天井には鍾乳石、地面からは石筍が無数に見える。
「神秘的な……遺跡……」
　一歩、また一歩と足を進める度に篠宮潤の心が浮き立つ。鍾乳洞を見たことならあるが、この奥にある水源――洞窟湖に潜れる経験など滅多に無いのだから潤がウキウキするのも無理からぬこと。
　ヒュリアスは潤の邪魔をしないよう、後をついていくだけ。例え向かう先が水底であろうとも。

　底に足が着いた感覚は言い表しようもないものだった。陸で地に足をつく感覚とも、本来の水中での感覚ともまた違う。
　潤は随分と遠くなった頭上を見上げた。透明度が高いだけあって、水底からでも日差しを受けてキラキラと輝く美しいエメラルドグリーンの湖面が見える。
「綺麗……」
　そのままちらとヒュリアスの様子を窺う。湖の中に入ってから彼は口を開いていない。
　とはいえ、何か問題があるわけではなさそうだ。ヒュリアスは多弁な質ではないし、表情からも不満の色は見えない。
　ヒュリアスなりの配慮かもしれないと思い直し、潤は軽い足取りで歩く。そのつもりはないのに、一歩一歩がふわり、ふわりと跳ねてしまうのが可笑しい。
　潤の後ろを歩いているのだから、ヒュリアスが一瞬のものであったとしても潤の視線に気付いたのは当然のこと。何も言わない自分を気にしないでいてくれたのは正直なところ、ありがたかった。
　それというのも、水の中にありながら呼吸や会話が出来るどころか濡れることもないというこの事象がイマイチ信用できないのだ。
　真面目で堅物と知人の大多数が評価するであろうヒュリアスは、話しかける為に口を開けば水が入ってきて溺れるのではという懸念しているのである。だから口を閉ざしているのだ。
　その知人達ならヒュリアスらしいと笑うか呆れるかのどちらかに違いない。もっとも、潤なら「確かに……」と考え込んでしまうのだろうが。
　
　どれだけこのままでいられるかは、なんとなく分かった。その確信がどこから湧いて出ているのかは知らないが、三時間はこの場所を楽しめるはず。
　潤は触れることができるもの、間近で見ることができるもののことごとくを堪能し、水中らしく『浮く』感覚をも楽しんだ。
　ヒュリアスとの間に会話こそなかったものの、気にはならなかった。寡黙ながらも琥珀の瞳が優しかったからである。
　まだ余裕はあるが、じきに『刻限』と分かった潤はトンっと、水底を蹴った。
　ここまで差し込まれる光へと手を伸ばす。太陽のものか『恋慕石柱』のものかは分からないが、エメラルドグリーンの世界では宝石のように眩しくて、触れることなどできないと分かっていても触れたくて。
　ふわりと浮き上がった体が再び水底へと引き戻される感覚。
　潤が視線を下せば、ヒュリアスが手を差し伸べている。潤はほんのりとはにかみながらもその手を取った。
「ヒューリ、付き合ってくれて、ありがとう」
「いや」
　浮き上がろうとする力に逆ら、ゆっくりと手を引いてヒュリアスは潤を降り立たせた。浮力に逆らいきれなかった深い紫の髪が水になびく。
　その姿に刹那、ヒュリアスは目を細めた。溺れるかもしれないという不安は、今や路傍の小石程度のもの。確かめたいことの前では気にするほどのものでもない。
　ゆえに、情緒だとか空気を読むだとかそういうものがすこーんと抜けている男は不意打ちの剛速球を投げた。
「ウルは、結婚の儀とやらに興味は無いのかね？」
「けっこ……！？」
　途端、潤の顔が真っ赤になった。
　ストライクではない。もはやデッドボールである。
「……ふむ」
　悪くない反応だと、経験上ヒュリアスは知っている。何年か後に儀とやらがあればやってみてもいい、などと企てる。ヒュリアスがサプライズを覚えた瞬間である。恋愛レベルが１上がった。
　とりあえず、時間もないからと陸へ上がることにする。一蹴り、二蹴りするだけで体が湖面を目指す。
　その間も、周囲は水だというのに潤の顔から熱が引く気配は一向に訪れない。水中洞窟へ行くまではとても長く感じたのに、帰りはあっという間だった。
　水から上がっても体は身軽なまま。濡れた服が肌に張り付くことも、水を吸って体にのしかかってくることもない。
　とうとう潤は強引にでも落ち着くためにすぅはぁと深呼吸を繰り返した。
　目を見ればまた顔が赤くなる気がしたが、これから言うことはきちんと顔を見て言わなくてはいけないと潤は自らに言い聞かせる。
　何か言おうとしている気配を感じ取ったヒュリアスも居住まいを正す。
「ウィンクルムだから……大事な約束して……どちらかが居なくなったら……少なくとも僕は、まだ耐えられなそう、だから」
　『彼女』の喪失すら身を引き裂かれる心地だったというのに、それがヒュリアスなら？　約束を交わした相手なら？　ウィンクルムである以上、あり得る未来。耐えきれる自信が微塵も湧かない。
「……そうだな」
　それまで静かに耳を傾けていたヒュリアスが先に視線を外した。洞窟内のどこか遠くを見ながら、ある人物に思いを馳せる。鮮やかな笑みを浮かべる『彼女』だ。
　同時に、定まらぬ覚悟のように潤の視線もさまよう。輝く湖面、優しく光る鍾乳石、そして暗い雲の狭間に見える青空の色をした夢想花。
　その鮮やかさとは真逆の、情けなさを潤は笑みに乗せていた。
「弱くて、ごめん」
　呟くように謝る潤。
　ヒュリアスはそれを弱さ故だとは思わなかった。
　あの日、一人で泣き崩れていた潤。それを遠くから見ていた自分。
　傷は癒えた。行く先の無かった涙は消化され、今の関係性に昇華した。けれど塞がっただけで、未だ大きな傷跡は二人の胸にある。
　それが消える日など想像もつかない。さらなる傷を抱えることになった時を、『夢』とはいえヒュリアスは一度体験している。あの時は潤の覚悟を目の当たりにしたが……現実にするなど、まっぴらごめんだ。
　だから。
「逝く時は、共にが良い……」
　嘘偽りのない言葉。一度知ってしまったがゆえのヒュリアスの想いだ。
　振り返って視線を合わせれば、驚いた表情の潤が瞬きを繰り返している。
「……うん」
　反射的に出た返事だというのに、潤は当たり前のように自分の言葉を受け入れる。さぁっと、胸の内の雲が引いていくように潤は感じた。
　一緒に考えて、一緒に生きて、一緒に逝く。未来を探る者の決意は願いへと姿を変え、潤に示された。
「……うん……一緒が、いい」
　ほんのりと頬を赤く染めた潤は微笑み、そろりと距離を詰めた。細身ながらも逞しいヒュリアスの腕に、こつんと頭を寄せる。
　腕から伝わる重さも体温も甘く、心地よく。ヒュリアスは目を細めた。
「ヒューリ」
「どうした？」
「僕ね……」
　目を閉じて、ヒュリアスのかつての言葉を思い出す。『今度ウルが感動した時にその物を教えてくれ』。ヒュリアスは『物』と言ったけれど――。
「僕、ね。幸せ……だよ」
　傷跡は残っている。消える日が来るのかさえ分からない。
　けれど、『夢』というものを考えたことが無いと言ったヒュリアスの願いは、まさに『夢』だ。そして潤も同じ『夢』を見る。
　それを『彼女』が祝福してくれているように感じるのは、ヒュリアスの髪色と同じ色の夢想花のせいだろうか。
「……そうだな」
　ヒュリアスは小さく答えた。万感の思いと共に零した声は深く、温かく、優しい。性格上、潤と同じ言葉は返せないけれど。
　二人の間で交わされたのは『生涯の約束』。『将来の約束』を飛び越えたもの。それも本人たちは自覚無しだ。
　柔らかな風がさぁっと吹き抜け、二人は揃って顔を上げた。洞窟の僅かな隙間から差し込む光に向かう風が夢想花の花びらを躍らせる。
　『彼女』がそこにいるように感じた潤は、今度は光へ向けて言う。
「幸せ、だよ」

依頼結果：大成功

＞＞＞煉界のディスメソロジア
キャラクターコンバート！

＞＞＞ファンレターキャンペーン開催中！

＞＞＞チュートリアル漫画むーびー公開！

＞＞＞4thアニバーサリー！情報告知！