●『恋知り鳥の大穴』へ
「穴に向かってジャンプ出来るんだって！」
　弾む声でそんなことを言って、カガヤ・アクショアは手屋　笹へと一欠片の曇りもない笑顔を向けた。遺跡の中を共に歩いているその道中でのことである。尻尾をゆらゆらとさせているカガヤへと、笹はじとりとした視線を送った。
「……カガヤ。何ですか、その無駄にいい笑顔は……」
「んー？　へへー」
　笹が精一杯低い声を出したのも、効果ナシ。カガヤはいつもの懐っこいような笑顔に少しばかりの悪戯っぽさを混ぜただけで、笹の言葉が含む追及の意味には気がつかなかった様子だ。そんなカガヤ、いかにも笹を連れていきたい場所があるというふうで、彼女の歩幅に確かに合わせて歩きながらも、案内役よろしくほんの半歩だけ前を行っている。分かりやすく嫌な予感がすると胸に思いながらも、笹はどこかそわそわとしているカガヤの傍らをゆっくりと歩いた。カガヤが、楽しげに声を零す。
「穴だけどさ、５００ｍの深さって話なのに、ウィンクルムなら着地時に減速するって不思議だね……あ！」
　にこにことして『恋知り鳥の大穴』について語っていたカガヤが、不意に、ぱあと際立って明るい声を上げる。煌めく緑の眼差しを追って――予想ができていたことなのに、笹はそれでも寸の間硬直した。少し離れた所に、広い穴の縁が見える。淡い水色のクリスタルが、ちらと顔を覗かせていた。大穴へと駆け出そうとしたカガヤが、フリーズしている笹の手を握る。
「ほら！　笹ちゃんも行こ！」
　屈託のない笑みと繋がれた手の温度に促されて、笹はカガヤと共に大穴の傍へと向かった。

●君とならどこまでも
「こ、この穴に向かってジャンプ……？　本当に可能なんでしょうか……？」
　やや及び腰で、笹は大穴を覗き込む。クリスタルの瞬きこそ見えるものの、ここからではその明かりは穴が含む濃い闇の中に溶けてしまっていて、穴の底は見えない。恐る恐るといった調子の笹とは対照的に、同じく大穴を覗いたカガヤは、
「わあ……！」
　と感嘆と驚き、それから隠しようもない好奇心の色が混ざった声を漏らした。
「生で見ると話に聞いたよりもすごいね！」
「で、ですが、さすがにその……高くて怖い……というか……」
「でも、降りる途中で綺麗なクリスタルが見られるんだって」
「お、降りっ……！」
　さらりと零された言葉に、声を引き攣らせる笹。ここからとび降りるだなんて想像するだけで目眩がしそうだ。それなのにカガヤは、
「……やってみたいなー」
　なんて、事もなげに笹に強請る。笹は、半ば反射的にぶんぶんと首を振った。
「無理無理無理です……！」
「ええー」
「ええー、じゃないです！　というか、カガヤは跳びたいだけでしょう……！」
　指摘すればカガヤはくるりと目を丸くして、それからすぐに、ふにゃりと破顔する。
「えへへ……ばれた？」
「ばれたも何も、ここに辿り着く前からお見通しです！」
「あれ、そっかぁ。でも、勇気を出さないと見られない特別な物が、見れるってロマンじゃない？」
　言われて、笹はぐっと言葉に詰まった。カガヤが言うところの『ロマン』は確かにあるかもしれない。縁から覗くクリスタルに、笹は自然と眼差しを向けた。
（……ここからでも、十分に綺麗です）
　ならば、兎を追い掛けた少女のように穴へととび込んだたったその時にだけ、臨めるという景色はどれほどのものだろうか。口元に手を宛がって、笹は少し思案する。
「笹ちゃん」
　と、カガヤが呼んだ。優しい、そして真摯な声に惹かれるようにして顔を上げる。声音と同じ、頼もしいような笑顔がそこにあった。
「やってみよう笹ちゃん。俺と一緒なら大丈夫」
「カガヤと一緒なら落ちても大丈夫？　どこから湧いてくるんですかその自信は……」
「だって俺は、笹ちゃんと一緒なら怖くないもん」
　カガヤの返事は、眩しいほどに屈託がない。その笑顔に、笹は思う。
（カガヤと一緒……この高さ怖い……ですけど……大丈夫……！）
　恐れは胸の底に深く沈めて、笹はカガヤを、真っ直ぐに見返した。
「……絶対……放さないでくださいよ」
「もちろん！」
　微塵の逡巡もなく、心強い言葉が返る。こくと小さく喉を鳴らして、笹は声の震えを飲み込んだ。
「いいでしょう……綺麗なクリスタル、カガヤと一緒に見てやりますとも！」
「やった！　決まり！」
　カガヤのかんばせに、溌剌とした笑顔が弾ける。そうしてカガヤは、
「あ、降りてる間に目つぶっててクリスタル見なかったとか無しだよ」
　なんて、ちょっぴりおどけたように付け足した。まだ仄か表情を固くしていた笹が「当然です」とこくりと頷けば、カガヤの手が笹へとそっと伸ばされる。
「よし、じゃあこれで」
「きゃっ！？」
　ふわり、身体が浮き上がって、笹は思わず短く声を上げた。気づけば笹は、あっという間にカガヤの腕の中。所謂姫抱っこ状態だが、最初に口をついた言葉は、
「手を繋いでとかじゃないんですか！？」
　だった。カガヤが、笹の顔を覗き込んで首を傾ける。
「あれ？　嫌、だった？」
「そういう話じゃないです！　これだと、自分のタイミングで行けないので余計に……」
　否定の言葉を得て、「良かった」と柔らかくなるカガヤの目元。
「それじゃあ改めて……いくよ！」
「えっ！？　で、ですからわたくしにはわたくしのタイミングが……ひゃあ！？」
　笹が言い終わるよりも早くに、カガヤは僅かの躊躇いもなしに大穴へと思いっ切りジャンプした。ひゅっと息を飲んで、笹はカガヤの胸にしがみつく。
（お、落ち……っ！）
　恐怖に目を瞑りそうになったのは、一瞬のこと。自分の身体をしかと支えるカガヤの腕の力強さと温もりが、笹の心を奮い立たせた。
（目は閉じない……！）
　そう心に決めたなら――視界にとび込んできたのは、
「あ……」
　思わず感嘆の息が漏れるような、きらきらしい幻想の世界。笹の黒耀の双眸に、クリスタルの煌めきが眩いほどに映り込む。
「どう？」
　移り行く輝きの波の中で、カガヤは、神秘的な景色に見惚れる笹へと短く問いを零した。声を失くしていた笹が、はっとしたように視線をカガヤへと移して――それから２人は、示し合わせたようにまた、どこまでも流れていく光の海へと眼差しを戻す。
「クリスタルがあんなに輝いて……とても綺麗です……！」
「うん、すっごく綺麗だね！」
　一瞬のような永遠のような時間の後の、ふっと身体が浮き上がるような感覚。落下速度の変化が、光の旅の、最後の１００ｍへの突入を２人に囁く。
「もうお終いかぁ……」
　名残惜しさが滲む声で呟いて、カガヤは笹を抱く手に込める力を少しだけ強くした。

●勇気の果ての着地点
「笹ちゃん、勇気出して良かった？」
　笹をそっと地面に下ろして、カガヤはつと口の端を上げる。その優しい表情に釣られるようにして、笹もふんわりと微笑した。
「ええ、カガヤの言う通りでしたね……勇気出して良かったです……」
　何よりカガヤが一緒でしたから、と小さな声で付け足せば、当のカガヤは瞳をぱちぱちと瞬かせた後で、くすり、くすぐったいような音を漏らして。
「な、何がおかしいんです？」
「いや……俺も実は、跳ぶ前結構緊張してたんだ……」
「ええっ！？」
　驚きに瞠られる笹の目。その反応に、カガヤは苦笑混じりに頬を掻いた。
「カガヤ、あんなにやる気満々だったじゃないですか……！」
「それはそうなんだけど、さ。流石にどきどきしてたから……俺と一緒だったからっていうの、嬉しい」
　そう言い切ってカガヤが笹に見せるのは、白い歯が覗く満面の笑み。
「ほんと、笹ちゃんと一緒に頑張ったおかげだね……うん、いい思い出出来た！」
　そんなことを言うカガヤへと笹は少し呆れたような顔を作ってみせたが――その口元は、柔らかな微笑みに彩られていた。

依頼結果：大成功

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