穏やかな気候にどこまでも広がる夢想花の園。
　ピクニックに良い場所だと聞いていたエルド・Ｙ・ルークは、聞いた通りの光景に、そして聞いた以上の感動を与えてくる光景に、ふむ、と大きく頷いた。
「素敵な場所ですね」
「地下鍾乳洞の遺跡と聞いて、もっと暗いと思っていました」
　エルドに同意するように、彼の精霊ディナス・フォーシスも辺りを見渡して喜色の声を上げた。
　花を踏まないように、少し慎重に歩を進めて、ゆっくりと腰を落ち着けられそうな場所に、並んで座って。
　穏やかな時間を満喫するように、大きく息を吸った。
「丁度いい時間ですし、ここでお昼にしましょうか」
　エルドは持参したバスケットを二人の間に置いて、その中からランチョンマットとサンドイッチを取り出し広げた。
　新鮮な野菜やベーコンが色取り取りに見栄え良く配置され、ふわふわのパンと一緒に綺麗な断面を描いている。
　よく見ればエビや卵など加工調理が必要な具材が挟まれているものもあって、男二人の食事に充分に足るボリュームになっていた。
「これは誰が作ったんですか？　ミスターが作ったとは想像つきません」
　エルドは自分より長く生きている分、自炊くらいなら出来そうな気はしていた。しかし見た目や栄養バランスもしっかり考慮されていそうなメニューを作るようには見えなかった。
　どこか洒落たカフェのお持ち帰りメニューでも頼んだかのよう。そんな風に思ったディナスの率直な問いかけに、おや、とエルドは面白げな顔を見せた。
「よく分かりましたねぇ。これは料理が得意な息子に作ってもらったんですよ」
　にこにこと語るエルドの、その言葉に、ディナスは驚いた。
　料理の得意な息子の存在を、初めて知って。
　その時初めて、エルドにも家族が居ることを、認識した。
（……当たり前ですよね、歳が歳ですし）
　エルドは御年六十歳を超える立派な還暦老人だ。そしてかつては小さいながらもマフィアのボスという立場にいた。
　そんな彼を支える伴侶の存在は、普通に考えれば自然なものだ。妻がいるなら子供もいるだろう。実に自然だ。
（……あたりまえですよね……ですが……）
　今まで、一度も。
　そんな事、考えもしなかった。
　だってそうだろう。会ったこともない存在を知ることなんて出来ない。エルドが語らないから。
　そして思い当たらなかったのだ。家族なんて、ディナスには遠く遠く、あまりにも縁のない存在だったから。
　思い出す。とてもとても懐かしい記憶を。
　かつてディナスにもいた、家族の記憶。
　家族仲は良かったのだろう。特に障りもなく、ただお互いを真っ当に家族と認識できる程度には。
　だけれどそれはディナスがごくごく幼い間だけのこと。
　物心くらいはついていた頃だった。だけれどディナスは何も感じなかったのだ。
　オーガに殺された両親の死体を目にしても、何も。
　その時気がついた。ディナスにとって『家族』だと思っていたひとたちは、ただのモノでしかなかったことに。
　そんな風にしか思えなかった、自分自身の空白に――。
「……おや。どうしましたかディナス」
「……いえ」
　なんでもありません。そう告げるディナスの顔は、明らかに冷めていた。
　なんでもないなんてことはない。それがはっきりと見て取れるのに、ディナスは何も言おうとしない。
　だから、エルドは口を噤んで、暫し沈黙の思考に浸るのだ。
　ここに来るまでに何か違和感があったわけではない。いつも通りの表情と態度で、むしろ楽しんでいるようにも見えた。
　切欠があるとすればこのサンドイッチだろうか。エルドが息子の話をした、このサンドイッチに……。
（あぁ、そういえば……）
　考えて、エルドは一つ、思い当たった。
　ディナスからは、一度も聞いたことがないのだ。
　生まれの話、家庭の話、自分と出会う前の、当たり前に存在しているはずの家族との思い出を。
　記憶が無いというわけではあるまい。それだけは直感できた。
　覚えていて、黙っている。言いたくない話。それが、ディナスの内側にはあるのだと。
（……探るのは、無粋でしょうね……）
　話したくなった時に、聞ければ良いのだけれど。
　少しの心配を残してただの沈黙に戻るエルドを、ディナスは横目に見た。
　見て、認識する。
　この人は己の神人で、今の自分にとって一番近しい人。
　認識して、思案する。
　もし、例えばこの人が死んでしまったら。
　死んで、しまっても。
（やはり感情一つ湧かないのでしょうか？）
　両親を見つめた時と同じように。ただ空っぽを自覚してしまうのだろうか。
　――そんなのは、いやだ。
　恐怖に似た感情が起こる。幼い日に、そして宝石が煌めく森で感じた絶望が、じわりと侵食してきたように。
「ミスター」
「はい」
　呼べば応えてくれる神人に、少しの安堵を覚えて。ディナスはほんの微かに笑むと、願うような口ぶりで告げる。
「生きて下さいね。僕よりも長生きしてください」
　エルドは老人で、ディナスは青年で。普通に、自然に考えれば、エルドの方が先に死んでしまうだろう。
　だけれどエルドは神人で、ディナスは精霊で。
　彼を守って、朽ちることだってありえる。
　ああ、それがいい。それでいい。
「僕に長生きの予定はありません」
　二度と絶望を覚えることなく、精霊としての意義を全うして達成感に満ち足りて朽ちることが出来たなら。
　それはそれは、しあわせなことだろう。
　想像して、思わず綻んでしまいそうな表情は、薄暗さを孕んだ瞳を瞬かせることで思いとどまった。
　そんなディナスを真っ直ぐに見つめて、それからエルドはゆっくりと天井を仰ぐ。
「……それは困りましたねぇ」
　ぽつり、呟く。
「何しろこの歳です、あなたに先立たれては新しい精霊と契約する体力はありません」
　その声が、やけに大きく響いて聞こえた。
　そよそよと風に踊っていた夢想花も、ぴたりと息を潜めてしまっていて。
　エルドの声だけが、ディナスに届く。
「……もし。この老いぼれが先に召されましたら……ディナス『あなたは笑って、そして次の日には忘れて先を生きて』ください」
　お願いしますよ？　約束です。
　ごくごく穏やかな顔で、諭すような言葉は、ディナスに突き刺さる。
　大きく、大きく、目を見張って呆然としてしまうほどに。
　エルドの言葉はほんの例え話のように聞こえるけれど、可能性は限りなく大きくて、だからこそエルドは本気で願っているのだ。
　老い先短い老人のことなどにいつまでも囚われていてはならない、と。
（どうして……）
　ふるり、唇が震えた。言葉にしたい何かが喉の奥に引っかかって上手く出てこない。
　どうしてそんなことを言うんですか。貴方の死ぬところなんて見たくない。
　生きてください。僕より長く。
　どうか、どうか――。
　ほろりと、暖かなものが頬を伝った。
　それが涙だと認識するのに、時間がかかった。
　だって、彼の死を考えて涙を零すなんて、ディナスには『ありえない』ことだったから。
　拭うことも思いつかず、ただぼろぼろと涙を零し続けるディナスの頭に、エルドはそっと、大きな手のひらを添えた。
「人は生き、いつかは死にます」
　それが当たり前のことで、きっと恐れても仕方のないこと。
　それでも、せめてそれに涙する優しい精霊が、束の間でも安堵を覚えるのならと、エルドは優しく頭を撫でた。
（温かい……）
　大きくて優しい手のひらは、波立った心を宥め、落ち着かせてくれる。
　けれどこの手もいつかは――。
　安堵と不安が、揺れる。
　言葉に出来ない感情に晒されたディナスは、ただ泣き続けることしか出来なかった。
　夢想花の花園に、雨が降る。
　暫くやむことのなさそうな、優しく冷たく、切ないあめが。

依頼結果：大成功

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