リチェルカーレが足を踏み入れたそれは、青の世界。
　青と名の付く様々な色彩が織りなす光景は、水の底のようにも氷の城のようにも、空の彼方のようにも見えて。
　それ以上に、煌めきを伴うその色に囲まれたリチェルカーレは、周囲と同じ青の瞳を輝かせてこういうのだ。
「宝石の中にいるみたい……！」
　足元の青い花を踏まないように、スカートの端を摘みながらくるくる回るように進めば、ぽたり、青く光る水滴が落ちてきて。
　一瞬の冷たさに驚いて顔を上げれば、鍾乳石の形をした恋慕石柱が薄水色に光って語りかけてくるよう。
　そうして視線を巡らせては感嘆の声をあげるリチェルカーレもまた、青と名の付く色彩に包まれた少女で。
　まるで彼女を象徴するかのような柔らかな青の光景と、その中に溶け込むリチェルカーレを、シリウスは尊いものを見るかのような目で、見つめていた。
　ふわり、としゃがみこんだリチェルカーレは、足元で青い花弁を咲かせる夢想花に触れると、その柔らかな花弁をなぞるように指を添わせた。
「……摘んでもいいのかしら？」
　伺うように振り返るリチェルカーレのその所作が、まるで宝物に触れるようで。
　シリウスは表情を和らげてその姿を見つめる。
「……いいんじゃないか？　ブーケを作れと言っていたし」
「あ……そうね、そうよね」
　ぱっ、と笑顔になると、良かった、と口元で呟いて。リチェルカーレは一つ一つの花を吟味するように眺めながら、丁寧に夢想花を摘んでいく。
　一口に青と言っても、その色合いは花ごとに違う。薄い水色もあれば深い群青色もあって、どの青も美しい。
　大きさもまちまちで、だけどどれも魅力的で。見栄え良くバランス良く……それでも欲張って沢山束ねたくもなって。
　リチェルカーレはどんな風に纏めようと心弾ませながら、夢想花を摘んでいく。
　ぽたり、ぽたん、と落ちる水滴も、時折そよぐ風も、まるでメロディのように聴こえてくる気がして。気がつけば、小さく歌を口ずさんでいた。
　リチェルカーレの歌声は、静かな空間に心地よく響く。
　反響するほど大きくなくても、しっとりとした空気に馴染んで、シリウスの耳に優しく届くのだ。
　弾む声音と、時折見える笑顔を湛えた横顔がシリウスの表情をまた自然と和らげさせた。
（楽しそう、だな……）
　その光景は見ているだけで張り詰めた緊張が解けるかのよう。
　くつろぐように、ストン、と。シリウスはその場に座る。心地よい歌声に、澄んだ水音が重なって、胸の奥で絡まっているものをゆるゆると緩めてくれる気がした。
　瞳を伏せれば、意識は音に浸る。
　そうしている内に、ここ最近感じていた鈍い頭痛と眩暈が、穏やかに薄れる。
　穏やかに、穏やかに、シリウスの色素の薄い唇が、ゆっくりとした呼吸を、繰り返す。
「――シリウス……？」
　呼びかける声に、ほんの一瞬意識が飛んでいたことに気がついた。
　眠れていない毎日に心地よい音色が重なって、微睡みを呼んでいたようで。シリウスはゆっくりと目を開くと、声へと視線を向けた。
　そこにあったのは青と碧の瞳。
　夢想花よりも石柱よりも、その瞳は柔らかな色を湛え、美しく煌めいて……けれど、心配という淀みに、霞んでしまっていた。
　どうしてそんな顔をしているのかは、すぐに悟れる。自分のせいだ。
　だから、シリウスは苦笑して言うのだ。大丈夫だから、そんな顔をするな、と。
　けれどそれは、リチェルカーレの表情をますます曇らせるだけ。
　だって、こんなにも白く生気に欠けた顔をしているというのに。
　座り込んでいるシリウスに気がついて慌てて駆け寄ってきたというのに、その足音にも気付かないのだ。
（大丈夫じゃないじゃない……）
　今日だけではない。ここ最近、壁に凭れたり目を伏せて俯く姿をよく見るのだ。
　見せたい姿ではあるまい。それでもどうしようもなく目についてしまうくらい、消耗しているのではないか。
　『怖い夢』を見たせいであまり眠れていないことを、リチェルカーレだって知らないわけではない。
　それでも『夢』の話にリチェルカーレは何も出来ない。出来ないまま、伺うだけ。
　大丈夫？
　何ともない。
　そんなやり取りだけで終わるのはもう耐えられない。
　何ともないなんて言葉は、もう聞き飽きた。
　大丈夫だからなんて強がりは、突き放されているのと同じだ。
　――だが、リチェルカーレは胸の奥に湧いた憤りを、燻らせたまま吐き出すことが出来ずにいた。今までも、今も。
　シリウスが言いたくないことを無理には暴きたくない。勢いのままに突きつけた言葉で彼を傷つけるのが恐ろしい。
　だけれど、もどかしい。何も出来ずにただ見ていることしか出来ない現実が。
「……無理しないで」
　精一杯の言葉は、先ほどの歌声とはまるで対照的に、絞り出すような声で。悲痛な顔が、シリウスを覗きこむ。
　突き刺さるような声を聞くたくなくて、陰った表情を見ていたくなくて。シリウスはかすかに視線をそむけた。
「……無理なんてしてない」
「してる」
「してない」
「もう……！」
　譲る気のないシリウスの態度に、頑固なんだから、とリチェルカーレは頬を膨らませる。
　いっそ泣き出してしまいそうだ。
　そんな彼女の様子は目に留めないまま、ただ自分を思って言葉を紡いでくれる彼女の声にもう一度浸って、ぽつり、シリウスは零した。
「お前がいてくれるから――」
　息ができる。
　その一言は、噛みしめるような吐息と共に紡がれて。
　リチェルカーレの方が、息を呑んだ。
　それは『息もできない』ほどに追いつめられたシリウスの胸の内を垣間見せるかのようだったけれど。
　それを、救うことができているのだという実感が、リチェルカーレの頬を急速に染める。
　いてくれるから、なんて、望まれているような言葉も。
　ただ、ただ、単純に心を満たした。
　真っ赤になって視線を落としたリチェルカーレに気付き、シリウスは己の言葉を反芻して、やや失言であったことに気が付く。
　言うつもりはなかった思いが溢れ出ていたことにささやかな気恥ずかしさを覚え、目を逸らしたシリウス。
　その機械の耳に、囁くような声が聞こえた。
「ね、シリウス」
　呼びかける声は、祈るようにも聞こえて。
「わたしがあなたの神人で本当にいいの？」
　問いかけに、シリウスは目を丸くして、リチェルカーレを見つめた。
　青と碧が、見つめてくる。
　あおい色の花束を、抱えて。
「――俺が、おまえの精霊でいいのか」
　彼女を象徴する色に囲まれて、包まれて、偽る言葉が吐けるわけがなかった。
　失う事を恐れて願うまいと思っていた願望が、切とした響きを伴って零れる。
　問いに、確かめるような問いを返されて。リチェルカーレは真剣な目で答えた。
「わたしは、あなたがいいわ」
　あなたの傍で、あなたと共に。
「……俺も、お前がいい」
　お前の傍で、お前と共に。
　なんてことはない。互いの気持ちは、重なっていたのだ。
　それを理解して、リチェルカーレは柔らかな笑顔を浮かべた。
「良かった」
　手にしたブーケをそっと差し出せば、緊張を解くような吐息を一つこぼして、シリウスはそれを受け取った。
　こつん、と額を合わせれば、くすぐったいような心地に、思わず笑みが零れる。
　近い距離で、視線が合って。あおい瞳が、ゆっくりと伏せられて。
　少し冷えた唇に、唇を重ねた。
　それは図らずも結婚の儀と同じ作法。その単語通りの未来はまだ、描ききれてはいないけれど、ただ二人で共に在りたいという願いに変わりはなかった。
「他の誰でもない。お前がいい」
　お前でなければならないんだ。
　不安や心配を払いのけるように、シリウスはもう一度、強い思いを込めて囁くのであった。

依頼結果：大成功

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