名もない鍾乳洞遺跡には、その場所にしか咲かない不思議な花があると聞いた。
　それは夢想花と呼ばれる花で、陽の光の当たりようでその色を変えるという。
　また、その花で作ったブーケは、ウィンクルムの結婚の儀を行う際に用いられるとも聞いた。
　実際に目にするまでは、なるほど、と理解を携えているだけだったけれど。
　その花園を目にしたかのんは、広く広く咲き誇る一面の花々に、目を奪われた。
「凄いです。夢想花がこんなに沢山」
　それは地上のどこにも咲いていない花。初めて見る花はかのんの興味を強く惹きつけ、どこか夢心地な少女の顔から一瞬で研究者の顔に切り替える。
　ブーケのことなんてすっかり忘れている。花弁を指でなぞり、茎や葉の形、土の質まで確かめ始めたかのんに、天藍は微笑ましげに笑った。
（やっぱりな）
　かのんの反応は、予想通りだった。
　花園の話を聞いて、彼女が喜ぶだろうとこの場所へ行くことを提案した時から、想像ができていた光景なのだ。
　置いてきぼりでちょっと寂しい、なんて感情が欠片ほどはあるが、活き活きとした目をしているかのんの笑顔を見れば軽やかに晴れる程度。
　くす、と。暫し見つめた後に小さく笑みをこぼすと、天藍はかのんの姿が見える範囲でうろうろと歩き、自分が求める夢想花を探した。
　それは白い色の花。
　明るい蛍光色を持つ花が比較的多い夢想花だが、時折真っ白な花が真っ直ぐに背を伸ばして咲いているのだ。
　可憐でありながら他の色にはない気高さを感じさせるその花を、丁寧に手折って、纏める。
　豪奢で絢爛とした花束にはならない。そういうのは、きっとかのんの方が得意だろう。
　リボンも簡素なもので、出来上がったものを見つめて、我ながら質素だと軽く笑った。
　だが、これで充分なのだ。真白の花束こそ、天藍がかのんへ想いと誓いを伝えるのに相応しい。
　簡素で、それでいて清廉と美しい夢想花のブーケを柔らかな眼差しで見つめてから、天藍はかのんを振り返った。
　婚約中の、愛しい女性。それが彼女だ。
　これから結婚に向けて、色々な手続や準備が必要になってくる。
　勿論、その間にウィンクルムとしての活動もしていくつもりだ。
　きっと多忙になる。こういう時にすれ違いが起こるものだと言う者もいる。
（あれこれ始まる前に、かのんに誓える機会ができたのは、良かったな……）
　格好つけてクールぶって、言葉を省くことはしない。
　いつだって本音で、心からの気持ちで、かのんと向き合いたい。
　天藍の想いは、白いブーケに目一杯込められる。
　そっと、大きく一呼吸。少し緊張している胸中をゆっくりと宥めてから、未だ夢中で夢想花を観察しているかのんに歩み寄った。
「かのん」
　紡ぐ声には愛しさを。
　向ける顔には笑顔を湛えて。
　呼びかければ、かのんは顔を上げて瞳を瞬かせ、それから、はっとしたような顔をする。
　すっかり観察に夢中になってしまっていたことに気付いて眉を下げるかのんに、天藍はくすりと笑うと、ちらり、かのんが触れていた花の方へと視線をやる。
　土が少し掘り返されている。地質や根の伸び方を観察していたのだろうが、そのまま土と一緒に持って帰ってしまいそうにも見えて、天藍は思わず吹き出した。
「……根ごと持って帰るのはなしじゃないか」
「そ、そんな事はしませんっ」
　くすくすと笑っている天藍の台詞が冗談から来ているものだというのはすぐに分かって、いくらなんでも、と膨れて見せるかのん。
　実を言うとほんの少し、持ち帰って育てて見たいと思ったのは内緒だ。育つかどうかを試して、可能なら地上にも咲かせたいと、少しだけ思っていた。
　それはもう、ガーデナーとしての職業病のようなものとして、目を瞑ってもらおう。
　ふいとそっぽを向いて見せるかのんの仕草は、時折垣間見える子供っぽさ。
　それが心を許してくれている証拠のようにも思えて、可愛らしさと同時に愛しさを覚える。
　ちらり、もう一度だけ足元の夢想花を見やる。彼女が欲しいのは育つ花かもしれないけれど、贈りたいのは花束。
　後ろ手にブーケを持ち、そっとかのんの足元に跪いて、真摯な目で彼女を見上げる。
　視線が合えば、かのんは少しの驚きを湛えた顔で、瞳を数度瞬かせ、けれどしっかり、天藍を見つめ返してくれた。
「……持ち帰って生育観察はできないが……」
　受け取って欲しい、と。差し出されたのは、真白なブーケ。
　かのんが目を見張るのを見留め、ふ、と天藍は表情を和らげて微笑んだ。
「かのん、最良のパートナーとしてこれからも誰よりも近くで共にありたい」
　すぅ。ゆっくりと息を継いで、何度も告げた言葉を繰り返す。
「必ず幸せにする」
　一度目はただ思いを知って欲しくて。
　二度目は約束の形に添えて。
　そして今一度紡がれるそれは、由緒ある儀式に則って。
　幸せにしたいという思いが、形を伴って、誓いとなる。
　かのんの眦に喜びの涙が滲むのは、仕様のない事だ。
　けれど零れてしまう前に、ぐっと押しとどめるようにして両手を胸の前で握り締めると、そっと体を屈めて、かのんは一度ブーケを握る天藍の手を包み込む。
　この手が選んで束ねた花束は、まるで古くからの習わしのよう。
　愛する人を思いながら選び、プロポーズに添えたのが元だった野草のブーケ。
　それと同じように、この夢想花の花束には天藍の想いが詰まっているのだ。
　幸せを噛みしめるようにしながら、そっと、壊れ物を扱うようにブーケを受け取ると、かのんはその花束から一輪だけ引き抜いた。
「天藍」
　少しじっとしていて下さいね、と。微笑みを添えたかのんの言葉通りじっと彼女の所作を見守っていると、一輪だけの夢想花に可愛らしいリボンが結わえられ、天藍の上着の胸ポケットに収められた。
「これ、は……？」
「ブートニアです」
　不思議そうな顔をする天藍の前に膝を付き、同じ目線を合わせながら、かのんは受け取ったブーケを胸元の夢想花と並べてみせた。
「花嫁のブーケから一輪抜いて、花婿の胸に飾るんです」
　それも、元は男性からのプロポーズを受けるという証。
「ウィンクルムが結婚の儀に使っていた夢想花を私も天藍へ渡したかったので……」
　一番理想的な形で渡すことが出来たと、かのんははにかんで言った。
　かのんのその笑みを、じっと見つめて。それから、彼女が語った意味を反芻しながら、そっと胸の花へ触れる。
　柔らかくしっとりとした花弁が、まるで祝福するかのように、天藍の胸元で揺れる。
　プロポーズへの了承。それはかのんから言葉として聞いていたことだが、儀式の最中に改めて応えてくれるかのんに、愛しさが募った。
「ありがとう」
　嬉しさで涙ぐんでしまいそうになるのを、笑顔で押し込める。
「かのんの気持ちが嬉しい」
　こんなにも幸せな瞬間に、泣いてなんていられない。
　ただ心の満ちるまま、溢れ出てくる感情を形作るかのように、天藍は笑った。
　今日のことは、きっと忘れられない。
　これから二人で幾つもの思い出を作って、積み重ねても、その中で一番の輝きを放つに違いない。
　満ち足りた幸せを笑みとして浮かべる天藍に、かのんもまた、幸せな気持ちに満たされていく。
　最良のパートナーとして、誰よりも近くで、共に。
　初めはウィンクルムとして。そして今は、伴侶として。
「かのん、これからもずっと傍に」
　二人で紡いできた幾つもの思い出を胸に過ぎらせながら、かのんはこれからの幸せに思いを馳せ、飛びきりの笑顔を見せた。
「こちらこそよろしくお願いします」
　手と手が重なって、二人の距離がゆっくりと近づく。
「二人で、幸せになりましょうね」
「ああ」
　互いが互いを幸せにしよう。
　二人の思いを重ねるように、優しく、柔らかく、唇が重ねられた。
　夢想花が揺れる。色取り取りの花弁を纏って。風もないのにそよそよと。
　まるで、二人を祝う讃美歌のように――。

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