「買い物に行ってくるよ」
　そう言って立ち上がったレーゲンに、信城いつきは瞬きした。
「うん、いってらっしゃい。外は寒いみたいだから、ちゃんと温かくして行ってね？」
　いつきは、よいしょとソファーから立ち上がると、コート掛けからマフラーを取って彼に歩み寄った──たったそれだけの動作でも、僅か息が乱れる。
　それを表に出さないように気を付けながら、いつきは背伸びしてレーゲンの首にマフラーを巻いた。
「はい、出来た」
「有難う」
　ぽんと、レーゲンの大きな手がいつきの頭を撫でてくれる。
　それだけで、いつきの心は温かいものに満たされた。
「いつきも温かくしてるんだよ。それじゃ、いってきます」
　手を振りレーゲンを見送って、いつきはリビングのソファーに倒れ込むように横になる。
　身体が、だるい。
　原因は単なる体調不良ではない事は、分かっていた。
　ソファーから瞳を上げると、壁に掛かっているカレンダーが視界に入る。
　──今日は、クリスマス。
（俺が、顕現した日……）
　のそりと左手を上げると、独特な文様が浮かぶ手の甲が見える。
　白い犬。紅い紅い色。銃声。紅く染まった──。
　身体がぶるりと震えた。
　寒い──。
（一人でいると余計なことを考えそう……）
　いつきは無理矢理身体を起こした。
（ミカのそばに行こう）
「あれ？　チビ、一人なのか？」
　その時、リビングの扉が開いて、見知った顔が覗いた。
「ミカ」
　いつきはホッとする胸を押さえて、部屋に入って来た彼を見上げる。ミカは手荷物をテーブルにどさっと置いた。
「レーゲンは買い物に出かけたよ。丁度良かった、俺、ミカの所に行こうと思ってたから──」
「なんだー？チビ、レーゲンが一人で出掛けちまって寂しいのか？」
　ずいっと顔を寄せて、ミカが意地悪く笑った。
「別に寂しい訳じゃなくて……」
「それとも添い寝してほしいのか？」
「ち、ちが……！　そんな訳ないだろ？」
　真っ赤になったいつきに、ミカはニヤニヤ口角を上げた。
「じゃあ、レーゲンが居なくて寂しがってるおチビちゃんの為に、暇なら昔話してやろうか」
　ソファーの真向かいにあるリクライニングチェアーに、ミカは腰を下ろす。
「ん？何の話？」
　昔話という単語に反応したいつきが、じっとミカを見た。ミカの瞳がキラリと光る。
「あいつがしでかした恥ずかしい話とか」
　ミカの言う『あいつ』＝『レーゲン』だ。
　ぴくぴくっといつきの肩が揺れた。こくこくと小さく頷く。
　その反応に満足そうに足を組んで、ミカは瞳を細めた。
「昔、あいつと俺が道を歩いていたら、突然先の道に立ってた女性が手を挙げたんだ。そしたら、レーゲンの奴、どうしたと思う？」
「え？……何したんだろ？」
「徐に手を挙げて、女性にハイタッチした。ちなみに女性はタクシーを呼び留めようとしてただけ。女性のびっくりした顔ったらなかったな」
「……っ」
　想像して思わず口元を押さえる。
　いつも落ち着いた雰囲気のレーゲンからは信じられない出来事だ。
「調理中、卵を割った後、中身を捨てて殻の方を料理に投入したり」
「え？」
「回転扉に挟まった事もあったな。突っ立ってたら自動で進むと思ったらしい」
「本当に？」
　ミカの口から飛び出るレーゲンの失敗談の数々は、いつきから見た彼とギャップがあって、昔の事なんだろうけれども、可愛いなどと思ってしまう。

「……何の話で盛り上がってるのかと思ったら」

　不意に飛び込んできた声に、いつきは扉の方を見た。
「レーゲン！」
「戻ったか」
「ただいま」
　にこりと微笑み、レーゲンはいつきの隣へ歩み寄る。
「私のことだけ言ってるようだけど、ミカも人のこと言えないよね」
　レーゲンの翠の瞳が、ミカを少し冷ややかに見遣った。
「いつき、ミカだって、雨の日に濡れた床で滑って、器用に180度開脚したりとかあったんだよ」
「ちょ、おま！」
「トイレを男女間違えて入ったりもしたよね。あの時は俺もフォローするのが大変だったな」
「ミカがそんな事……」
　いつきはじーっとミカを見る。心なしか彼の頬が赤い。
「そういうお前だって、女性もののシャツを間違って買ったりしただろ。合わせで気付けよ！」
「ミカは、学校の先生を『お母さん』って呼んだ事あるよね。普通間違えないと思うけど」
「寝ぼけてカップスープに水注いでた」
「服に値札を付けたまま歩いていたね」
「歯磨き粉と洗顔フォームを間違えてた」
「そっちだって烏龍茶と麺つゆを間違った」
　レーゲンとミカ、次々と二人の口から出てくる失敗談の数々。いつきは目を丸くして二人を見ていた。
（二人ともちょっと子供みたい。こんな二人初めてみた）
　クスッと思わず頬が緩む。
　レーゲンをミカの視線がいつきに向けられた。
「いつき」
「おチビちゃん、笑うなよ」
「だって、おかしくて……」
　肩を揺らして笑ういつきを見つめてから、レーゲンとミカは視線を合わせた。
　どちらからともなく、ふっと笑みが漏れる。
「レーゲン、ちゃんと飲み物は買ってきたのかよ」
「ああ、ミカの注文通り」
「それじゃ、腹も減ったし食事にするか。つくるの面倒だから適当に酒のつまみ買ってきた」
　ミカは立ち上がり、テーブルに置いてあった包みを開く。
　一口サイズの色鮮やかな料理が重箱いっぱいに詰まっていた。
　レーゲンがグラスと小皿を運んで来て、テーブルの上はあっという間に鮮やかなホームパーティの場に変身する。
「チビもお腹すいたらつまんでいいからな」
「うん、ありがとう」
　ミカの言葉に微笑んで、いつきはテーブルに並ぶ料理を見つめた。
「見たこと無い料理ばっかりだ……」
「これ何だろうね？」
　レーゲンが小皿に一品料理を乗せる。
　トマトの中に、モッツァレラチーズとバジルがサンドイッチのように挟まっている。
「カプレーゼ、イタリア料理だな。味付けは塩とオリーブオイルだけだが、美味いんだ、これが」
　ミカはパクリとそれを口に入れて、トマトとチーズのハーモニーに唸った。
「酒にも合う」
　白ワインを一口飲むと、彼の表情が幸せそうに緩む。
「美味しいよ、いつき」
　レーゲンも一口食べて、にこりと微笑んだ。促されるまま、いつきも口に運んでみる。トマトの瑞々しさ、一口サイズなのも食べやすい。
「うん、美味しい」
　レーゲンとミカの視線が合う。続けて、レーゲンは卵焼きを皿に取った。
　これも只の卵焼きではない、卵焼きの中にハムとケチャップがサンドされている。
「ああ、これも美味しいね。卵焼きの中にはツナと乾燥わかめが入っているのかな。出汁の味が良いね」
「本当だ。卵焼き、小さいのにしっとりふわふわ」
　口に運んだいつきの頬がふにゃあと幸せそうに緩んだ。
「おチビちゃん、これも食べてみな」
　ミカが一口サイズのキッシュを、いつきの皿に載せる。
　いつきがフォークを入れると、ふわふわの生地は驚くほど柔らかい感触だった。
　厚切りのベーコンがジューシーで、チーズのコクも堪らない。
「美味しい……！」
「酒が進むってもんだな」
「ミカ、飲みすぎないようにね」
　ミカが買ってきたピンチョス（一口料理の事を言うらしい）は種類豊富で、いつきは二人の感想に促されるまま、ぱくぱくと食べ進める。
　こんなに食べるのは、久し振りかもしれない。
「いつき、これ、材料は何だと思う？」
　レーゲンが皿に取った料理を、いつきは真剣な眼差しで見つめた。
「フランスパンの上に……蟹、かな？」
「玉葱も混じってると思う。緑は何かな？　サワークリームで和えてるっぽいね」
　材料を予想する二人を横目に、ミカが同じ料理をぱくっと一口食べる。
「うん、正解だな。ケイパーも入ってるっぽい」
　その感想に、レーゲンといつきも続いて料理を口に運んだ。
「サワークリームが良い味だね」
「美味しい！」
　三人で同じ味を味わい、微笑む──楽しいな、といつきは思った。
　美味しい料理、楽しい会話、温かい空気……。
　不意に、鼻の奥がツンとした。
　ぽたり。
　涙が落ちる。
　いけない、止めなきゃ──そう思うも、涙は意志に反して溢れてくる。
「いつき……？」
　レーゲンが目を見開く。
「おい、おチビ……」
　ミカが動きを止める。
　ああ、心配してくれている。心配してくれて、いるんだ──。
（俺が落ち込まないように、いつも以上に優しくしてくれてるの分かるから）
　心に染みて。涙が、出る。
「ごめんね、泣いたりして。心配かけてばかりだね……」
　ようやく絞り出した声は、無様に掠れていた。
「いつき」
　レーゲンの指先が伸びて、落ちる涙を優しく拭う。
　いつきの涙は温かい。
（感情のゆれが出てるのかな）
　揺れる肩を優しく撫でれば、いつきは瞳を伏せた。レーゲンはぽんぽんと肩を叩きながら、穏やかに語り掛ける。
「涙がでてもいいんだよ」
　弾かれたように、いつきが顔を上げた。見開かれた瞳は、真っ直ぐにレーゲンを見ている。
　レーゲンもまた、いつきの青い瞳を逸らさず受け止めた。
「涙がでてもいいんだ。少しづつ感情が戻ってきてるってことなんだから……」
「あ……」
　いつきの身体が震える。こんな風に泣けた事に、今更ながら驚く。
「ね？」
　ふわりとレーゲンは微笑むと、そっといつきの頭を抱き寄せた。
　温かい。
　愛おしい体温を感じる。
　震えるいつきを落ち着かせるように、レーゲンは栗色の髪を撫でた。
　思い出した過去を消す事は出来ない。過去を変える事も出来ない。
　いつきが負った心の傷を、無かった事にする事は、出来ない。
　それでも──その痛みをひっくるめて、全部、いつきを包みたい。
　一緒に歩いていきたい。
「ごめん、ね……」
　いつきの手が、そっとレーゲンの背中に回る。存在を確かめるように。
　だから、レーゲンは強く彼を抱き締めた。ここに居るよ──そう伝えるように、強く。
　嬉しい。
　いつきは溢れる想いにぎゅっと瞳を閉じた。
　思い出す。
　硝子の礼拝堂で、彼は言ってくれた。

『私も、諦めたくないよ。一緒にいたいよ』

　ああ、何と得難く、誰よりも何よりも愛おしい人なんだろう。
　彼が全部くれると誓ってくれたのだから、きっと大丈夫。
　叩くような胸の痛みが消える日は来ないのだろうけれども、それを受け止めて歩き出す勇気を、どうか下さい。

「……」
　ミカは抱き合う二人を眺め、そっと表情を緩める。
　きっとこの二人なら、ここから一緒に立ち上がって歩いて行ける。
　それを知っているから、その背中を押すくらい、幾らでもしてやるよ──。

　暫く経って、いつきは目元の涙を拭って、ほんのり頬を染めた。
「いっぱい泣いちゃった……ごめんね、二人共……」
　ぺこりと頭を下げるいつきに、レーゲンは首を振り、ミカは肩を竦める。
「謝るな、このくらい貸しにしといてやるから」
　いつきが顔を上げると、悪戯っぽく笑うミカと視線が合った。
「あとで利子つけて返せよ」
「利子……」
　いつきは少し考えた。
　貸しという単語に、余り良い予感がしなかった。
　女装しろ……とか、また言わないよね？
　じとっとミカを半眼で見れば、ミカはパチンとウインクで答える。やっぱり嫌な予感。
（でも……）
　わざと自分をからかって元気付けてくれる優しさがある事も、知ってる。
「そう言えば、乾杯してなかったよな」
　ミカが三つのグラスにノンアルコールのシャンパンを注いだ。
「ほら」
　いつきとレーゲンにグラスを渡し、自分もグラスを持つ。
「それじゃ」
「乾杯しようか」
　レーゲンがグラスを掲げ、いつきが頷く。

「乾杯！」

　三つのグラスが触れ合う、カチンと澄んだ音が響いた。
「……美味しいね」
　グラスを空けて、いつきが微笑む。
「あ、見て」
　いつきは窓際に歩み寄った。
　窓の外、暗くなった空から、白い白い雪が降り始めている。
「おー雪か。どうりで冷える筈だな」
「大きな雪の粒だね。キラキラしてる」
　いつきの左右にミカとレーゲンが立って、三人で空を見上げた。
「積もるかな？」
「いつきは積もって欲しい？」
　レーゲンの問い掛けにいつきは少しだけ考えて。
「うん、積もって欲しい、かな」
「積もったら外に出るのが面倒になるから、パス」
　ミカが眉を寄せて首を振った。彼らしい反応に、いつきとレーゲンが笑う。レーゲンが続けて尋ねた。
「いつきはどうして積もって欲しいの？」
「……レーゲンとミカと、雪合戦、してみたい」
「は？」
　ミカが瞬きする。
「あと、雪だるま作ったり」
「……勘弁してくれ。寒いし汚れるし、俺はパス」
「ミカ、いいじゃないか。積もったら皆で外で遊ぼう」
　にっこりとレーゲンが笑うのに、逃げられない事をミカは悟った。
「……マジか」

　しんしんと降り積もる雪は、辺りを白く染めていく。
　その様子を眺めながら、三人のクリスマスの夜は更けていった。

依頼結果：大成功

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