綺麗に整えられた食卓に皿を一つ置き、ふぅ、と初瀬＝秀は一つ安堵したような息を吐きだした。
「やれやれ、店でも出さねえぞこんな大物」
　告げた秀の視線が捉えるのは、ローストチキンだ。
　コーヒーとフレンチトーストが名物の喫茶店ではとても出されることのないメニューは、しかしクリスマスというイベントにはつきもの。
　テーブルの上には、他にもサラダやスープなど、クリスマスらしいディナーメニューが揃えられている。
　すべてのメニューが卓に並んだのを確かめて顔を上げた秀の対面の席には、イグニス＝アルデバランが満面の笑顔で座っていた。
　雪の降るような寒い冬だというのに、イグニスの表情は春爛漫。幸せは今ここにこそ存在していると言わんばかり。
　お日様とお花畑が幻視できそうなオーラを放っているイグニスに、秀は微笑ましげな気持ちを覚え、かすかに笑む。
「わー！　七面鳥の丸焼き！　流石です秀様！」
　飲み物を用意しながらの労いに秀が笑みで応えるのを見て、イグニスは天にも昇る思いだった。
（今年はすごいですよ！　なんたって秀様の！　おうちで！　おうちで！！　パーティですよ！！）
　秀様のおうちで。ここが大事な部分だ。二回言うほどに。
　なんてったってクリスマス。一年の中で間違いなくトップスリーに入るイベント事。
　そんな日にお呼ばれだ。手作りの料理でディナーだ。
　これが、喜ばないでいられるわけがあるまい。
（おうちデートなんて今年一年頑張った甲斐がありました……！）
　じーん、と感慨深い気持ちに浸っているイグニスの様子には気づかず、「それじゃ食うか」と秀はエプロンを外す。
　そうしてふと、そんな仕草をじっと眺められていた事に気がついて、怪訝そうに眉を寄せた。
「……何だよ」
「新婚さん……」
　小さな呟きは、思うだけに留めるつもりだったのだろう。
　しかし、促すように尋ねられて、思わず零してしまった台詞が、二人きりの静かな部屋に響いて。
　はっとしたように、ぱたぱたと眼前で手を振るイグニス。
「いえ何でもないです！　新妻可愛いとか思ってないです！」
　二度目は思い切り口に出た。
　新婚さんみたいだー。新妻秀様可愛いー。
　そんな思考が、駄々漏れである。
　素直が過ぎる精霊の言葉に、秀は呆れたような顔をする。
「お前……いやもういい。もういいわ」
　イグニスのそんな感想は多分今更である。
　四十過ぎの男を『お姫様』と呼び、そのように扱い、視覚の暴力と自分では思っている女装の数々さえ、素敵です、似あってますを繰り返しては嬉しそうに綻んでいたその顔に、偽りはなかった。
　先日なんて、ウェディングドレスで模擬的とはいえ結婚式までしたのだ。
　今更、文句じみたことをいうようなことではないのだ。
　どこか諦めにも似た秀の思考は、溜息となってこぼれたけれど。
　イグニスの元へ、正確に届くことはなかった。
「……否定しなかったということはつまりＯＫ……！？」
「って何故その発想に至った！」
　はっとしたような、真剣な顔で呟いたイグニスに、秀は全力でツッコミを入れる。
　ＯＫしない理由は、きっと、ないのだろうけれど。
　にわかに頬が熱くなる程度には、まだ、早いことだと思うのだ。
「ほら！　お前のリクエストなんだからさっさと食え！」
　ずい、とローストチキンの皿を押しやりながら、慌ただしくナイフを取り出す秀の姿に、イグニスはごまかされたと思うでもなく素直に笑った。
「はーいいただきまーす！」
　秀が作った料理が美味しくないわけがなくて。
　一つ口にするごとに幸せそうな顔で「美味しい」を連呼するイグニスに、秀の表情も穏やかに戻る。
　他愛もない談笑をする余裕も戻り、大きな丸焼きの七面鳥を手際よく捌くさまに拍手したりしながら、飛びきり贅沢なディナーを胃の腑に収めて。
　食後少しの間を挟んで持ちだされたデザートも、当然、秀の手作りケーキだった。
「デザートも秀様の手作り！」
「お前のおかげで製菓スキルも上がったわ」
　元々は習得していなかった技術だが、甘い物が好きなイグニスのために手を出したのだ。
　慣れれば目分量でもなんとかなる料理とは違って、菓子作りは繊細な面が多く、まだまだ極めるには達しない域だが、イグニスはそれこそ子供のように喜んでくれる。
　瞳を輝かせ、切り分けられるのをわくわくと待っているイグニスに、秀が零すのはやはり、微笑ましげな笑みだった。
　本日二度目のいただきます。
　ふわふわのスポンジとクリームをフォークで一口取り、ぱくりと口に含んだイグニスは、へにゃりと頬を緩めて笑う。
「美味しいです」
「そりゃ、なによりだ」
　料理人にとって、食べた人の喜ぶ顔は何よりの誉れで。
　それが大切だと思うパートナーであるイグニスの笑顔なのだから、秀の喜びも一入で。
　だけれどそれを露骨に出すことはなく、ささやかな笑みとして湛えると、自身もケーキを口にした。
「あ、そうだ！」
　いいことを思いついた。あるいは、大事なことを忘れていた。
　そんなイグニスの声に、どうしたと問うように視線を上げれば、ずい、と口元にケーキが差し出される。
「はい秀様、あーん！」
「ん？　……ん」
　一口分のケーキを、自然に口にして、もぐもぐ。
　甘い味が口の中に広がって、喉の奥へと送られるだけの間を挟んでから、秀は、イグニスを見やる。
　そうして、ふふふー、と満足気に笑っている顔を、見て。
　彼と同じように、ケーキを一口、差し出した。
「ほら」
　あーん、と。少し口角の上がった柔らかな表情で見たイグニスの顔は、大きく目を見開いた、驚きの表情だった。
　ケーキを乗せたフォーク越しに、そんなイグニスの顔を見て、見つめて、秀はじわじわと恥ずかしくなってきた。
（柄じゃ、なかったか……）
　というかそんなに驚くことでもないだろう、と言いたげな目で見て。上がっていた口角を少し下げて、への字を作る。
「っ、食わないんなら俺が食うぞ！」
「頂きます！」
　そう言ってフォークを引っ込めようとする秀の言葉に、食い気味に被せたイグニスは、逃すまいとしてか秀の手をきゅっと握って、ぱく、とケーキを頬張る。
　今の今まで食べてたのと同じもののはずなのに。
　その一口が、途方も無く美味しくて、甘いように思えた。
「幸せの味がしますよ！」
　頬が緩むのを抑えられない。そんな、溢れんばかりの幸せを湛えた笑顔が、秀を捉える。
　握られた手は強引でもなく優しくて、それでも秀は、振り払うこともせず、ただ少し頬を染めて視線をそむけた。
「ったく、いちいち表現が大げさなんだよお前は……！」
　赤面しているのはバレバレなのに、呆れたような顔と声を作る秀。
　けれど、そんな彼からも、幸せな気持ちは溢れて、零れているのだ。
「まあ、喜んでんなら悪い気はしないけど」
　ぽつりと小さく小さく紡がれた一言に、それは集約されていた。
　自分の家で、イグニスと二人。だからだろうか。この日の秀は、いつもより素直だとイグニスは思った。
（可愛いとか言ったら、怒られるんでしょうかね）
　怒る姿も愛おしい人の一面で、決して嫌なものではないのだけれど、出来るならこの素直なままの可愛らしい姿をもっとずっと、見つめていたい。
　だから、内緒だ。
　だけど、イグニスとそれなりに長い付き合いになる秀には、お見通しのようだった。
「……お前さっきからなんか妙なこと考えてるだろう」
「そんなことありませんよ」
「そういうのは分かるぞ。吐け！」
「いつもどおり普通ですって！」
　そう、いつもどおりで、普通なのだ。
　じゃれあうような問答も。
　イグニスが秀を可愛いと思うのも。
　ただ、愛しいと思うのも。
　二人で積み重ねてきた時間が作った、かけがえのない『当たり前』なのだ。

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