在り方ひとつ(三月 奏 マスター) 【難易度:普通】

プロローグ

「嘘だ!! そんなバカな! 何でこんなっ!」
 神人の悲鳴に、A.R.O.A.の医療機関の職員は小さく頭を振った。
 その目の前には、薄暗い空間で、檻を挟んで約二メートル半はあろうかという四足歩行の巨大な獣が腹這いに伏せている。
 獣は人を襲う様子もなく、ただ静かに高窓からの光を瞳に映して、神人を見つめてしゃがみ込んでいた。
 ──最初は、精霊が引いた単なる風邪かと思っていた。
 しかし症状は悪化。首都タブロスにあるウィンクルムとの提携病院への入院を強いられ、神人が何事かと思う間もなく、面会謝絶を余儀なくされた。
 そして、3日が経過して……ようやく神人にのみ面会が許された。

 目の前の獣が、自分の精霊であると説明されて。

「何故だ! どうしてアイツがこんな!!」
「今、精霊にのみに罹る奇病です。契約精霊も、そうでない精霊も。
 研究の範囲では、今は理性もあり、人語を解し話すことも可能ですが……
 この状態から、徐々に理性を失い明日の昼には──完全に正気を無くし、暴れ狂い人肉を好み食らうように」
 僅かに強張り、息を詰まらせた神人の喉から空気が鳴った。
「……な……治せるん、だよな……? 治せるんだよな!?」
 神人が白衣の人物に縋り付くように叫ぶ。
「残念ですが……。A.R.O.A.の見解で申し上げれば、ウィンクルム様であられたなら『神人が罹る病気ではなくて良かった』と……」
「ちょっと待てよ! 俺にはアイツしかいない!
 幾ら適合する精霊がいても、俺にとっての精霊はアイツしかいないんだ!!」

 神人が思わず、目の前の人物の白衣を掴んで揺らし。
 名札から、その人物がA.R.O.A.の研究員である事を知る。
 A.R.O.A.のウィンクルムに対する人道性には、前回のギルティによる大規模襲撃の際に陰が差していた事を知る者も多い。その視点からすれば、今における血も涙もない発言も容易に想像がついた。
 力なく、何かを悟り諦めた様子で神人の手が布触りまで硬い白衣を手放す。
「ですが」
 ぼろぼろと涙し、目の前の精霊である獣を見つめている神人に、研究員は一つの鍵を差し出した。
「完全発症から1日…明日の正午まで。それは今までに例外はなく、安全である事が分かっています。
 あなたには、せめて、そのお時間までは牢の中で過ごす事が許可されています」
「……きょ、か……?」
 どうして、自分の精霊と共にいるのに許可が必要なのか。掌の鍵を見つめながら、ただ神人は涙が止まらない。
「ですが明日の正午、専門の処理班の手により……精霊の処分を下します。精霊が血に飢えた獣になり街に放逐される等、決して許される事態ではありません。
 神人が真っ先に狙われたケースもあります。その為、正午前には必ず牢屋から出てください。執行への立ち合いは自由です」
 執行とは。どうして、数日前までずっと、ずっと一緒にいた大切な存在をそんな目に遭わせなければならないのか。

「ですが、今までのケースより。
 ウィンクルムであった為に、精霊の姿が堪えられないという声もあり、神人自らが精霊に手を下すケースもありました。
 その為、ここには戦闘時の装備を伴い、精霊の最後を神人が下す事も特例的に許可されています」
 特例、こんなひどい特例など、あっていいはずがない。
 だが、最後に……どうせ、誰かに殺されてしまうのであれば。

「………………」
 神人の完全な沈黙を肯定と受け取ったのか、獣と化した精霊がいる牢の鍵は、決して開け放しにしてはならないと言い残し姿を消した。
 ゆらり、と。泣き疲れて、神人は焦点の合わない瞳で辺りを見渡す。
 手には牢の鍵がある。重たくも雑多な造りのそれを、太く巻き付けられた鎖の先を繋ぐ頑丈な錠へと差し込み、外れた錠から鎖を解いた。
 鎖は、持ち上げるのにも負担が掛かる──ふと、神人はその脳裏に思考を馳せた。
 ……もしこれを、牢屋の内側から掛けて、鍵を牢の中に放り込んでしまえば。
 そうすれば、最後まで明日の正午を、彼が彼でなくなる最後の瞬間まで傍にいられる。人肉が主食? 自分の身なんてどうだっていい。

 どうせ、彼は殺されてしまうのだ。

 牢屋に入る。狭い。こんな所に閉じ込められていたなんて。
 神人が、獣の──精霊の名前を呼ぶ。
 獣から、人の言葉で──神人の名前が紡がれた。


解説

朝起きたら、神人であるあなたの精霊が熱を出していた。
ただの風邪かと思い、病院に向かったところ、神人は突然の面会謝絶を受け。

次に会った時には、その精霊は獣と化していた。
──翌の正午には、完全に理性を失くし、人肉を食らう化け物として。


〇これは、フィヨルネイジャで見た白昼夢のエピソードとなります。

〇完全個別描写となります。

〇プロローグ本文の前提に基づいて、翌日の正午までを獣となった精霊と共に、ご自由に過ごして頂く事が出来ます。
(今回、獣となった精霊を倒す為のみを利用目的として、バトルコーデの持ち込み可となります)

〇精霊が会話の出来る、それまでの時間をどう過ごすのかはもちろん、獣となった精霊と最後まで共にするも、翌日の正午を待つまでもなく、神人自ら精霊の命を絶つのも、それが出来ずに『処理班』に任せるも、
『精霊である獣を連れて部屋を出る』以外の殆どの行動は可能です。

※獣を逃がそうとした、あるいはどこかへ連れて行こうとした、共に逃げようとした等の行動は徹底監視されております。
それらの行動が確認された場合には、どの様な状況下においても即座に獣である精霊は発見、射殺されます。

〇獣となった精霊は人語で会話をする事が出来ますが、日付が翌日の正午に近づくにつれて、会話は弱く、思考は不明瞭なものとなっていき、最終的にはどのような強固な意志を持っていたとしても、その疎通は極めて困難となります。

〇凶暴化した精霊である獣は、神人の手でも倒す事が可能です。武器は借りることも出来ます。

〇フィヨルネイジャの白昼夢である為、精霊がなる獣の種類は幻想種を含めて自由です。こだわりがあられましたら、是非お書き添え下さい。目覚めた後のプランもお待ちしております。

〇この夢は、実体には何の影響もございません。

〇フィヨルネイジャへの移動費、ならびに起きてからの夢見の悪さから、財布を落とし500Jrが消費されます。


ゲームマスターより

この度は、このページをご確認頂けまして誠に有難うございます。三月 奏と申します。

今回は、フィヨルネイジャの白昼夢を舞台にお借りしております。
シンパシー有りのEXとなっており、アドリブが多数入るものと思われます。
どうか何卒ご容赦の程を頂けましたら幸いでございます。

相談期間が4日と若干長めとなっておりますので、ご注意頂けますよう宜しくお願い致します。

それでは、白昼夢の状況下では御座いますが、ウィンクルム様による個性に溢れた皆様のプランを心よりお待ち申し上げております。

リザルトノベル

◆アクション・プラン

蒼崎 海十(フィン・ブラーシュ)

  銃を借り、懐に入れ牢屋へ入る

フィンがフィンで居られる最後の瞬間まで傍に居たい

そうだ、もしかしたら…もしかしたら、フィンはフィンのまま…元に戻るだって出来るんじゃないか?
最後まで俺は信じる
信じたい
けれど、フィンがフィンでなくなってしまうのならば…その時、俺は

変わらないフィンの優しい声
それが失われてしまうなんて信じられない
…泣くな
笑え
一番辛いのはフィンだ
俺がこれ以上フィンを苦しめてどうする

安心しろ、フィン
その時は…俺がフィンを止める
そして生きる
フィンの分も
だから心配するな

有難う、フィン
大好きだ
微笑んで
苦しまず逝けるよう一発で

ごめんな
本当は嘘だ
フィンを一人で逝かせない
俺も一緒に逝く
こめかみを撃ち抜く


カイン・モーントズィッヒェル(イェルク・グリューン)
  ※部屋に入る前職員にトランス可否を確認

イェルをまず抱き締める
「悪ぃ、抱き締めるには俺の腕が小せぇ」
優しく頭撫でる
理性を失う前に俺に討てと言う
「俺に見せたくないとか、本当に可愛い嫁だ」
怖いだろうに
一緒に背負えないのに

問題ないならトランス、LT
出来なくとも最後にキスし、インスパイアスペルを口にしながら討つ

ちゃんと魔法使えよ、イェル
夢から覚めたら隣に寝てろよな

目が覚めた
本当に隣に寝てた
また白昼夢かよ、マジ悪趣味だなくそったれ
イェルが冗談めかして言うが震えてる
手を広げたら飛び込んできて抱き締めて…あぁ、イェルが俺の腕の中にいる
「俺も、ちゃんと怖かったよ」
寝かせてくださいって言われても、今夜は聞かねぇよ


信城いつき(ミカ)
  説明は全部聞いた、でも受け入れたくない
俺はミカの神人だから。駄目な時は俺がケリをつけるから
でも必ず元に戻すから、お願いだから待って!

大丈夫?苦しくない?
今レーゲンと一緒にもとに戻す方法探してるから
大丈夫すぐに家に帰れるから

どうしてそんな遺言みたいな事言うの
約束したよね
いなくならないって、待っててやるって!

研究員が持ってきてくれたコーヒー
ミカ笑ったでしょ、飲めるよ!(無理やり飲む)

少しの間我慢してね、一緒に帰ろう
毛並み柔らかいね。あったかくて眠…く…

(どうして…お願いやめて!)

目覚後:
ミカ起きて!(乱暴に叩き起こす)
生きてるよね夢じゃないよね…ねっ、ぁ…(感情ぐちゃぐちゃのままミカにしがみつく)


楼城 簾(白王 紅竜)
  何故。
納得出来ない。
けど、僕でなくて良かったと言う。
「バカを言わないでくれ! 何で紅竜、あなたなんだ!」
視界が歪む。
生暖かいと思ったら頬を舐められてた。
僕は泣いていたのか…。
この先紅竜がいないなんて…。
時が許すまで傍に寄り添う。
僕が討つ。
斬った直後微笑んでる様な紅竜ヘ口づけ。
やっと気づいたよ。
僕は、紅竜が好きなんだ。
気づくのが遅いけど。

目が覚め、夢と気づく。
紅竜へ「趣味の悪い夢だった」と苦笑したら、泣いてたらしく、ハンカチで顔を拭かれた。
この夢を見なければ、僕はこの想いを自覚しなかったから、少し感謝。
あなたが好きだよ、紅竜。
…大好き。
言っていいのか判らない。
でも今は傍にいたい。

※地の文台詞NG


アーシェン=ドラシア(ルーガル)
  両手剣を手に牢へ入る
あんたとの契約を祝して贈られた剣を

俺達が死ぬなら戦いの中だと思っていたよ
俺の精霊はルーガルだけだ
俺にもあんたにも互いだけ、俺はそのつもりで契約した
ずっと神人になりたかった
そして誰かの一番になりたかった

だから最期にここで手に入れる

このまま獣になれば真っ先に俺を食うだろう
あんたの一番は俺のものだ

内側から鎖をかける
俺にとっても一番だから 抗って反撃して殺してあげる
だから求めろ 戦え 殺してみせろ 本気で!

そして目の前が赤く染まった
と思ったら生きていて 俺を見下ろすあんたを見つめ返していた
…折角一番になれたのにな

でも頬に触れる温度を感じると
一番じゃなくても 生きているならいいかと思う自分もいた



 蒼崎 海十は、説明から感じ受ける幾度とない否定の後、それを目の当たりにする事でついに信じざるを得なくなった。
 牢屋の奥。夜の高窓の下に蹲る、艶やかな金の毛皮を持ったその巨大な狼は……確かに、精霊フィン・ブラーシュである事を。

 蒼白になりこちらを見つめてくる海十に、フィンは毛に埋もれ爪が隠れ見える自分の手を見下ろした。
(良かった……これが海十じゃなくて、良かった)
 明日になれば理性を失くし人肉を食らう、とまで聞いた。
 これがもし海十であったなら……フィンには想像もしたくない事柄だった。
 A.R.O.A.の研究員と話をしていた海十の手に、小型の拳銃があるのにフィンは気付いた。
 何よりも安堵が先立つ。……海十が、全てを終わらせてくれるのだったら、それは何より安心できるから。

 研究員が姿を消し、錠と鎖を外して海十が牢屋に歩みを進めた。
 海十は思案する……フィンが、助かるという可能性。
 彼が、彼のまま元に戻るのではないかという可能性。
「……」
 目の前の金色の狼は、思う海十の葛藤を慮るかのように、先に何も語ろうとはせず、じっとこちらを見つめている。
(信じたい──
 けれど、フィンがフィンでなくなってしまうのならば……その時、俺は)

「──ねぇ海十」
 海十の目の前。金色の狼は、今確かに彼の人の声で海十を呼んだ。
(ああ、フィンだ……)
 視界が滲んだ。……柔らかく優しい、フィンの声。
「フィ……ン」
 海十は、こぼれ落ちそうになる涙を慌てて塞き止めた。
 ……泣いてはならない。
 笑え。笑わなくては。
 自分は笑わなければならない──一番辛いのはフィンなのだから。
 己が泣けば、自分が原因でありながら何も出来ないと、フィンが悲しみ苦しむ事は、容易に想像ついたから。
(これ以上……俺がこれ以上フィンを苦しめてどうする……!)
「フィン」
 そっと、海十は半ば無理やり笑顔を作って、獣の身体に手を伸ばして撫でた。
 それは、とても温かかった。

「ごめんね、海十。お願いがあるんだ」
「ああ、何でも言え……何でも、聞くから」
 いつも通りの、フィンの柔らかな声が響いた。
「──俺が俺でなくなったら、海十の手で息の根を止めて欲しい」
 フィンを撫でていた海十の手が止まった。
「安心しろ、フィン。
 その時は……俺がフィンを止める」
 ……海十の言葉は、まるで予定調和のように紡がれた。
 フィンも、海十の否定を望んでいた訳ではない。だから、確かにそうではない事に安堵した。
 しかし、フィンはその違和感の正体を掴めない──
「そうすれば……幸せに逝けるから。
 我儘を……言ってごめんね」
「……」
 沈黙に、フィンの心に不安が沸き立つ。これからの言葉を躊躇う。
 だが、フィンにとって、今この言葉を告げない訳にはいかなかった。
「沢山海十を苦しめるけど……どうか、生きて幸せになって欲しい」
「──」
 その言葉を受けた海十の顔が、その沈痛な重さを隠す事なく俯かれる。
(本当なら、俺の手で……)
 幸せにしたかった……しかし、フィンの想いの全ては秘められる。
 それは、何よりも相手を想いながらも、伝えれば相手を永劫縛る呪言に他ならなかったから。


「海十は幸せになれる。
 海十は素敵なんだから」
 それからどれだけの時間が経ったか──時間の感覚が壊れたフィンは、余りにも長い間を置いて先程の続きを話し始めた。
「俺、生まれ変わって海十に会いに行く。
 だから幸せになってないと怒るよ?」
「フィンを止めて……そして生きる。
 フィンの分も──
 だから、心配するな」
 どこか、不自然な様子で海十が告げた。
 しかし、人としての感覚が途切れつつあるフィンは、その様子に気づけない。
「……オニーサンとの約束だよ?」
 そして、フィンが、言葉の続きとして虚ろな意識でそれを告げた時。
 ──それは、既に高窓から翌の光が差し、研究員の悲痛な呼び掛けが、牢から出て来ない海十へと向けられていた真っ只中だった。


「待ってください! フィンは! フィンはまだ大丈夫です!!」
 海十がフィンの傍らに立ち、牢越しに研究員に訴え掛ける。
「正午が過ぎた! 今すぐ出て来るんだ、いつ狂化してもおかしくない!!」
「まだ! まだ大丈夫だよな!? フィン!」
 それはあまりにも泣きそうな声。
 海十の、縋るような希うような言葉。
 ……しかし、狼として立つフィンの身体は、既に四本足でよろめきながら唾液を零し痙攣を起こしている。
 既に自我があるとは思えない。
 しかし、今の海十にはそれを判断することが出来ない。

 できる訳がない──現状を判断したら……自分から、フィンがいなくなってしまうのだから。

 しかし処理班が部屋になだれ込み、銃を構えた瞬間、
「神人だけでも!」
 無意識にフィンの耳に飛び込んだ研究員の言葉、牢に銃口が向けられた刹那。
 その銃口が、海十に向けられたものと錯覚したフィンは弾けるように海十の前に飛び出し──
 鉄格子にその巨体を押し付けて、発砲された銃砲の全てをその身に浴びた。
「フィン!!」
 海十の絶叫が響き渡る。
 牢屋の入り口をその胴体で塞がれ、処理班は海十の元まで辿り着けない。

 濁った青白い瞳が海十へ向いた。
 海十にも分かる。
 フィンが、たとえ事実と違ったとしても、海十を守ろうとしたことを──

(海十……どうか俺で居られる間に……)
 既に、フィンの正気は逸している。それでも、
「有難う、フィン。
 ……大好きだ」
 海十はブーケを手にする花嫁のように微笑んで、銃口をフィンに向けた。
(……有難う、愛してるよ)
 そして、フィンの意識は愛する人の銃声を耳に闇へと落ちた。


 そして今──目の前にいる、フィンだった獣は動かない。
「……ごめんな。
 本当は、嘘だ」
 海十は、フィンにずっと上辺だけの嘘をついてきた。
 フィンの問い掛けに、頷いた。生きると言った。
 それらは、もう何もかも、何もかもが──嘘。

「待ってて、直ぐに」
 一緒に逝く。
 でも、その前に──

 大切な、大切なフィンを殺した自分が。本当は……自分が、どうしようもなく許せなくて。
 しかし、この身はフィンが愛してくれたものだから。
 だから──せめて弾丸から自分を庇って負った、彼の痛みだけでも分かち合わせて──

 思い決めた海十は、そうして己の身体に躊躇いなく引き金を引いた。
 大切な彼が最後に受けた傷は、自分も背負わなくては。
 銃声が数発──しかし、意思が激痛の走る身体についていかず、海十はその場に座り込む。
「まだ、足りない……フィンの、痛みに、比べたら……」
 この程度、心の痛みにも比べたらほんの些細で。
 しかし、このまま生き延びてしまう事の方が怖いから。
「フィン、今逝くから」
 そして、こめかみに当てた銃に、海十は最後の力を込めた。


 フィンが目を覚ました時、そこには透き通った薄水の空と、広々とした草原が広がっていた。
「ここは……海十! 起きて、海十!」
 慌てて、隣に眠っている海十を起こす。
 そして、目覚めて瞳を見開いた海十は、つい思ったままを口にした。
「どうして……
 確かにあの時、自分のこめかみを──」
「──」
「ぁ……」

 失言。
 目の前のフィンの表情から、ここがどこで何が起きたかを悟るより前に、海十は理解した。
 ……フィンは、今、物凄く怒っている。海十に、ではなく。自分自身に。
「……フィン……
 ごめん……」
「違うよ、海十」
 その言葉は、どこまでも冷静だった。
 悪いのは決して海十ではない。
 悪いのは、海十の事を、見通しきれなかった自分自身だ。
 置いていってはいけなかった。
 安易に、自分が孤独にした『たった一人』の幸せなどを願ってはいけなかった。
 実際に、海十は夢の中で──

「ごめん、海十……俺の命は、俺だけの命じゃないのに」
「俺こそ……フィンがいなくなると思ったら──」
 フィンは、海十の言葉半ばでその身体を強く強く抱き締めた。

「もう、何があっても死なない。生きていかなくちゃいけない。
 ……生きて、ちゃんと海十と歩いていくから……」

 ごめん、と繰り返した謝罪と共に、誓った。
 もう、どちらかの欠けた幸せなんて、絶対に考えない、と──




 高窓から光差す牢屋の中で。獅子にも似た巨大な赤の獣──ミカは静かに思考を重ねていた。
 今、こうである自己への憐憫は驚く程に無い。
 ただ──心配なのは。
「お願い! ミカに、ミカに会わせて!」
 心配なのは、これから先の彼の未来だけ。

「ミカ! ……!」
 牢の前に飛び込んできた信城いつきはミカの姿を見て息を呑んだ。
 傍に立つ研究員が、いつきに声を掛ける。
「お話した通りです。明日の正午には処理班が──」
「待って! 必ず、必ず元に戻すから、待って!」
「ですが、今までに元に快復した症例は」
「俺はミカの神人だから! 駄目な時は俺がケリをつけるから!!」
 研究員に縋りつくように、いつきが叫ぶ。

「チビ」
 見ていられない。ミカが窘めるようにいつきの名を呼んだ。
「ミカ!」
 いつきが鉄格子の方へと駆け寄った。
 その様子に、研究員はほっとした様子を見せると、型でもあるのだろう説明と共に、牢屋の鍵を置いてその場を後にした。
「大丈夫? 苦しくない?」
 錠前を外し、牢屋に飛び込んできたいつきが、心配そうにミカの身体を撫でた。
「今、レーゲンと一緒にもとに戻す方法探してるから。
 大丈夫、すぐに家に帰れるから」
(……レーゲンも、チビにぬか喜びをさせるような真似を)
 ミカは思い、人間であればその不快が見て取れる表情を隠さなかった。
 しかし、レーゲンの気持ちも分からなくはなかった。いつきの為に、そしてミカ本人の為にも、何かせずにはいられなかったのだろう。
(……つくづく、二人揃って呆れるほどのお人よしだな。
 やめてくれ、こっちが心配になる)
 ミカは、二人に向けたその思いを言葉には出さず、隣に座るいつきの傍へ顔を寄せた。
「いつき。これから言う事をよーく聞け」
「う……うん、何?」

 それからのミカの様子は、非常に淡々としたものだった。
「俺の携帯の電話帳のアドレス一覧の中に、プライベートの友人フォルダがある。
 明日の夜になったら、そこに掛けて神人だとでも言って、その時の事情を頼む」
「う、うん」
「それから、仕事で世話になっている……チビの今のバイト先だな。そこにも同じように連絡してくれれば、後は店長が取り計らってくれるはずだ」
「……」
 とつとつと、当然の事実を並べるようにミカの言葉は続く。
「それから、レーゲンの内緒話も。
 レーゲンは、チビには話していない秘密がまだ沢山──」
 レーゲンとこの話をした時には、男の約束という単語が出ていた気がしたが、今はそんな事は言っていられない。
「ここら辺は、ケンカしたときの奥の手で使え。それから──」

 ミカの口から続く、いくつもの『それから』──
 それは……願い。
 このまま、自分はいなくなる。これは確信だ。元に戻る事は恐らく無い。
 ならば、できる事は一つ。

 自分がいなくなろうとも。いつか道に迷った時、そばにいてやれなくても。その道しるべになれるように──

 しかし、その量は明らかに多く。
 流石のいつきも、その表情に困惑と不安、そして僅かな怒りを滲ませてミカを見た。
「ねえ、待って!
 どうしてそんな遺言みたいな事言うの!?
 ──約束したよね? いなくならないって、待っててやるって!」
「……」
 あの時のように……今は、お互い手を合わせる事は出来ないけれども、それでも光景を思い出す事はできる。
 約束をした、確かに『待っててやる』と約束をした。
 しかし、それは──

「──なんてな。
 ……チビは、本当にチビちゃんだな」
「……! もうっ、冗談が過ぎるよっ!
 俺、本当に心配して」
「分かった分かった、悪かった」
 宥めるミカに、いつきは大きくむくれて、そして笑った。
 信じる──と、そう決めたらどこまでも曲げないのがいつきという存在だから。
 ミカは、その在り様に眩しさすら感じるいつきの気が逸れた間に、静かに正面に伸ばされた自分の手を見た。

「……」
 鮮やかな赤い毛に隠された、太く獰猛で鋭い爪。
 これでは、たとえ目の前のいつきを容易く切り裂く事は出来ても、お互いの手を合わせることは出来ない。

 ──約束した、あの時のようには、いかない。


 夜半が過ぎ、ミカが何故か受け応えをせず会話も無い。沈黙だけがその場を支配する。
「レーゲンに連絡してみるよ! きっと何か分かってると思うから……!」
 そして牢を飛び出したいつきの姿に、何かあったのかと研究員が入って来る。
 ……ミカは、冷静に考えていた。

 レーゲンから聞いたクリスマス。
 過去、いつきはデミ・オーガ化した家族で親友でもあった『マシロ』という犬を撃った。
 しかし、マシロは理性を失くしながらも、その命が尽きるまで、いつきを守り、息絶えた。
 それを、話せるようになるまで──いつきの呵責はどれ程のものだったのか。

 このままでは、自分の存在が、いつきにマシロの時と同じ傷を背負わせることになる。
 ……大切な存在を、自らの手で殺す事……もう、いつきにそのような思いをさせたくはない。
 今まさに薄れつつある意識の狭間であっても、決して──

 そしてミカは、様子を伺う研究員に声を掛けた。
「少し、話があるんだが。いいか」


 落ち込んだ様子で戻って来たいつきの元に、差し入れとして一杯のコーヒーが届けられたのは、それからすぐの事だった。
「チビ、コーヒーなんて飲めるようになったのか? お子様舌のくせに」
 いつきが再び寄り添った、ミカの身体が僅かに動く。
「あ! 今、ミカ笑ったでしょ、飲めるよ!」
 手の中にあったのは、ブラックコーヒー。
 普段いつきは口にしないコーヒーだが、ミカにそう言われては黙ってはいられない。
 口につけて一気。
 いつきにコーヒーの味は分からないが、無理矢理飲み干したそれは、自分が稀に飲むどのコーヒーよりも苦かった──

 それから、大した時間は経たなかった。
「ねぇ、ミカ。もう少しの間我慢してね、一緒に帰ろう。
 でも、本当にミカの毛並み柔らかいね。あったかくて眠……く……」
 いつきの手から、空の紙コップが落ちる。
 同時に。音を立てないようにしながらも、複数の特殊な恰好で武装した研究員が入って来た。
 話と違う光景に──いつきは、眠気から完全には覚醒できなかった。
 身体は動かず、ただぼんやりとした中で、その光景を見る事しか出来ない。

「非常に残念なことに、こちらとしては有難い話です。
 ですが、あなたは本当にいいのですか?」
「──ああ、これでいい。連れて行ってくれ。
 こいつが……彼が眠っている間に終わらせてくれ」
 自分の身体が、誰かの手により持ち上がる。
 ……ここに、自分がいなくなれば、これから何が起こるのかくらい、分かる。

(どうして……お願いやめて!)
 そして、願いははかなく。
 いつきの背後で、銃声が響き渡った──


「ミカ!!」
 いつきは声を上げて飛び起きた。
 見える世界は清々しい青空と、緑の草原……フィヨルネイジャ。
「ミカ起きて!」
 隣で、今度は確実に人の姿をしたミカを見つけたいつきは、その肩を掌で力一杯繰り返し叩き付けた。
 それで目を覚ましたミカは、すぐにその身を起こし今までが夢であった事を理解する。
「いっ! 痛たたっ、落ち着けチビ!」
「生きてるよね夢じゃないよね……ねっ、ぁ……」
 いつきの表情が、様々な色を綯交ぜに変化する。変わらないのは、止まらない涙でぐしゃぐしゃになったその頬だけ。
「……大丈夫、ただの夢だったんだから」
 ミカ自身も、まだ僅かに浮遊感が残る身で、もう見ているのも居たたまれない様子で、しがみ付いてくるいつきを見下ろした。

(ただの夢──これが、ただの夢じゃなかったら……?)
 宥めるようにいつきの髪を撫でながら、ミカは己の言葉を自問自答する。
 答えは簡単──ほぼ、間違いなく。
 自分は『同じ事をする』だろう。

 いつきがミカの存在をどれだけ大切に想い、泣いて、自分がいなくなるどんな不遇や悲劇の否定をしようとしたとしても、
 今回のようにいつきの心への深い創傷は避けられなかったとしても──

 これが、ミカにとって何よりも『一番に、いつきの為である』事を、強く願い信じた結果であったから……




「紅竜、さん……?」
 研究員がいる前で、楼城 簾が相手の名を呼び捨てなかったのは最後の自意識。
「簾さん」
 そして、牢の中にいる純白の美しくも猛々しい鬣を持った獅子──白王 紅竜もその様子に自分が何者であるのかを証明するように、同じく敬称付きで彼を呼んだ。

 簾が、研究員から説明を受けている。
 紅竜は、既に何度と聞いているのであろうその説明に、ただ無言である簾の姿を見つめていた。
 そして、研究員が立ち去ると、弾けるように鍵を手にした簾が急ぎ鉄格子へと向かって来た。
「紅竜……」
 言葉を戸惑い探す簾を見ながら紅竜は思う。
(……彼と会えるのも最後か)
 だが、それでも。

「あなたが発症しなくて良かった」

 ただでさえ苦手な微笑だ。獣になって上手くなる道理などあるはずもない。
 しかし、その紅竜による微笑みを見た簾は、ついに怒りを堪え切れずに絶叫した。
「バカを言わないでくれ! 何で紅竜、あなたなんだ!」

 普段からは想像もつかない程に、冷静とは程遠い手つきで激しい音を立てながら、錠前を外して鎖を引き剥がすように解いた簾は、紅竜の元へと駆け寄った。
 目の前には、明日には未来の無いと言われた白獅子が、今はその様子を一切見せることなく静かに場に伏せ、視線を立ち尽くす簾に合わせている。
「──」
 紅竜の姿を映す簾の世界が、水面を見つめるかのように大きく揺らいだ。
 そして、床に落ちる。それは、簾の頬を濡らした、紛うことなき大粒の涙。
 簾はただ、こちらの姿を見ているだけで、恐らく気づいていないであろう。
 紅竜は、それを若干信じ難い心持ちで見つめていた。
 ……彼は、人としては欠損していて。血も涙もないクズだと。ずっと思ってきた。
 そんな、彼が泣いている。自分の為に、既に人の形を取っていない自分の為に、泣いている。

「簾……」
 紅竜は、簾に自分の手を向けようとして、改めてその手が巨大な獅子のものである事を思い出す。
 ──自分の不遇を必要以上に嘆くつもりはない。
 ただ……肝心な時に、この手が使えないという事は。それは、何と口惜しい事だろう。
「……?」
 ふと、簾の頬に温かなものが触れた。
 それは涙を掬う獣の姿をした紅竜の舌。
(……僕は、泣いていたのか……)
 自分の頬を拭う仕草は、簾には獣であってもとても優しく感じられて。
 ついに、その瞳からは理性の堰が外れて、とめどなく涙が溢れ出した。
 この先、紅竜はいなくなる──明日にはいないのだ。この温かな存在は、明日の正午には……もう、いない。

「どうして……
 どうして、あなたなんだ……!!」
 圧し殺した声で小さく叫ぶ。
 八当たりだと分かっていながらも、拳を一つ。簾は紅竜の巨躯に耐えかねるように打ち付けた。


 暗くなった高窓と、時計が夜を知らせる。
 それでも簾は、紅竜の鬣にずっと寄り添って、紅竜も、それを拒否する事無く受け入れていた。
 簾は、先程から沈黙している紅竜の首にそっと抱き締めるように腕を回している。
 鬣に完全に顔を埋めるような形になっても、簾は離れようとしない。
「……獣臭い、ので。は?」
 何時間ぶりであろうか。紅竜が非常にたどたどしい言葉で告げた。簾はその言葉の変容ぶりに、胸を刃物で抉るような痛みを感じつつも、それを見せる事なく紅竜の身に体を寄せた。
「ああ、獣の匂いだよ。でも、
 獣になっても、あなたらしい匂いがする」

「そう、か」
 紅竜は、つたない言葉でそう残す。
 本当は、本当はもっと沢山の言葉を残したかった。
(明日には離れてしまう彼に。これからの彼の為になる事を、ああ、肝心な時にその言葉が浮かばない。
 これから護れなくなる前に、何かあなたに残しておける言葉を)
 嵐の雨のように紅竜の脳内を叩き付ける言葉は、本当に雨の雫のように、通常の何倍もの速さで消えていく。
「……」
 全ての言葉が消えていく。言葉の代わりに、がちがちと身が勝手に僅かに歯を打ち鳴らし、無意識から湧き上がる飢えが、共にその言葉を咀嚼していく。
 届かない──紅竜の瞳から落ちたひとしずく。
 それを、静かに簾の手が掬い撫でた。


「僕が討つ」
 今は、ただ高窓から差し込む天を照らす太陽が眩しかった。
 目の前には、一匹の眼球全てを赤に染め、飢えによろめきながら、完全に自我を失くしたのであろうこちらを狙う一匹の獣がいる──
 簾が、処理班を手で制し、用意させていた太刀を抜いた。
 それを、敵対意思と取った白獅子が襲い掛かる。

 太刀『紅蜘蛛』──この刀の曰くのように、
(あなたの血で、自分が妖怪になるのなら後悔なんてしないのに)
 簾の太刀は、相手の血を吸う事をこの上ない是とするかのように、飛び掛からんと二本足で跳躍し掛けた獣の胴体を、袈裟懸けに切り裂いた。

 獣の身体が地に落ちた。
(あぁ、消える……私が消える……)
 紅竜の見えていたのかも分からなかった視界が暗くなっていく。思考は闇に落ちていく。
 しかし……これが『あなた』の手によるものならば、それはきっと幸福と呼ぶのかも知れない──
 もう、そう紅竜に浮かんだ『あなた』が誰かも分からない。
 ……それでも、その意識が完全に途切れる間際。
 その言葉と共に、獣の身でありながら微笑んでいた事が分かる紅竜へ『あなた』が──簾が、口づけた。
 簾の姿が、紅竜の瞳にはっきりと映った。
 最後の泡沫が、浮かんで……消える。

(……レン、オ、レはクズで、モ、あナたヲ……)

 
 腕の中で、抱えた紅竜の頭が重たくて。
 太刀を落とし、座り込み、血にまみれても、それはとても温かい。
(やっと気づいたよ──
 僕は……紅竜が好きなんだ)
 処理班が一斉に牢に飛び込んで来る。
「来るな!!」
 今までの簾の人生の中で、一番の拒絶が爆ぜた。
 その威圧に、処理班の何名かの足が止まる。
(……気づくのが、遅いけれども)
 ──唇だけが動いた言葉を、今、聞き取れる者は誰もいない。
 そして今は……頬を拭った自分の涙で薄まってしまう、簾にとっての『あなた』の血がただひたすらに惜しいと思った……


 目を覚ましたのは、お互い同時だった。
「夢……?」
「夢のようだな」
 簾と紅竜のお互いが体を起こす。
 そして、ふと紅竜は簾の顔を無言で見つめた。
「趣味の悪い夢だった」
 紅竜の視線が落ち着かず、誤魔化すように簾が苦笑する。
「……」
 どこまでも、気づいていないのが切なくて愛おしく思えた。簾から零れるその涙──紅竜は、一瞬探したハンカチをそっと、その頬に当てがった。
「……ずっと、夢の中でも、ここでも泣いてばかりのような気がする」
 情けなさそうに微笑っても、抵抗はしない相手の目じりの涙を紅竜はそっと拭きやる。
 ……今、こうして人の手である事が、紅竜には嬉しい。こうしてハンカチを差し出せて、その涙をきちんと拭ける。
 今ならば分かる、あなたに触れられる、この奇跡が。

「会社の者には内緒にしておこう。……簾」
「紅竜……そうしてくれると嬉しいな──こんなに泣いていたなんて、社内の者に示しがつかないからね」
 それでも、
 ──この夢を見なければ、自分がこの想いを自覚することはなかっただろう、と。簾は僅かながらに感謝した。
(この想いは)
 簾は、そっと紅竜に身を寄せる。
 夢とは違う、人の姿に身を預ける。
 今の姿がいい。身体が夢程大きくとも、あんなに苦しんでいる紅竜は見たくない。
 だから今の姿でなくては嫌だ。今の姿が良い。

 ──僕は、あなたがどうしようもなく好きなんだ。

(……大好き)
 それは言葉に出して良いのか、分からない感情であるけれども。
 傍に紅竜の体温を感じながら、簾はそれを確信する。

 そして同じく。簾の体温を間近で感じながら、紅竜も無言で獣の時とは違う、理知的な眼を閉じた。
 紅竜に伝わるのは簾の体温だけではない、そこにあるのは確かな信頼──
 依頼主との契約の形。それは今まで絶対であった簾の護衛。
 だが、今は理由が出来た。もう──そんなものが無かろうとも。

 ……あなたが望んでくれるなら、私はあなたの傍であなたを護る。
 ──契約などなくとも、私の意思で。




 カイン・モーントズィッヒェルが説明を受けて入った扉の奥──広い牢屋の床が見えないのではないかという程に、そこは暗緑色の鱗で埋め尽くされていた。
 中には、長く太い胴体を持つ一匹の大蛇がその首を持ち上げカインを見ている。
 蛇は、威嚇も声を上げる事も無い。
 まるで、その仕草は突然変異で巨大化しただけの、カインとは縁もゆかりもない爬虫類を思わせるかのように。
 しかし、カインはその姿を見た瞬間に、理解せざるを得なかった。
 その地面を巡る緑掛かった黒い鱗は、何時も見える彼の角と同じ色。
 その深く鮮やかな目の色は、いつも向き合う大切な彼の瞳と同じ色。
「……イェル」
 一度伏せられ、そして正面から見つめられたカインの瞳に、大蛇はそれと全く同じような仕草を取って──イェルク・グリューンは人の声音でそれを返した。
「……カイン」

 牢内に伸びる胴体を避けながら、イェルクの頭の傍へと辿り着く。
 戸惑いではない僅かな沈黙の後、カインはイェルクの頭をそっと抱き締めた。
 手触りは想像以上に滑らかで、そして冷たい。
「……悪ぃ、抱き締めるには俺の腕が小せぇ」
 苦笑気味に、冗談めいて呟かれた言葉。しかし、大蛇と化したイェルクの瞳に映るカインの表情は、余りに悲痛だった。
 愛しく触れるその手が、僅かに震えているのが伝わってくる。

 先程、カインは研究員にトランスについて聞いていた。
 研究員は答えた。
「執り行おうとした神人はおりましたが、トランス発動が成功した例はありません。
 完全に契約としての縁が途絶えたかのように」
 ──だが、今。
『……何も出来ない、出来なかった。こんな異常な事態に、抱き締める事すらままならない』
 伝わってくる……彼の、表に出さない泣きそうなまでの慚愧の念。
 絆は、まだ途絶えていない──しかしもし、その意図が届かなくとも、イェルクには彼が何を考えているのかを、確実に理解していた事だろう。
 ──そんな、あなただから。私は言う。
「理性が消える前にあなたが討ってください。見られたくないです」

 カインは目を丸くした。
 自分を討てと、自分を殺せと言ったその大蛇の姿をした伴侶に、自分がその姿となった嘆きも悲嘆も感じられない。
 むしろ平然と、少しつんとした様子すら漂わせて。
 しかし、カインも──その言葉の裏側を知っている。
「……俺に見せたくないとか、本当に可愛い嫁だ」
 眦を下げて、カインが笑みというには余りに悲しみに引き攣り揺らいだ微笑を浮かべた。
 怖いだろうに。
 これから受ける死は、決して一緒に背負えるものではないというのに。
 それでも、イェルクは自分を討てと言う──

 その最中、イェルクは過去の彼とのやり取りを、不思議なまでに冷静な心持ちで思い返していた。
『俺のことは念入りに殺せ』
『てめぇの苦しみは連れてってやるから、てめぇは生きろ』
 カインの言葉が、ひしと胸に浮かんで届く。
 過去の白昼夢、返す言葉も出なかった。むしろ仮にもパートナーとして、人として何と残酷な事を言うのかと思った。
 しかし、反対の立場に立って、ようやく分かった。その意思が、その思いがどれだけの優しさに満ちていたのかを。
 あの時とは状況が違う──だから、イェルクはあの時の優しさに、そっと重ね掛けをする。

「大丈夫ですよ。
 これは夢。悪夢は消えますから大丈夫。私が魔法を使って目覚めさせますから。私を信じてください」
 ──通常、誰がそんな出任せを信じるだろう。
 その言葉にあまりにも驚いた様子で、カインが目を見開いてイェルクを見定める。
 ……そして、その出任せにカインは笑った。
 その優しさも、痛ましさも。その全てを理解した上で。カインは笑った。

 カインが背中に背負っていた両手槍を前に降ろす。
「たったひとつの願いよ」
 カインが、インスパイア・スペルを唱え、暗色の蛇と化したイェルクの頬に口づけをする。
 トランスは発動しない。それでも、カインはキスした頬に重ねるように、そっと優しく手を添えて、静かにそれを見つめるイェルクの口にキスをした。
 らぶてぃめっとトランスも、発動する事はない。それでも。

「──ちゃんと魔法使えよ、イェル。
 夢から覚めたら隣に寝てろよな」
 苦しまないように、頭を、一撃で。
 カインは、その意図を察したかのように地面に降ろされたイェルクの頭に、両手で持ち上げた槍を力一杯に振り下ろした。


 大蛇の頭頂から顎までを、槍は完全に貫いていた。カインの長い沈黙と共に引き抜いた槍から、跳ねた血が顔に散る。
 ──しかし、長く巨大すぎる生命力高い爬虫類のその躰は、貫かれた頭蓋の一撃では死に至れず、その胴体を一斉に激しく動かし始めた。
「イェル!」
 咄嗟に叫ぶ。致命傷となりえなかった一撃は、相手に致命的な苦痛となった事を理解する。
 既に言葉を話さず、理性が見受けられないイェルクがもがき苦しむ過程で、その長く太い躰をカインに強く縋るように巻き付けた。
「──っ!」
 逃げられる訳がなかった。状況的にも、心情的にも。
 上げられたカインの身体が持ち上がり、その苦しさに手から槍が落ちる。
このまま更に締め上げられれば、容易く全身の骨が折れ、カインは絶命を余儀なくされた事だろう。

 だが、その牢屋を暴れるように身悶えていた暗緑色の鱗は──不意に、動きを止めた。

「……?」
 カインの骨が軋みかけた身体から、大蛇による圧力が消える。
 そしてゆっくりと床へと降ろされた。先程、カインが落とした槍の傍らへ──
 驚くカインの目の前に、既に機能していないはずの大蛇と化したイェルクの頭が、静かに胸の位置に水平に差し出された……

 その状況に絶句するカインの瞳に、確かに映った。
『つぎは、どうか、かくじつに、おねがいしますね』
 刹那。
 イェルクが、確かに……何の憂いもなく自分に向かって、その両手を広げて微笑む姿が──

「は、はっ……やっぱり……俺の嫁は最高だな……!」
 泣きそうだった。もう脳の一部のどこかが壊れて、大笑いしがら号泣しそうだった。
 だが、泣いてはいけない。

 この様な、最高の伴侶を前にして。自分は決して泣いてはならない。

『たったひとつの願いよ』
 カインの声に、胸に響くイェルクの言葉が重なった。
 互いに紡がれた触神の言霊。
 カインは今度こそ、目の前の存在の、口元から胴の奥深くへ潜り込むように、その槍を突き刺した。


「……。
 また白昼夢かよ……マジ悪趣味だなくそったれ」
 目を覚ましたカインの視界には、澄んだ青空が広がっていた。
 慌てて隣を見れば、きちんと人の姿をしたイェルクが言葉なく半身を起こすところだった。
 そして、カインを見て、笑った。

「ほら、夢だったでしょう?」
 正確には……笑おうとして、失敗した。
 イェルクの身が震えている、表情は笑顔というには顔面蒼白で余りに強張ったものだった。
 殺される事に、同意した。相手の存在を確かに感じ息絶えた。
 だが向けられた刃が、自分の身を裂かれる感覚が、怖ろしくない訳が無い。
「イェル」
 名前だけ呼んで、カインが両手を広げた。
 躊躇いなくイェルクがその中に飛び込んでその胸に顔を埋めた。
 カインも、その身を強く抱きしめる。
 夢の中では叶わなかった感覚。腕の中の存在は、今確かに温かい。
 震えるその身に、カインは小声で大丈夫と声を掛けた。
「俺も、ちゃんと怖かったよ」
 それは、イェルクだけに届いた、聞く事の稀なカインの弱さ。
 カインは絶対の存在ではない。それは、イェルクの前でだけ、零れる言葉。
(……私を殺すのを、怖いと言ってくれた……)
 ──自分達は知っている。
 互いが大切であればあるほど。失う事も、置いていく事も、それは何よりも恐ろしい事だと、自分達は知っている。

 震えを払拭するかのように抱き締める。
 お互いの存在を確認する。
 ああ、良かった。大切な人はまだここにいる。

「今夜は、あなたに……沢山愛されたいです」
 眠れない位に、傍にいたい。
「……寝かせてくださいって言われても、今夜は聞かねぇよ」

 今日は離れないで。
 たくさん愛して、
 今日は夢など見たくないから。




 整えられた机の上には、本が山積みにされていた。
 愛憎、心理、刑罰──今までの指針であった女性向け恋愛雑誌は見当たらない。
 アーシェン=ドラシアは夜を徹し、それらのページを尋常ではない、速読にも似た速さで捲り続けた。
 だが、それらの本を元に、ノートに文字が記される事は無い──
 そして、朝日の光がカーテンを照らし出した頃。アーシェンは、ようやくその事実に気が付いた。
 ……『これから、人をこの手で喪う』のにマニュアルなど存在しなかったのだ、と。
 そして一晩──この心を占め続けた思いに『模範解答』は存在しなかったのだ、と。

 カーテンを開けた。
 眩しい明け方の日差しの中で、アーシェンは、その光を僅かに照らし反射していた、精霊との契約を祝福し贈られた『ウィンクルムの証』とも言うべき剣を手に取った。
 本棚にしまわれた恋愛雑誌の頁が開かれる事は──もう無い。

 病院地下、高窓からの陽光がルーガルの目に触れた。
 その姿は、人とは似ても似つかない獰猛さを隠さない、見た目から飢えを感じさせる赤茶色の巨大な狼。
「……」
 少しずつ、色々なものが遠くなっていく。ここに、もう誰かが来る事はないだろう……ルーガルがぼんやりと、そう確信をした時、
「ご事情の上かとは思われますが、時間があまりありません。……お別れはお早めに」
 そこに──本来見るべくもなかった神人の姿に、ルーガルは一時的にとはいえはっきりと虚ろな思考と視野から明瞭な意識を取り戻した。

 研究員が立ち去り、鍵を預かったアーシェンが錠前に手を触れる。
「おい、ちょっと待て、来るな」
 思わずルーガルが制止を掛ける。
「……俺達が死ぬなら戦いの中だと思っていた。だが」
 手に持つ錠前の予想外の重さに、アーシェンが僅かに眉を寄せた。
「今の状況が、危険を越しているという情報なら事前に聞いている」
「いや、つーかそうじゃなくてな」
 錠前が、その重み相応の音を立てて外れた。
「普通さ、契約したばっかで俺が駄目になったら、新しい次の精霊探すだろ?」
「俺の精霊はルーガルだけだ」
 『自分だけ』──ルーガルは不意打ちに受けたその言葉に驚きから呆気にとられたが、真面目で真摯なアーシェンの表情は、いつもと何も変わらない。
「つーか、特に俺とお前なんて、出会って間もないほぼ赤の他人だろ。
 代えなんていくらでもいるだろうがよ」
 鎖を解き始めたのを咎めるように、ルーガルが鉄格子沿いにアーシェンの傍に顔面を寄せる。

「──俺にもあんたにも互いだけ、俺はそのつもりで契約した」
 しかし、正面からルーガルに乗せられた言葉……真摯が殺気を超える威圧になった瞬間。ルーガルはその気配に思わず下がり、アーシェンはその合間を埋めるように牢にその身を踏み入れた。

「ずっと、神人になりたかった」
 アーシェンは、赤茶の骨と筋が際立つ獣の姿をした自分の精霊に話し掛ける。
 自分の兄達が、羨望であったように。自分をウィンクルムたらしめる精霊は、アーシェンにとって極めて『特異』であり『特別』だった。
 ウィンクルムである為に。アーシェンは何でもした。彼なりに手段は選ばなかった。

「そして……誰かの、一番になりたかった」
 背中越しに、鉄格子が閉まる。
 俯き呟く彼の表情を、身体が大きすぎるルーガルは見る事が出来なかった。
 ……ウィンクルムには、心を想い通わせる力があるという。だが、日の浅いルーガルにそのアーシェンの心を垣間見る事が出来ない。

「──なあ、それなら一番にしてくれるなら誰でもいいんだろ? 俺じゃなくてもさ」
 それ故に……ルーガルは、ひとりごちた彼の言葉をそのままに受け取り。
 冗談めかした様子で、軽く自嘲すら含めて笑ってみせた。
「俺のことは放っておけって。お前がわざわざ手を掛けなくても、処理班が『仕事』でしてくれ──」
「だから──最期にここで手に入れる」
 言葉を途中で塞ぐかのように、完全に閉じた鉄格子を背にして。
 アーシェンは、先程ルーガルが理解出来なかった思いと共に宣言をした。
「このまま完全に獣になれば、あんたは真っ先に俺を食うだろう。
 そうすれば『あんたの一番は俺のもの』だ」

「──待て。ちょっと待て。
 冗談だろ、お前を食うなんざごめんだ願い下げ──おい鎖かけんな聞けよコラ」
 思わず会話の呼吸をそのままにツッコミを入れるルーガルに、アーシェンは内側から鉄格子に鎖を巻き付け、最後に錠前に手を伸ばす。
「しかもなに鍵まで掛けてんだよ、聞けっつってんだろコラ!」
 声を荒らげるそんなルーガルの言葉は空しく、重たい音と共に錠前が閉じられた。
 その瞬間、アーシェンが微か満足気に微笑んでいた事にルーガルは気付かない。

 アーシェンが滑らせた鍵が、ルーガルの側を抜け、牢の奥へと消える。
 ルーガルが何かを言うべく口を開いた瞬間、声が聞こえた。
「時間で……──出てください、急いで!!」
 研究員の叫び。同時に、鎖と鍵が内側から掛けられているものだと分かると、研究員は処理班を呼びに部屋を飛び出した。
(よし! これで持ち堪えれば、こいつを──)
 持ち堪えれば、処理班が対処してくれる──しかし、浮かんだルーガルの思考は、一気に水面を叩き打ったかのように波打った。
(まずい、頭ん中がぐちゃぐちゃしてきた…まずい……!)
 説得をしなければならない。何とか、目の前の存在を。
 ルーガルの、正気を失い掛けぐるりと回る瞳をアーシェンは見た。それでも、たじろぐことなくその間に佇む。
「一番なんて……俺が一番だなんて言うな。
お前は、神人と。しての、経験も何もかも浅い……から勘違いしてるんだ」
 ──やめろ、さっさと去れ、殺させないでくれ。
 ルーガルの掻き消えそうな言葉を受けて。
「これは──」
 アーシェンは、今となっては『祝福されざる存在』となった両手剣を鞘から抜き放つ。
「俺にとっても一番だから。
 あんたを、抗って反撃して殺してみせる──
 俺には」
 次なんて──存在しないのだから。

「イナくな──!
 れ──ガ、……グル…ガァッ!!」
 そうして……ルーガルが狂気を交えて最後の理性を咆哮に変えた。

 アア、デも。独リは寂シイ。

「求めろ! 戦え!
 殺してみせろ、本気で!!」
 アーシェンが、己の最大限の力を振るわす為に声を張り上げる。

 これで、やっと……一番に、なれる……

 そうして──鉤爪と両手剣が、激しく重なり合った。


 何もなくなった世界で……ガツガツと肉をむさぼる音が響く。
 巨大な白い牙が、一瞬にして真っ赤に濡れていく。

 アあ、悲しい辛い寂シイ。
 デモ、アアア、コれデ……コレデ、

『今ハ 寂シクナイ』


 ルーガルは、激しく音がするかと思われる程の瞬きと共に目を開けた。
「ゆ、め……? おいおい! 冗談じゃねぇぞ!!」
 今は確かに人であるルーガルは、自分の姿を確認する前に蒼白になって辺りを見渡した。
 傍に横たわる、アーシェンの姿。
「おい! 起きろ! 起きろって!!」
 アーシェンの顔を覗き込むように軽く頬を叩きながら、それでも跳ね上げずにはいられない声。
 ゆっくりと、アーシェンが目を開けた。
 そして、ぼんやりと見上げるアーシェンが呟く。

「……折角、一番になれたのにな」
 その言葉に、お互いが同じ夢を見ていたらしい事に気付く。
「やめてくれ……本当に笑えねぇから」
 アーシェンの頬を叩いていた手がそのままで、ふと、互いに実感する。
 触れ合う温度が温かい……今、目の前の存在は、生きている。

「でも、こうしてみると、
 一番でなくても……生きてて、良かった」
「……あのな」
 呆れたように、ルーガルが掌ごとその身を離した。こちらは生きた心地がしなかったというのに。
 ルーガルは、起き上がろうとするアーシェンを一度横目で見てから、視線を外した。

(せめて、お前の本当の一番が現れるまで見ておいてやらなきゃな)
「……そうじゃなきゃ、危なっかしくて仕方ねぇし」

「……何だ?」
「何でもねぇよ」




 こうして、
 フィヨルネイジャは、今日も何事もなかったかのように、ただ漂う。
 そこには、確かにあった心を残して……






依頼結果:成功
MVP
名前:カイン・モーントズィッヒェル
呼び名:カイン
  名前:イェルク・グリューン
呼び名:イェル

 

名前:アーシェン=ドラシア
呼び名:アーシェン
  名前:ルーガル
呼び名:ルーガル

 

メモリアルピンナップ


( イラストレーター: 越智さゆり  )


( イラストレーター: 越智さゆり  )


( イラストレーター: 越智さゆり  )


エピソード情報

マスター 三月 奏
エピソードの種類 ハピネスエピソード
男性用or女性用 男性のみ
エピソードジャンル シリアス
エピソードタイプ EX
エピソードモード ノーマル
シンパシー 使用可
難易度 普通
参加費 1,500ハートコイン
参加人数 5 / 2 ~ 5
報酬 なし
リリース日 01月08日
出発日 01月15日 00:00
予定納品日 01月25日

参加者

会議室


PAGE TOP