「ここが……せせらぎの洞窟湖か」
　神人、瑪瑙　瑠璃は湖を見て一つ呟く。
　くぼみにたまったエメラルドグリーンの水面はとても透き通っており、岩場の隙間から差し込む日差しによって照らされ、地底の岩盤まで綺麗に見通せる。
　情報どおり、地下でもあちこちから差し込む日差しのおかげで、洞窟内は昼間のように明るかった。
「……なまら恐ろしいな……」
　あまりにも透き通った水には畏怖さえ感じさせられる。透明度が高過ぎて、そこには何もないと思わせるほど、水底へと吸い寄せられそうになる。
　それでも、足を踏み入れたいという欲求には敵わず、靴と靴下を脱ぎ行儀良く岩場へ揃えて置き、ジーンズを膝上までたくしあげて、濡らしたハンカチで足裏を綺麗に拭き取ると、ちゃぷり……とおそるおそる、片足を踏み入れる。身構えた予想に反して、水はぬるま湯の様に温かい。温度が低めの風呂にでも入っているかのような。
「ぬくさんひーじゃー……足湯ならぬ、足水だな！」
　視線の先で、相方である瑪瑙　珊瑚も同じ様に湖へと足を踏み入れ、中腰で指先まで水面に浸しながら、瑠璃を見てにかっとはにかんだ。
　なんだか機嫌がいい。文字通り水を得た魚の様な。湖の蒼に珊瑚の髪色が溶けて、きらきらと反射する様子はひどく美しかった。どこまでも蒼い南国の空を思わせるような、透き通った水面の色が、珊瑚にはとてもよく似合う。
　しばらく、二人でくまなくあたりを散策して回る。ぱしゃぱしゃと水面と掻き分けて進み、この先に何があるのかとか、水がしょっぺーなぁ、とか。とりとめない会話を交わしつつ、時折二人揃って、見晴らしのいい景色に目を奪われてみたりもした。
「ぬーが、あながちさん、さぁ……」
　珊瑚が水面を見詰めぽつりと呟く。その記憶の出所は不明だけれども。
　本人もぼんやりとしていて、一瞬声を掛けようか躊躇ったが、次にはパッとはにかんで。
「……やしが、じっとするのも飽きた！」
「なっ……おい、珊瑚っ？」
　一言ぼやくなり、慌てる瑠璃を余所目に珊瑚は一度水場から立ち上がり、傍にあつらえられていた石の上へ立つと。
「瑠璃ーーーーーーっ！」
「っ！？」
　大きく名前を叫んで、瑠璃の居る方向へと、石を飛び込み台代わりにして思い切りつま先を蹴った。
　一瞬珊瑚の体は宙に浮いて、やがて瑠璃の上へ振ってくるまでがまるでスローモーションの様に思えたがその実一瞬の事で、抱き止めようと広げた腕には瞬きの間に一人分の重さが容赦なく襲い掛かって来る。そのまま、なだれ込むように水の中へと二人そろって倒れこんだ。
　しっかり抱きとめた――はずだが、着水の衝撃でつい腕を離してしまい、水中でもがいた末に、先に瑠璃がばしゃりと水面へ顔を出す。
「珊瑚？　おい、どこだっ？」
　待てども一行に、珊瑚は水中から姿を現さない。透明度の高い水中へと目を凝らすと、一箇所だけ深くなっている場所があるらしく、そこに珊瑚の姿が見える。目を凝らしていると突然浮上してきた相方がようやっと、水面へと派手に水を散らし顔を飛び出させた。
「ぶっはぁ！　あー！　ひじゅるみじ、いーあんべー、なっ！」
　どこもかしこもびしょぬれで、犬の様にぷるぷると首を振った珊瑚が、同意を求めるように笑顔で瑠璃へと語り掛けるが、彼はふい、と顔を逸らしてしまった。
　一瞬、浮かんでこないのかと思った。いつも――しいては過去や未来をのぞき見るたび、不安になる。いつか、今目の前に居る珊瑚は消えてしまうんじゃないかと。
　珊瑚は瑠璃を好いてくれているけれど、未来の珊瑚はどうだろうか。……自分を好きな珊瑚のまま、こうして傍に居てくれるのだろうか。
　いつまでも言葉を発さない瑠璃に、機嫌を損ねてしまっただろうか、と。不安に駆られ、珊瑚は瑠璃の顔をひょこりと覗き込む。
「わんぬむぐとぅ……嫌いか？」
　嫌われて、しまっただろうか。一行に返らない返事を待ち、ぽつりと小さく言葉を吐き出す。
「なんだよ……確かに馴れ馴れしかったけどさ……」
　緊張して、つい、こなれた方言も身を潜めてしまう。
　安心してその言葉を使えるのは相手が瑠璃だからだ。いつだって信頼しているから自分を曝け出せている。
　そのことが――何より。
「オレ、嬉しくて。ほんっと嬉しくて」
　瑠璃が、自分を受け入れてくれている事実が。
　泣きそうな声音に、瑠璃ははっと珊瑚を見た。
「――……違う、お前の事が、嫌いなわけじゃない……」
　ゆるゆると首を振る。
　嫌いなわけじゃない。拒絶したい訳でもない。
　どちらかというなら全く逆の感情を、自分は珊瑚に抱き始めている。
　距離が近くなるほど――珊瑚という存在を受け入れるほど。
「いつしか……気付いてしまった」
　知りたいと思う自分に。知ってしまった罪悪感に。
　これ以上踏み込んではいけない気がして、つい距離を取ろうと、その結果がこれだ。
　また少し罪悪に駆られて、今にも零れ落ちそうな珊瑚の瞳のひとしずくを指先で拭う。そのままゆっくり、珊瑚の体を瑠璃は柔らかく抱き締めた。
「瑠璃……？」
　抱き締められたのは初めてじゃない。触れあった事も、近い場所でお互いを見た事も。
　泣いた事も笑い合った事も、何もかも二人で長く共有してきた。もうすっかり今のお互いを知ったつもりでいた。
　それでも――なんだか、らしくない瑠璃の様子に、珊瑚は固まってしまう。
　珊瑚を抱き締めたまま、瑠璃はぽつりと告げた。
「お前を……精霊という存在以上に、好きになってしまう、かもしれない……」
　義務の様に、運命に悪戯に割り振られた、生きて行くための職務上の付き合い。
　神人と精霊なんて、言ってしまえばそんなものだ。人によっては本当に、守るものと守られるもの、それだけの間柄だという事もあるだろう。家族や兄弟、友人同士の様に付き合うウィンクルムも居る。絆の形は人それぞれである。
　けれど、そうじゃなくて。そう、瑠璃は告げている。
　守ってくれる精霊だから、本部に決められたパートナーだから――そうじゃない。
『瑪瑙　珊瑚』という存在を、珊瑚自身の事を。瑠璃はもっと知りたいと思う。過去も未来もひっくるめて、好きになりたい。否――もう、なってしまっているのかもしれない。
　告げてどうにかなるものではないだろう。けれどウィンクルムの力が絆の深さに所以するというのならば、こんな告白だってきっと。
「――瑠璃っ！」
　一瞬呆けて、けれども彼の言葉に、心の深い場所にある何かを突き動かされた気がして、珊瑚は瑠璃を力いっぱい抱き締め返した。
　ぎゅうう、と力を込めれば「珊瑚……ちょっと、苦しいぞ……」と文句の一つも返るけれど、離す気にはなれなかった。
「瑠璃が言ったんだからな、好きになるかもしれないって――」
　嬉しそうな声で、珊瑚がすりすりと瑠璃の肩に頬ずりすれば、濡れても尚輝きを失わない蒼の髪が張り付いて少しだけ居心地が悪く、瑠璃は身じろぎする。
　そうしてようやっと相方を解放した珊瑚は、まっすぐに。瞳のオーシャンブルーを見詰めて告げた。
「……わんもおんなじくらい、瑠璃を……神人でもなんでもない、瑠璃自身を。今よりもっと、好きになるから」
　どこか大人びた顔で、珊瑚は笑う。
　不意に――いつぞや未来を覗く水鏡で見えた、別人のような珊瑚の姿を瑠璃は思い出す。
　このまま本当に、お前を知っていっても良いのだろうか。先に感じた不安のように、いつか俺の元から離れていってしまいやしないだろうか。
　いつかの小指に絡めた、星のリボンに込めたねがいごと。縁が永久に切れませんようにと。
　恐怖に揺らぐ日も確かにあるけれど、それでもいつだって、珊瑚は隣に居てくれた。
　その事実こそが、願いが叶い続けているのだという、何よりの証明になる。
「ああ。……楽しみだ、そんな日がいつか訪れるのなら」
　今ならなんだって素直に受け止められる気がした。胸に巣食う不安も畏れも、今日の日があるから、きっと乗り越えられる。
　珊瑚には瑠璃の言葉が。珊瑚にもまた、瑠璃の言葉が。
　二人にとって何よりの、強い想いという縁になるのだから。

依頼結果：大成功

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