【桜吹雪】サクラウヅキノ紅月ノ夜(桂木京介 マスター) 【難易度:簡単】

プロローグ

 扉を開くとドアの外には、柱に背を預けたまま両足を投げ出して座り込む彼の姿があった。
「やあ」
 彼は一生懸命笑おうとしているのだが、その笑みはひどくあやふやだ。
「気がつくと、自分ちじゃなくてお前の部屋の前に来てた」
 あなたは腕組みしたまま、黙って彼の姿を見おろしている。しばらくそうしていたが、
「とにかく入れ、そのままじゃ朝には凍死体だ」
 やがて腕を解いて彼に肩を貸した。
「悪くない。願わくば、花の下にて春死なん……ってね」
 立たせるとまるでゴム人形のようで、彼は歩くことすらおぼつかない。
 強い蒸留酒と煙草の香りがした。それに、鉄錆のような血の匂いも。
「予想するに……」
「拝聴するよ」
「あんたは仕事上のつきあいで、さして飲めぬ酒を付き合わされた。相手は裏社会の人間だな。服に染み付いている葉巻の香りは、あまり上等の種類じゃない。店内か帰路かは知らんが、あんたはゴロツキに絡まれた女の子を助けようとして殴られた。まあ彼女が逃げおおせたことだけは不幸中の幸いだろう。そうして文字通りフラフラになって、なんとかここまでとたどり着いた……ってところか」
「ご名答、と言いたいが最後だけ違うな。顔の怪我は転んだだけだよ」
「そう都合良く左唇のところだけ打つものか」
「ドジっ子なんだよ、僕は」
 あくまでそう言い張りたいらしい。そこであなたは質問を変える。
「助けた子は美人だったか?」
「顔まで覚えてないよ…………あ」
 所在なさげに、彼は頭をばりばりとかいた。
「よくもまあ、見てきたように……ひょっとして、僕のこと尾行してた?」
「まさか」
「女の子が逃げおおせた、ってところはどうして?」
「今のお前がいい顔をしているからな」
「いい顔?」
「それ以上どう言えと」
 ふーん、と判ったのか判っていないのか曖昧な笑みを見せ、彼は鼻の頭をかいた。
「それにしても慧眼恐れ入るよ。恐るべき推理力だね」
「推理? 正確には類推だ。あんたみたいな男、他に知ってる」
「誰?」
「俺の父親」
 そうしてあなたは父親について、幼少期のわずかな記憶を語り始めた。
 あの人はいつも、酒の香りをさせていた。大して飲めもしないというのに。特に春ともなると――。
「ちょっと待った」
 そっと彼は手を挙げた。
「せっかくだからその話、ヨミツキの下で、と洒落込まないか。春の思い出話なら、花の下というのは格別だ」
 彼は城下町『サクラウヅキ』に行きたいと言った。だがあの場所は一日中昼ではなかったか、そう問いかけたあなたに彼はふらふらと手を振る。
「『サクラウヅキ』にも夜があるのさ。短いけれどね」
 あなたは黙ってうなずいた。
 今からなら間に合うだろう。たまにはそんな夜も、あっていい。


 ……というのは、一例だ。
 きっかけは、ほんの些細なことでいい。あなたと彼はサクラウヅキの、短い夜桜をともにすることになった。 
 霞がかかった春の夜、雲間からは艶容の紅月(こうづき)。
 夢と現実(うつつ)の狭間のひとときを、差し向かいで酌み交わすもよし、彼の肩に頭を預けるもよし、はしゃぎあうも、春にまつわる思い出を交換するもまた、よしであろう。
 ただしときはとてもはかなく、宵と呼べるのはせいぜい三時間だ。
 短い春の貴重な夜の夢、かみしめるように味わいたいものである。

解説

【概要】
 お花見エピソードです。あなたとパートナーで夜桜を楽しみましょう。
 舞台となる『サクラウヅキ』の世界は現在、一日のほとんどが昼となっています。とはいえ約3時間という短いものながら、静かな夜も訪れるのです。
 最初から計画して夜桜に行くのが基本となるでしょうか。あるいはこの例のように、ふとしたきっかけで足を踏み入れるというのも面白いでしょう。たまたま出かけた先でばったり……というハプニング的展開もいいですね。
 行動は基本自由です。あなたと彼らしい、短くも得がたい夜を過ごして下さい。

【場所】
 『サクラウヅキ』の圏内であれば、芝生のある公園、人気(ひとけ)のない小高い丘、市街地のオープンカフェやバー、ホテルの一室など、どんな場所でもお好きに選んで下さい。
 この地は伝統ある城下町で、タブロスとまではいかなくとも、都市化が進んでいるのでカフェ等、大抵のデートスポットは存在します。よほどのものでなければすべて通しますよー。

【参加費について】
 参加費は基本300jr、花見ですし飲食もするでしょうから、内容に応じてさらに200から500jrを徴収させていただきます。

ゲームマスターより

 ここまで読んで下さりありがとうございました! 桂木京介です。

 夜桜といっても、求めるものは人によって異なると思います。上記の例では思い出話に花を咲かせるというのをテーマにしましたが、内容に制限はもうけません。他人行儀だった二人に友情が芽生えるような話もいいと思いますし、酔った勢いで思わず告白!、なんてシチュエーションも素敵ですね。
 あなたと彼らしいプランを、どうぞお寄せ下さい。

 サクラウヅキの夜は短いのですが、そのはかなさがまた、桜という花に似合っているようにも思うのです。いい思い出ができるようがんばります。

 それでは、次はリザルトノベルでお目にかかりましょう。
 桂木京介でした。

リザルトノベル

◆アクション・プラン

アキ・セイジ(ヴェルトール・ランス)

  珍しく、俺の方から旅行に誘った
訳を聞かれ、大学合格の祝いだと返す
春からランスは俺の通う大学に入学した
俺は法学部、ランスは農学部(獣医学科)
学部は違うけれどこれで晴れて同じ大学
内心かなり嬉しい

一泊の旅行は料理旅館
小さな庭に部屋付きの露天風呂
桜の風景も見えて、風呂にも花弁が舞う
そんな風情も楽しめたらと
*当然、サクラサクとひっかけてる

外に広がる夜桜を
灯りを落とした室内からながめて茶菓子と茶
ホストをやめるわけじゃないと知って驚くけど
うん…好きな世界なら仕方ないな
早速の営業も熱心な事で(爆

それから風呂だ
酒はこっちに用意してあったんだよ(ふふ
体を伸ばして心も体も解き放つよ
嗚呼…このまま熔けてしまいそうだよ


蒼崎 海十(フィン・ブラーシュ)
  フィンに内緒で花見を計画

フィン、連れて行きたい所がある
けど、着くまでは何処に行くか秘密にしたい
で、これ(目隠し)を付けてくれ
俺が手を引いていくから、離すなよ?

人気のない小高い丘
夜景と桜が楽しめる場所(ベンチあり)を見つけておいた
着いたら、フィンの目隠しを取ってやる

驚いたか?
…じゃあ、もっと驚いてくれ
(用意してきた弁当をどーん)
フィンみたいに凝った物は作れないけど…おにぎりとサンドイッチ
これなら失敗しないだろ?…形は歪だけど
俺だって偶には出来る所、見せたかったというか…
(味見はして不味くは無かったと思うけど心配)
無理してないか?…良かった

食べ終わったらフィンを膝枕
…フィン、膝枕好きそうだったから


カイン・モーントズィッヒェル(イェルク・グリューン)
  公園ぶらつくか
※ごく普通に恋人繋ぎ

見事だな
隣のイェルも綺麗だし

リタ?
前も言ったが花より団子だ※E15
桜使った菓子への好みを聞かれた事はあるが
リタのなら全部美味ぇと言ったら、真っ赤な顔で飛び蹴りされた
恥ずかしい上に聞きたい意見じゃなかったらしい

エマは普通の元気な子だった
リタはエマの前で擬態してたし
たまに擬態し切れてなかったが
俺が教える?
どういう意味だよ

イェルの話も聞きてぇな
いや?
そこも情が深くて好きな所だし
可愛過ぎると、あちら(月と桜)が気を利かして帰るから程々にな

…俺は今隣にいるのがイェルで良かったと思ってる
ありがとな
※抱き寄せてキス

※Eは過去の事実を根拠として記載。参照必須指定ではありません


カイエル・シェナー(エルディス・シュア)
  桜は毎年一人で見に行く
春になればいつも桜吹雪の舞う満開の桜に誘われている気がして
気が付けば愛しい恋人に逢いに行くかの様に

それで
エルディス、何故いる
(顔も向けず)
夜桜は一人で見たいと言ったはずだ
神人とはいえ自分の身位何とでもするし治安が悪いとは聞いていない
問題は無い

桜の並木に誘われる様に人気の無い奥へ
不意に、桜の花びらを纏った風が視界を遮った

一人であった頃はむしろ攫われて消えても良いと思っていたのに
後ろにいた、彼が気になって

急ぎ、振り返り掛けて思考が消える。花の嵐のその美しさに思考が全て停止しかけて

掴まれた腕の感覚に我に返った
引き寄せられた腕に安堵と…そこに、自分の居場所を見つけたような気がして


蔡 盟羅(K9)
  縁台に座って猪口と徳利で花見酒

隣に突っ立ってんと、ケイくんも隣りに座って飲めば?落ち着かん
あ、そ

(桜見あげ目を細め)
いとはんは散りゆく桜好きやから、はよ一緒に見たいなぁ

当て付け?そんなつもりやないよ、せやけど何を見てもいとはんのこと考えてしまうわ

ウィンクルムでもないのに守れるわけなかったんやから仕方ないやろ
もうこの話すんな

せや、僕の狗やない。せかからこれは命令ちゃうわ、お願いや

煩い
…ほんまはお前のこと許せんわ
何とか自分の中で納得しようとしてるんや
お前を縊り殺して何になる?いとはんが目ぇ覚ますんか
覚ますならお前なんか百万回殺してもまだ釣りがくるわ!
頼むから、もうこの話すんな

…ッ(泣きそうになる)


 濃く湿った春霞のせいだろうか、咲乱るる桜は妖しいほどに艶やかで、狂おしい恋に恍惚となった娘の、濡れた唇に似た色をしている。
 春。
 それはあまりにも春だった。

 どういう風の吹き回しかと、ヴェルトール・ランスが目を見張ったのも無理はない。
 今回、サクラウヅキ旅行を提案したのは、珍しくアキ・セイジのほうなのだった。
 彼らふたりが旅に出る場合は、ランスが目的地の設定から宿・旅券の手配まですべてお膳立てして、さあどうぞとセイジを連れ出すのを通例としているのだが、今日に限ってその立場は完全に入れ替わっていた。
「祝いだ」
 理由(わけ)を聞かれセイジは、ごくあっさりと答えたのである。
「大学合格の」
 この春から、ランスはセイジと同じ大学に通うことになった。セイジは法学部、ランスは農学部の獣医学科、専門こそ違えど、晴れて『ご学友』とあいなったのである。
 時代や世界が移ろおうとも、基本、大学生のやることにそれほど差異はない。少々手荒な新歓コンパラッシュもようやく一段落した週末、セイジはごくごくさりげなく、ランスにこの旅を提案したのだ。
 セイジが宿に選んだのは、百年はやっていそうな老舗の旅館であった。キーロックなんてものは無論なく、近隣にコンビニがあったりもせず、そもそも家具調度にテレビすらないようなアナログな一室だが、ランスはむしろこれに喜んで、
「さすがは俺のセイジだ」
 旅装を解くなり、畳に寝転び両腕を広げたのであった。い草のやわらかい香りがする。
「たまにはこういう落ち着いた場所も風情があると思ってな」
 かつてなら、ランスの『俺のセイジ』という表現に戸惑ったり照れていたであろうセイジも、今では当然のようにこれを受け入れている。
「部屋だけじゃない。このタイミングでこの贅沢な旅行をお膳立てしてくれたこと、そして、さらっと『合格祝い』なんて言ってくれる心意気……セイジの思いのすべてが嬉しいのさ。両方あわせて二倍嬉しい」
「よせよせ、大げさな」
「大げさじゃないさ。天にも昇る気持ちとはこのことだね」
 面映ゆい、とセイジは頬をかいて、
「はは……まあ、嬉しく思ってるのはランスだけじゃない、とだけ言っておこうか」
「セイジも俺と、サクラウヅキに来れて嬉しい――ってことか?」
「無論、それもある」
 意味深な言い方をして、セイジはそこからランスがどう尋ねても、なにを喜んでいるのかは明かさなかった。
 正面切って告白するのは気恥ずかしいではないか。
 同じ大学に通うことができて嬉しい――だなんて。

 満開の桜を楽しむのに、旅館から出る必要はない。それどころか部屋すら出なくてもいいのだ。
「ここにはすべてがある。小さな庭に、部屋付の露天風呂。そして桜だ」
 暮れなずむ光景を眺めながら、セイジは美術館のガイドのように、部屋からの桜鑑賞方法を解き明かす。ランスはランスで、新一年生のように素直に、ちょんと正座してセイジの講義を傾聴した。
「なるほど、窓枠を額縁に見立てているのか。絵にも描けない情景なら、そのものを絵として……というわけだ」
「そう、理解が早いな」
「俺も受験勉強して、いくらか教養(キョーヨー)ってやつを身につけたもんでね」
 ぐいと親指を立てランスは白い歯を見せた。
「なら、その教養とやらに栄養を与えておくとしよう。脳に甘いものはいいらしいからな」
 とセイジが出したのは、小箱に入った和菓子二種類だ。
 ひとつは大福の生地で、桜風味のあんをたっぷりと包んだ桜まん、淡い桜色は誘惑の色だ。
 そしてもうひとつは、鶯色に柑子色、そして桜色の三色串団子、実にめでたい組み合わせ、眼にも舌にもいい色だ。
 おっ、とランスは目を輝かせる。
「これぞまさに『花より団子』というわけだな!」
「しかも桜茶つきだ」
 こぽこぽと音立てて、セイジが手ずから茶を淹れてくれる。
 部屋の明かりはもう落とそう。紅月が照らす短い夜は、昼間の残滓かその幻か、ぼうと明るい夜だから。
 熱い椀で茶を楽しみつつ、セイジはランスに学校生活の計画を問うた。
「そうか……ホストを辞めるわけじゃないんだ」
 セイジは眉間にしわを寄せている。ところがランスはあっけらかんと、
「時間のやりくりは多少手間だけど、やろうと思えばできそうだからな」
 と言って、薫り高い茶をすすった。
「学生との二足のわらじ、か。心から賛成とは言わないが……」
 セイジのこの反応は、ランスの予想の内だった。昔日の武人のように堅いセイジなら、そう思うのも無理はあるまい。彼がもっと露骨にしかめっ面をしないのは、それなりにランスのことを理解しようと努めているからだろう。
「別に経済的に困っているからじゃない。やろうと思えば、もっと健全なバイトを探すことだってできる」
「だったら……」
 言いかけるセイジを制して、
「まあ聞いてくれ。ホストの仕事がいかがわしくないとは言わない……けど、俺にはあの世界こそ水が合うんだ。夜の世界ならではのつながりとか会話とか、そういうものが好きなんでね」
 と告げ、さらにランスはこう言い加えた。
「信じてくれ。学業に影響はさせないからさ」
「うん……好きな世界なら仕方ないな」
 言葉ではそう告げているも、セイジの口調はまだやや重い。
 ホスト業は舌先が命、ランスは場を和ますべく話題の方向を変えた。
「そうそう、俺、大学のサークルで知り合ったばかりの女子を客として誘ったんだ。さっそくご来店いただけて、上得意様にも化けてもらえそうな感じだ。この話、したっけな?」
「初耳だ」
 セイジの頬がやわらいでいた。苦笑気味に言う。
「さっそくの営業か……熱心なことで」
「好きこそものの上手なれ、さ」
 ランスの言い方がなんともひょうげていて、つられてセイジは笑ってしまった。
「さて、風呂にしようか」

 月光に照らされる小さな岩風呂、たっぷりとたたえられた湯の上に、桜の花びらが浮いている。
「やあ、花見でひとっ風呂とは洒落ているな」
 とランスは脱ぎ始めたものの、
「それだけじゃない」
 セイジが何やら出してきた様子を見て動きを止めた。
 丸い盆だ。その上には、透き通った徳利と猪口が、ふたつ。
「酒はこっちに用意してあったんだよ」
 ふふと笑うセイジに思わずランスは目をハートマークにするのだ。
「待ってました! やっぱ花見といやぁ酒のひとつもほしいところだ」
 勢いづいたランスは、乱暴に衣服を脱ぎ捨ててセイジを振り返った。セイジももう裸だが、どうにも今は邪魔なものがある。不出来の生徒を叱る教師みたいな声色で、
「湯船にタオルは入れないお約束だろ」
 言うなりひょい、とランスはセイジから白い布を奪ったのである。
 サクラサク、それは満開の花と、ランスの合格をひっかけた表現なのはもちろんだ。
 さのみにあらず今このとき、ぱっと紅がさしたセイジの頬も、サクラサクと表現できぬこともあるまい。
 もともと遠慮のいらぬ仲、それに個室風呂ゆえ、やはり遠慮のいらぬ状況、セイジはそのまま湯に体を沈めた。ランスも続く。
 絶妙に岩風呂は狭く、彼らの距離も、当然近い。
「ああ……」
 腕と足を伸ばして、セイジはため息まじりにつぶやいた。
「……このまま熔けてしまいそうだよ」
「溶けてもいいんじゃない?」
 ちゃぷりと湯の音立てて、ランスはセイジに身を寄せるのだった。
「おっと、その前に」
 どの前に? なんて問う野暮をランスはしない。得たりと湯から手を出し、盃を取った。すぐにセイジが酌をする。
「乾杯だ。合格おめでとう」
「ありがとう。乾杯」
 よく冷えた生一本、身がきりりと引き締まるような味わいの酒だった。
 熱い息をランスは吐く。
「なんだか今日、俺、セイジに甘えてばかりだな」
 これに対しセイジが漏らした一言は、思わずランスが盃を取り落としかけたほどに大胆なものだった。
 セイジは、後れ毛をかきあげながら口にしたのである。
「だったら、甘え上手になればいい」
 と。
 そんな言葉がセイジの唇から紡がれたのは、サクラウヅキの魔力あればこそ、のものであろうか。



 目隠しという状況にはスリルがある。
 一体何が待っているのか、自分はどこへ連れて行かれるのか。
「着くまで秘密、ってワクワクしちゃうね」
 フィン・ブラーシュの声は弾んでいた。いま、フィンの両眼は白い布で覆われており何も見えないが、まるで不安は存在しない。
 なぜならいま、彼は蒼崎 海十に導かれているのだから。不安どころかむしろ、ある種の官能すら感じている。
 視覚を封じたためかフィンの感覚は飛躍的に高まり、伸ばした腕の先、絡めるようにしてしっかりと繋がれた海十の手、その指先の熱、湿り気、柔らかさ、やはりドキドキしているのだろう、いくらか駆け気味の脈拍……そうしたものが直に、心臓にまで伝わってくるような気がするのだ。
 こんな状況、ほんの一時間前には予想すらできなかった。
 すべてはこの日の夕方、唐突に海十がこう切り出したことに端を発する。
「フィン、連れて行きたいところがある」
 けど、と前置きして続ける。
「着くまではどこに行くか秘密にしたい……だから、これを付けてくれ」
 と言って海十が差し出してきたのが、鉢巻状の目隠し布だったというわけだ。
 こんな魅力的な誘い、断れるはずがない。
「俺が手を引いていくから、離すなよ?」
 フィンは素直に従って、厳重に目隠ししてから海十の手を求めたのだった。

 やがてフィンの足は、上り坂にさしかかったのを知った。
「……丘でも登っているのかな?」
「ああ。ところでフィン、寒くないか?」
「うん、大丈夫だよ」
 よかった、と告げる海十の口調からして、そろそろ目的地だろうとフィンは察した。
 何が待っているのか気になる。
 けれどこの状態がもうじき終わるのかと思うと、それも惜しいような気もした。
 いい香りがする。柔らかな土と草の匂い、そして、花の匂い。
「さあ、着いたぞ」
 海十はフィンを立ち止まらせると、その背後に回って目隠しをほどいた。
 するりと白い布が落ちる。一瞬にしてフィンの視界が開けた。
 夜の桜咲く光景を、フィンも予想はしてはいた。
 けれども――。
 フィンはしばし、言葉を忘れた。
 絶景。
 宵闇の丘から見おろす光景は、ほの白い光に包まれている。
 正しくは白ではなく桜色だ。こぼれそうなほど満開のヨミツキの色だ。
 それも一本や二本ではない。無数の木々が丘をぐるりと取り囲み、桜色で埋め尽くしているのだった。
 なまめかしくもさやけき紅月の下、無人の丘で桜に囲まれる……夢の世界ですら、目にしたことのない光景である。
 美しくはあるがその一方で、涙こぼれそうになるほど切なくもあった。この美があるのはこの夜だけだ。明日にも桜は散りはじめ、やがて緑の葉が顔を出すだろう。五月の声を聞く頃には、花びらはすべて雪のように、姿を消しているに違いない。それもまた自然の営みであり素晴らしいものだが、時間はとどめることができぬというシンプルな事実に、フィンは打ちのめされるような思いを抱いた。
 けれどもフィンが確実に言えるのは、いま自分が、この丘が最も美しい瞬間のただ中にいるということ。
 そしてこの場所に、最愛の人とふたりきりでいるということ――。
 立ち尽くすフィンを見て、海十は唇に笑みを浮かべた。
「驚いたか?」
 やっと我に返って、フィンは静かに息を吐きだす。
「ああ……驚いたよ」
「……じゃあ、もっと驚いてくれ」
 フィンにだけ使う茶目っ気のある口調とともに、海十は背負っていたザックをおろして開いた。
 おっ、とフィンの声のトーンが半音階ほど上がった。
 海十の荷は花見弁当であった。ぎっしりとタッパーに詰められている。
「といっても、おにぎりとサンドイッチくらいだけどな。これなら失敗しないだろ?」
 と言いながらも海十の目線が、落ち着かなげにうつろうのをフィンは見逃さない。
 ラップに詰められたおにぎりがゴロゴロ出てくる。サンドイッチも中身がはみ出んばかりだ。
 ところがそのおにぎりというのが、手作り感豊富な形状、平たくいえばかなりいびつな形ばかりであった。丸いようでいて角ばっていたり、三角なのか五角形なのか判然としなかったり、俵型のつもりだろうがコロッケライクな小判型だったりする。サンドイッチのほうも負けてはいなかった。中身が少ないのか薄いものがある一方で、中年主婦の財布みたいに分厚すぎて具がちょろりと出ていたりするものもある。パンの切り方も均一とはいえず、立ち退き拒否した住人のごとくパンの耳が居座っているものまで見受けられた。
 これを見てフィンは落胆しただろうか?
 逆だ。
 むしろこのいびつな形状に、慣れぬ作業に苦心する海十の背中を想像して、じわっと目頭が熱くなったのである。
「いつの間に……」
 声に震えが出ぬよう注意しつつ、フィンは慌てて目元を指で直す。おにぎりの一つを口にし、噛みしめるようにして味わった。
 ――海十が、俺のためだけに作ってくれたんだ。いや、弁当だけじゃない、この場所を見つけてくれて、時間を都合して、準備してくれて……全部、俺のために……。
 言葉じゃ足りないくらい、嬉しい。
 ふと目をやると海十が、こちらを不安そうな目で見上げているのがわかった。
 湿っぽいのはだめだ、フィンはすぐに笑みを浮かべて、
「美味しいよ。本当に」
 と、首が取れるほど大きくうなずいたのである。
 感激を差し引いても本当に美味だった。きっと海十はたくさん材料を買い込み、いい味になるよう工夫を凝らしたに違いない。
「無理してないか? ……お世辞とかじゃないよな?」
「もちろんだ。よくがんばったね」
 それこそ海十の聞きたかった言葉だったのだろう。海十はたちまち、目覚めたばかりの子猫のような笑顔になった。
「お、そうか、それは……良かった」
 などと言いながらも嬉しさは隠せない。海十の体は空に浮かび上がりそうになっている。
「あー、まあ、料理に関しては、いつも世話になってる分を返したかったというか、俺だってたまにはできる、ってとこ、見せたかったというか……」
 頬を得意の色で赤くして、目は、星を散りばめたみたいにキラキラさせて、フィンからすると今の海十は、母親に誉めてもらった小学一年生男子といった雰囲気だ。抱きしめて頭を撫でてあげたいくらい可愛い――フィンは胸の奥が、きゅっと痛くなるくらいそう思った。

 おにぎりとサンドイッチは一つ減り二つ減りしてやがて、きれいにすべてなくなった。
「満腹だよ……動けないくらいね」
「全部食べなくたって」
「全部食べたかったのさ」
 それにおかげで、と言って、フィンは体を横たえた。するとそれが定位置であるかのように、海十は膝を揃えて彼の頭を迎える。そっとフィンは頭を載せた。安心したように目を閉じていた。
「こうやって、海十に膝枕してもらえるから……っていうか、よく俺の言いたいことがわかったね」
「……フィン、膝枕好きそうだったから」
「好きだよ。でも、海十の膝枕限定だ」
 よせよ、と言ってはにかんだのか、海十は手を、黄金の海のようなフィンの髪に差し入れた。なめらかな髪は海十の指をするりと受け入れる。海十はわざともしゃもしゃとかき乱すが、マッサージされているかのようにフィンは微笑んでいる。
「そういえば去年も、一緒に桜を見てお酌してもらったっけ……」
「ああ、あれからもう一年なのか」
 このとき海十の心臓が一つ、大きく高鳴った。
 フィンが目を開け、自分を見つめていると気がついたから。
 ブルーガーネットの瞳を、まっすぐ海十に向けたままフィンは言う。
「あのときから、酒に対する苦い感情も変わった」
 それまでフィンにとって、酒は逃避の手段だった。過去をひとときでも忘れるため、彼は毎晩のように強い酒を必要としていた。なのにいくら飲んでも、渇きは消えなかった。
 しかし今はもう、過ぎ去った話だ。
「それだけじゃない。俺には、海十のおかげで取り戻せた感情がたくさんあるよ」
 お礼をさせてほしい、そうフィンは言った。
 そして彼は海十に捧げたのだった。
 この夜のように切なく甘く、強い接吻を、ひとつ。



 サクラウヅキの城下町、寺社が集中する大通り、別名参詣通の石畳には、物売りや屋台がびっしりと軒を連ねている。終夜営業といってもせいぜい三時間、その短さを惜しむように、いずれも結構な賑わいだ。
 そのひとつで酒食を求め、しばし散策の後、川沿いに空いた縁台を見つけると、
「さて、ここらへんにしよか」
 蔡 盟羅は両足を投げ出すようにして無造作に腰掛け、徳利を置く。徳利に細縄で結えつけた猪口が、かりん、と歌うような音を立てた。
「ええ場所や思わん? 賑やかすぎんし寂しすぎることものうて、見上げれば桜はすぐ頭上や。おまけに川面を、花びらが流れていく様まで眺められる」
 言いながら盟羅は猪口を取り、そのざらついた触感を楽しむように左手の指で撫でながら、右の手で徳利の酒を注いだ。
 縁のぎりぎりまで入った清酒に、紅月と桜が映り込んでいる。眺めることしばし、おもむろに盟羅はこれを一息であおると、熱い息をふうと吐き出した。
「ところで」
 二杯目を注ぎながら盟羅は言う。
「隣に突っ立ってんと、ケイくんも隣りに座って飲めば? 落ち着かん」
 今、盟羅を見ている者は誰もいないが、いたとすれば彼が、独り言を続けているように見えたことだろう。
 よくよく注意して見なければ、盟羅の背後に立つ存在に気がつくまい。
 それほどに、彼……K9には気配がなかった。
 K9は眼球だけ音もなく動かし、冷ややかな一瞥をくれた。彼に生じた動きは、唇が微かに動いたほかは、ただそれだけだった。
「酒はいらん。酔えば油断が生じる」
「あ、そ」
 その返答は予想済みだったらしく、別段にショックを受けた様子もなく盟羅は二杯目を干す。
 さらにもう一杯。
 重ねてもう一杯。
 アルコールが空気に溶ける甘い匂いがたちこめた。
「酔ったかな」
 徳利の半分も飲んだであろうか、しばらく沈黙を守っていた盟羅が、ようやく言葉を思い出したかのように言った。
 両手を青竹の縁台につき桜を仰ぐと、盟羅は眼鏡の奥の目を細めている。
「いとはんは散りゆく桜好きやから、はよ一緒に見たいなぁ」
 群青色の前髪が、春の夜風に吹かれ柔らかく踊った。
 このとき初めて、K9に気配が生じた。彼は首を巡らせ、射抜くような視線を盟羅に浴びせたのである。
「お嬢様の話をするのは当て付けか」
 感情を押し殺そうとしているようだが、その試みは失敗している。K9は決して声を荒げない。けれども言葉には、火に炙った外科用メスのごとき鋭さがあった。
「俺がお嬢様を守れなかったことを責めているのか」
「当て付け? そんなつもりやないよ」
 盟羅は半ば振り向き、大儀そうに片手を上げて左右に振った。しかしその動きは意図的に酔漢を装ったものでしかない。なぜなら彼の目は、K9の視線を真正面から受けるばかりか、むしろその勢いを反射するほどのものであったから。けれど口調だけはやはりふわふわと保って、
「せやけど、何を見てもいとはんのこと考えてしまうわ」
 と盟羅は言葉を締めくくったのである。
 反射的になにか言いかけて言い淀み、わずかに間をとると、改めてK9は口を開いた。絞りだすように、告げる。
「あのとき、ああすれば……毎日考えている」
 過去を書き換えることはできない。できないがゆえに、人は悩む。
 ふっと溜息して盟羅は顔を正面に戻した。これが侮蔑の表現か、それとも怒りか、悲しみの表明か、そのいずれなのかは自分でもわからなかった。
「ウィンクルムでもないのに守れるわけなかったんやから仕方ないやろ、もうこの話すんな」
 徳利に伸びかけた盟羅の手が止まった。
 このときK9が、これまでにないほど強い口調で言ったからだ。
「命令するな。俺はお嬢様の狗であってお前の狗じゃ……」
 だがK9も途中で言葉を飲み込むことになった。
「せや、僕の狗やない」
 盟羅が席から立ち上がったのだ。立とうと思って立ったというより、反射的に体が動いてそれから、自分は立ちたかったのだと気がついたような動作だった。
 同時に盟羅は、振り向いてもいた。
「せやからこれは命令ちゃうわ、お願いや」
 身長差があるため、対峙すると盟羅がK9を見上げる格好になる。
 K9は盟羅の眼鏡に、桜が映っているのを見た。
その桜を透かして、盟羅の双眸が自分を見つめていた。
そこにあるのは怒りではない。ましてや害意でもない。けれども、いま盟羅が両手を伸ばし首を絞めてきたところで、K9はまるで驚かないだろう。そればかりか、彼の指が己の首に赤黒い痣をつけるのを、古い友の訪問のように迎え入れただろう。
 しかしそんな自分を恥じるように、あるいは盟羅を突き飛ばすように、K9は言った。
「盟羅、本当に仕方なかったと思っているのか」
 次の瞬間盟羅の目に、剥き出しの憎しみが現れた。ごく薄い瘡蓋を剥いだあとの血のように、とめどもなく溢れだす。
「煩い」
 徳利が倒れて地面に落ちた。割れはしなかったが大きな音が立った。盟羅が無意識的に距離を詰めようとして倒してしまったものだろう。
 その声が招いたのだろうか。さっきまで風は軽いものだったというのに、ざわざわと桜が揺れるほどの強勢で吹き始めていた。
「……ほんまはお前のこと許せんわ。何とか自分の中で納得しようとしてるんや。お前を縊り殺して何になる? それでいとはんが目ぇ覚ますんか? 覚ますなら、お前なんか百万回殺してもまだ釣りがくるわ!」
 盟羅は心の中で刀を抜いている。抜いて滅法に振り回している。だがその刀は、柄のない刃だけの刀だった。だから刀は同時に、K9だけではなく盟羅自身の身にも疵を与えていた。
 桜は風に煽られ、ひどく汚くその花を散らした。落ちた花が地面に落ちる。落ちてなお、枝に戻ろうとでもいうのだろうか、這うようにしてあがく。その情景に、桜吹雪などという風雅はなかった。言うなればそれは、残酷なまでの無秩序であった。
 花はK9の後頭部にも降り落ちていた。
 頬にもひとつ張り付いたが、風にたちまち引き剥がされ夜空に消えた。
 唇を噛み、両の拳を握り、目を伏せたまま、K9はじっと盟羅の言葉を聞いていた。
 ようやく盟羅の言葉が途切れたとき、一条の赤いものが、K9の唇から滴り落ちた。
「俺とて……」
 涸れ井戸とわかっていて、それでもなお水を求める人のように、半ば絶望し、なのにすがりつくようにK9は言った。
「俺とて、お前に縊り殺されてお嬢様が目を覚まされるなら……百万回でも殺してほしい」
 どかっと大きな音を立てて盟羅は縁台に座った。
「頼むから、もうこの話すんな」
 腕組みして、顎を胸につけるようにして顔を上げない。
「ほんま、頼むわ」
 それきり盟羅は黙ってしまった。
 K9はその場を動かない。立ち去らないが、近づきもしない。
 川のせせらぎが聞こえる。参詣通の賑わいも、うっすらと聞こえてくる。
 それを除けば聞こえるのは、盟羅の荒い呼吸音だけだ。
「………わかった、もうしない」
 ただそう告げてK9は、口を真一文字につぐむとふたたび気配を殺すのである。最初からそこに存在していなかったかのように。
「……ッ」
 うめき声のようなものが、かすかに盟羅の唇から漏れた。
 K9は盟羅を……打ちひしがれた男を見る。
 ――やはり、俺が代わりに死んでおけばよかったんだ。
 そうしたら、と彼は思った。
 ――今頃お嬢様は笑って、こいつの横に立っている……幸せに。
 華奢な男であった。剽げた仮面をいつも、斜めに被っているような男であった。
 このとき彼は仮面を落として、その内側にいる傷だらけの自分をさらしていた。もう十分以上に傷ついているのに、それでもなおも、血を流そうとする己を。盟羅にそうさせたのは酒か、それとも、花の香にむせ返るようなこの夜か。
 いつしか風は収まって、桜の花はひらひらと、丸めた盟羅の背に頭に舞い落ちている。
 K9の肩にも舞い落ちている。
 このときK9は、ごくわずかではあるが、盟羅のことを理解できたように思った。



 月と桜だけが見ている。
 夜の公園をゆくふたりを見ている。
 だがそれを、むしろカイン・モーントズィッヒェルは誇らしく感じていた。
 どうだ、これが俺の恋人だ。可愛いだろう? 羨ましいだろう?――そんな風に公言したくなる。
 現在のサクラウヅキは言うなれば、街そのものが花見会場であり、取り立てて公園で花見をする必要がないからだろうか、入口付近はともかくとして、奥に入ればほとんど無人だ。
 灯りといっても10メートルおきの街灯と、匂い立つような紅月があるばかり、けれどもそれは、互いの顔を確認するなら十分の明るさだった。
 カインの手は、イェルク・グリューンの手と結ばれている。それも、指同士が深く結び合うという、いわゆる恋人つなぎの状態で。これは彼らにとって、今やごく普通の状態である。
「見事だな」
 カインが言った。
「本当に見事で……」
 とイェルクが言葉を返すのに重ねるようにして、
「隣のイェルも綺麗だし」
 さらりとこんなこともカインは言ったりする。気負うでもなく照れるでもなく、あたかも『2の2乗は4である』と言うかのように、ごく当然のものとして。
 ところがこれをごく当然と、受け止められるようなイェルクではないのだ。
「……って月と桜に失礼ですよ」
 一人だけ時間が早回しになったような口調で、そんな風に返してしまう。同時に、ぎゅっと指に力を込めたのは、せめてもの抵抗なのだろうか。目の下と耳がじわっと赤い。カインと深く結ばれるようになって久しいが、いまなお乙女のようなところのあるイェルクなのである。
 しかしそんな風に恥じらうイェルクのことが、カインはたまらなく好きだ。もっと紅潮させてやりたい、もっと俺を意識させたい――恋するがゆえの意地悪心が、カインのなかでうずうずしていた。好きな子についちょっかいを出してしまう男子小学生のように。
 けれどもカインの中の少年は、つづくイェルクの言葉で静かに年をとった。
「奥様と花見は?」
 そう彼は、訊いたのだった。
 カインにとって、リタのことを問われるのは嫌ではない。むしろイェルクには、詳しく知ってもらいたいと思っている。なぜなら彼女の記憶はもう、まぎれもないカインの一部なのだから。
 けれども亡き妻の、あるいは、やはり墓標の下にいる娘エマの話をしようとするとき、カインは年齢相応の男に復すのだった。
「リタか」
 かつてその名を唱えるとき、カインの胸は激しく痛んだものだ。されどいまその名は彼の胸に、シナモンティーのように甘く切ない、ノスタルジアを呼び覚ます。
「前も言ったが、リタは花より団子を地で行くタイプだったからな」
 かつてイベリンの地で、カインはこのあたりをイェルクに語ったことがあった。だから今夜はもう少し話す。
「そういえば……桜使った菓子への好みを聞かれたことがあるな。だから正直に、リタのなら全部美味ぇと言ったら、真っ赤な顔で飛び蹴りされた。恥ずかしい上に、聞きたい意見じゃなかったらしい」
 イェルクは顎に手をやる。
 ――前も思ったけれど……激しいな。
 カインに跳び蹴りをかます女性、やはり激しいではないか。微笑ましくもあるけれど。
「ま、そういう小さなイベントが、かつての俺の家では繰り返されていたって話だ。イェルクも見たことがあるだろ? 『幻想美術館』にかかっていたあの絵まんまの家さ」
「そう……でしたっけ」
 曖昧な回答をしてイェルクはお茶を濁した。
 ――そんな絵あったか?
 実は憶えていない。あの美術館そのものがイェルクにとっては忌まわしき記憶であった。どんな絵がかかっていたかということすらも、彼の脳は記録を拒否してしまったようだ。
 イェルクは空咳して話題を変えた。
「初めて聞きますが、お子様は?」
「エマ……」
 カインはしばし、言葉を忘れたように頭上を見上げた。
 わずか五年しか、この世に存在しなかったエマ。
 彼女は小さな太陽だった。記憶の中のエマは、日なたの匂いがする――。
「エマは普通の元気な子だった。リタはエマの前で擬態してたし……といっても、たまに擬態し切れてなかったが……」
 するとイェルクは、いたずらっぽく問うのである。
「擬態の仕方教えなかったんです?」
「俺が教える? どういう意味だよ?」
 ところがイェルクは回答せず、ただくすくすと笑うにとどめるのだった。
 自分の擬態は完璧だったくせに――とは思ったが、言わないでおこう。たまには彼を悩ませてみるのも面白い。
 カインはすっと手を伸ばした。下ろした手のひらを開くと、そこに一枚、やわらかな花びらが乗っている。
「イェルの話も聞きてぇな」
「私の……?」
 聞き返してはいるが、カインが知りたいことはイェルクにも理解できている。
 喪って、けれどなお、自分の一部として生きているひとのことについて知りたいのだ。
 イェルクにとっては、メグのことに決まっている。
 カインにメグのことを話すのは、まだこれが三度目くらいのことだろう。カインほど気持ちよく、過去を語ることはまだイェルクには容易ではなかった。
 しかし彼女がいたからこそ今の自分があり、今の自分にカインは心を寄せてくれている、そう思うことで素直に最初の言葉が出てきた。
「仕事が縁でした」
「初耳だな」
 イェルクは小さくうなずく。
「私は喫茶店勤務で、彼女は仕入先担当者でした。けれど最初は意識することもなく、ただの仕事相手以上の存在ではありませんでしたね。……あるとき偶然の相席で、昼食を一緒に食べたのが縁です」
 それはたしかに偶然であったが、その後のことを考えると必然であったのかもしれない。
 無言で食事するわけにもいかず、そのときイェルクは当たり障りのない話題を振った。
「このところ快晴続きですね」
 天気の話だ。これは『無難な話題』ランキングがあるとすれば、一位二位を争うほどの優秀な手札で、とりあえず昨今の天気や寒暖、午後の降水確率などを話題として転がしておけば時間など簡単につぶせる。熱心に話そうといい加減に話そうと、得るものも失うものもまずないという、社交辞令としては間違いのない選択であろう。
 ところが彼女は穏やかな表情ながらも、驚くほど深い回答をしたのだ。例年と比べた今季の天気の見通し、それが茶葉の栽培に与える影響、ゆえに期待できる銘柄などなど、話を切り出したはずのイェルクが、身を乗り出して聴き入ってしまうような内容だった。
 知識をひけらかすような様子は彼女にはなかった。紅茶に関わる仕事が好きだから、つい口に出たという様子だった。しかも優しく、やわらかく、親しみやすく話したのである。
「あの日、彼女の印象はがらりと変わりました。いえ、変わったというより、その魅力に気付いたといったほうがいいでしょうか。私と同じ瞳色で、春の木漏れ日のような……素晴らしい女性でした」
 一気にここまで語ってイェルクは、自分がうっとりしたような表情を浮かべているだろうと悟った。
「……妬きます?」
 少し上目遣いになって言う。
「いや? そこも情が深くて好きなところだし」
 偽りのないカインの気持ちだ。
「話している間のイェルの表情、本当に可愛かった」
 カインもまた、顔をほころばせていたのだった。
「可愛過ぎると、あちらが気を利かして帰るから程々にな」
 頭上の月と桜を指してカインは笑う。
 イェルクは弱いのだ……カインの言葉に。
 とりわけ、ストレートな甘い言葉には。
 今もイェルクはたちまち自分が、バターのように蕩けてしまうかと錯覚した。
 カインはイェルクに顔を寄せる。そして囁くように、こう告げたのである。
「……俺は今隣にいるのがイェルで良かったと思ってる」
「私もです」
 カインへの想いで窒息しそうになりながら、イェルは喘ぐように返事した。
 そうだ。カインだ。
 ――あなたが私の世界に色も光も……きっと時間も取り戻してくれた。
 カインはイェルを抱き寄せる。そして唇を重ねる。
 唇からはじまって全身に流れる痺れるような感覚を味わいながら、イェルクは無我夢中で願った。
 月も桜も見ない振りを――と。



 一通のメールが来た。
 タイトルはなし。短い文面と、位置情報を示す添付ファイルだけで構成された必要最小限の内容だった。
 差出人の名前をチェックしていなければ、見落としてしまっていても不思議ではなかっただろう。
 カイエル・シェナー、それが差出人名だ。
 メールに目を通すと、エルディス・シュアは弾かれたように玄関に向かっていた。ついさっき帰宅したばかりだがこうしてはいられない。木製のコートハンガーのほうを見ることもなく少々乱暴に上着を手にすると、袖に腕を通しながらもう、生暖かい春の夜気にさらされている。
 こういうとき、一人暮らしは行動が早い。かつて屋敷に暮らしていたときなら、自室から門にたどり着くまでだって、軽く数分を要しただろう。
 嫌な予感がした。
 たとえるならば夕暮れ時に、空を覆い尽くす烏の群れを目にしたような。
 ――あいつは……。
 エルディスは思う。
 ――心惹かれた存在を見つめているとき、周りのことがまったく見えなくなるから。
 世話の焼けることだ、まったく。

 カイエルは毎年、独りで桜を見に行っている。
 そういう規則を己に課しているわけではない。ないのだが、結局のところ気がつけば、いつもそうなっているのだ。
 いま、サクラウヅキに足を踏み入れたカイエルの様子は、見る人が見れば、愛しい恋人に逢いにいくところと思われるかもしれない。背筋はすっと伸び表情は凜然と気高く、それでいてその涼やかな目元に、ほんのりと優しげな容(かたち)をたたえているのだった。呼吸はかすかに乱れていて、期待に胸が高鳴っているのか、頬にはごくごくわずかなれど薔薇の色がさしている。
 やがて彼の頬の薔薇色が、もう少し、増した。
 ああ、とカイエルは心の中で嗟嘆する。
 見上げれば、ため息がでるほどに美しい。
 今年はとりわけ見事な花だ。それはまるで目を開けたまま見る夢、緋色づいた白が魔法のように、淡い紅月の光を浴びている。その花びらのひとつひとつに、こぼれんばかりの命の息吹が感じられた。
 風に吹かれ舞う花びらが渦巻き、ちりちりと地面をひっかく音がする。
「それで」
 桜を見上げる姿勢のまま動かず、カイエルは冷然と問いを発した。
「エルディス、何故いる」
 その言葉は質問のようでもあり非難のようでもあった。いずれにせよ興ざめしたように、たちまちカイエルの頬から暖色は散じている。そればかりか眉間には青い怒りが、うっすらと浮かんですらいた。
 カイエルは背後に気配を感じたのだ。それは、メールを出した相手であった。
 彼は桜のスポットで待ち構え、カイエルの姿を見出すや、そっと出てきたものに違いない。
 ――思いっきり嫌な顔されてるな……。
 エルディスとて、鋼鉄の心を持っているわけではない。日常においては笑みを絶やさぬ社交家ではあるものの、その内側にはよく熟れた桃のように、やわらかく傷みやすいものを秘しているのだ。
 このときエルディスにとっては、糸状に長く細い針を、心の弱い部分に突き立てられたようなものがあった。
「夜桜は一人で見たいと言ったはずだ」
 今度ははっきりと、非難であることを証明すべくカイエルは告げる。荒波の中心にある孤島のように、近づくことすらためらわせる口調で。
「神人とはいえ自分の身くらい自分で何とでもするし、この付近が治安が悪いとは聞いていない。問題はない」
 いま、エルディスの心をもっとも強く刺しているものは、カイエルの口調でも、表情でもない。彼がいまだ、自分に顔すら向けようとしないことだった。
「でも」
 と言いかけるエルディスを振り払うように、カイエルは黙したまま、そしてやはり振り返らないまま、桜の並木道に入っていった。
「……」
 追うべきか、ここできびすを返すべきか、短い時間エルディスは躊躇した。
 けれどもすぐに、エルディスもまた並木道へ足を向けたのである。
 軽率な判断とは思わない。いま見失えば生涯、カイエルを見つけられなくなるような、そんな気がした。

 カイエルは歩く。左右の夜桜が枝をもたげる並木道を。
 ずっと桜のアーチが続いている。ずっとずっと、まだ見えない先までも。
 人のないほう、寂しいほう、そればかり選ぶようにしてカイエルは奥入っていった。
 人の声は聞こえなくなる。それどころかある時点で、ぱたりと風音すらやんだ。閑けさというよりは無音、沈黙が訪れる。
 サイレント映画のような世界に、咲き乱れる桜だけが万華鏡のように艶やかな姿を見せていた。
 ところが静寂は。予告もなく破れた。
 忽然、カイエルの斜め前方よりざあっと強く一迅の風が吹くや、それまで枝にとどまっていた花びらが無数に降り集まり、そうしてまるで桜色した遮光カーテンのようになって、彼の視界を遮ったのである。
 渦巻く風は去らず、たちまちカイエルを包み込んでしまった。冷気を伴わぬ柔らかなブリザードに覆われたような気分だ。むっと息が詰まるほどに花の香りがする。桜の色以外なにも、見えなくなる。
 それまで、心ここにあらずと歩くカイエルの背中を、危なっかしいとは思いながらも距離を取って見つめていたエルディスだったが、この瞬間、雷管を打擲された弾丸よろしく無我夢中で駆け出していた。
 ――まずい!
 エルディスに向かって彼は手を伸ばす。
 伸ばす。
 伸ばす!
 この手が届かなければ、カイエルは桜に攫われ永遠に戻らない――大袈裟でなくそう恐れた。
 エルディスの右手がカイエルの腕に触れた。
 だが触れるより先に、カイエルは振り返っている。
 ふたりの視線は交差していた。
 エルディス――。
 口には出さねど、カイエルはエルディスのことを意識した。いや、このとき急に意識したのではない。今夜とてずっと意識していたのだ、背後からの視線を。
 はからずもカイエルが危惧したように彼は、桜に攫われて消えてしまってもいいと思っていた。
 桜の渦が消えたとき、自分の姿は残っていない――そういうのも悪くない、とすら。
 けれどそれはせいぜい、並木道に入るまでの話だ。
 花の嵐に止まっていたカイエルの思考がふたたび、時計の中の水晶のように時を刻みはじめた。
 ――いまは、エルディスがともにいる。腕をつかんで引いてくれる力が存在する。
 風は、現れるや否、嘘のように止んで、桜吹雪もすべて足元に舞い落ちていった。
 ようやく我に返った。カイエルも、エルディスも。
「どうした……急に」
 カイエルは、うたた寝していたところをそっと起こしてもらった人のように言った。右腕は、しっかりとエルディスにつかまれたままである。それは理解しているが、手を離せとは言わない。むしろ、腕に伝わる感覚に安堵と……自分の居場所を見つけたような気がしている。だからむしろ、このままでいたい。
「どうした、って……? ま、まあ、どうしたわけでもないんデスケドモ」
 エルディスはカイエルを見つめ返しつつ、なんだかぎこちなく言葉を濁す。
 そういえばそうだ。つい行動に出てしまったが、よく考えてみれば、実際にカイエルに危険が及んだり、異世界に迷いこみそうになったわけではない。ただ反射的に行動してしまったというのが正しい気がする。
「変なやつだ」
 思わずカイエルは吹きだしてしまう。
「いきなり腕をつかんでおいて、『どうしたわけでもない』とはご挨拶だな」
 言葉こそ厳しいが、見下すような笑みではないのだ。それどころかわずかとはいえ、腕をつかまれたことを喜んでいるような風があった。
 それが恥ずかしくて……そして、密かに嬉しくて……エルディスはみるみる紅潮していく。
「笑うな、頼む。今凄く恥ずかしい」
「そうは言われてもな」
「頼むったら!」
「ははは、なら」
 カイエルは元来た道に向き直ると、それが当然、とでも言うかのように告げるのである。
「花見を再開するとするか。一緒に」
「独りのほうが好きなんじゃないのかい?」
「それもそうだが……また急に腕をつかまれたりしたら心臓に悪いからな」
 ふん、とエルディスはむくれてみせた。
 それを見てまた、カイエルは小さく笑った。



依頼結果:成功
MVP
名前:カイエル・シェナー
呼び名:カイエル
  名前:エルディス・シュア
呼び名:エルディス

 

名前:蔡 盟羅
呼び名:盟羅
  名前:K9
呼び名:ケイ、ケイ君

 

メモリアルピンナップ


エピソード情報

マスター 桂木京介
エピソードの種類 ハピネスエピソード
男性用or女性用 男性のみ
エピソードジャンル ハートフル
エピソードタイプ EX
エピソードモード ノーマル
シンパシー 使用不可
難易度 簡単
参加費 1,500ハートコイン
参加人数 5 / 2 ~ 5
報酬 なし
リリース日 04月05日
出発日 04月12日 00:00
予定納品日 04月22日

参加者

会議室

  • [9]蒼崎 海十

    2016/04/11-23:33 

  • [8]アキ・セイジ

    2016/04/11-22:43 

    いい桜日和になりそうだな。
    アキ・セイジと相棒のランスだ。

    俺達は旅館で一泊して夜桜を楽しむ予定でいる。
    桜と言うのはいっせいにさいてパッと散る。
    咲いてる時も散る時も鮮やかで美しいと思う。

    それを相棒と共有できることが嬉しいと思う。

  • [6]カイエル・シェナー

    2016/04/09-11:22 

    カイエル:
    カイエル・シェナーと精霊のエルディス・シュアだ。
    どうか、宜しく頼む。

    桜というのは、とても美しいものだな。見ているだけで時間を忘れる。

    エルディス:
    だからって、桜を見上げて数時間も立ち尽くしてるとかヤメテクダサイ、本当に心臓に悪いから!
    それじゃあ、ご一緒の皆さん、どうかよろしくな!

  • カイン:
    カインとイェルクだ。
    盟羅とK9ははじめまして。ま、よろしく頼むわ。
    後は皆はじめましてじゃねぇけど、よろしくってことで。

    夜桜か。風情があっていいな。
    俺達はまだ詳細決めてねぇや。
    多分公園かカフェかって所だとは思うんだが。
    幻想的な光景だろうから、それに見惚れる嫁に見惚れ過ぎないよう気をつけておくがな。

    イェルク:
    (コホン!)
    紹介されましたイェルクです。
    盟羅さんとK9さんははじめまして、以後良しなに。

    カインとのんびり過ごしていると思います。
    お互い充実した時間になるといいですね。

    それでは…

  • [3]蒼崎 海十

    2016/04/09-01:35 

  • [2]蒼崎 海十

    2016/04/09-01:34 

    海十:
    蒼崎海十です。
    パートナーはフィン。
    皆様、宜しくお願い致します!

    短い夜桜…桜ってそれだけでも儚い印象ですが…短い夜が更にそれを儚くさせるように思えます。
    闇夜に浮かぶ桜は、凄く幻想的でしょうね……楽しみです。

    フィン:
    海十は詩人だね(にっこり)
    …良い一時となるといいな♪

  • [1]蔡 盟羅

    2016/04/08-09:13 

    はいはい、はじめましてな人もこないだぶりの人も
    蔡盟羅とシノビのK9やで
    ほなまぁ皆さん好い夜になりますよう
    僕?僕らはまぁーーそうは好い夜にはならしまへんやろなーぁ(隣の仏頂面を見る)

    K9:されてたまるか


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