者を眺めてうなずくと、母親は座り直して正面を向いた。
「あと、娘はシリウスさんのことを『無理をしている』とも言っていました……体の具合はいいんですか?」
やわらかく包み込むようだが、揺るがぬ、深いものを持つ口調だった。
はっとしたようにシリウスは顔を上げた。
このような口調は娘のリチェにはない。きっとこれは、母としての声だ。
「はい、平気です。大分良くなりました」
どこまで自分の事情が知られているのかはわからない。でも本質的なものは見抜かれているような気がする。
その言葉を聞いて安心したのか、彼女は笑み崩れて、
「今度から体調が悪ければ家にいらしてね」
と言ったのである。そして、一言付け加える。
「リチェのお婿さんになって来てくれたら、もっと嬉しいんだけど」
――!?
シリウスは口にしていたグラスの水を噴き出しそうになった。
リチェルカーレは言葉の意味をとっさに理解できず、数秒遅れて薔薇の花のように真っ赤になった。
「もー! お母さんったら!」
咳き込みながらも、シリウスはほのかに笑っていた。
依頼結果:成功
MVP:
名前:向坂 咲裟 呼び名:サカサ、お嬢さん |
名前:カルラス・エスクリヴァ 呼び名:カルラスさん |
エピソード情報 |
|
---|---|
マスター | 桂木京介 |
エピソードの種類 | ハピネスエピソード |
男性用or女性用 | 女性のみ |
エピソードジャンル | コメディ |
エピソードタイプ | ショート |
エピソードモード | ノーマル |
シンパシー | 使用可 |
難易度 | とても簡単 |
参加費 | 1,000ハートコイン |
参加人数 | 4 / 2 ~ 4 |
報酬 | なし |
リリース日 | 07月09日 |
出発日 | 07月15日 00:00 |
予定納品日 | 07月25日 |
参加者
会議室
-
2016/07/14-23:19
-
2016/07/14-23:18
リチェルカーレです。パートナーはシリウス。
皆さん、よろしくお願いします。
…お母さん?何でこんなところにいるの?(きょとん) -
2016/07/14-23:09
挨拶が遅くなっちゃったわね。向坂 咲裟よ。
今日はカルラスさんとのお出かけ中に、ばったりお母さんと出会ってしまったわ。
…どうなるのかしら。
皆も、素敵な時間になりますように。