【浄罪】そんなに優しくしないで、(桂木京介 マスター) 【難易度:とても簡単】

プロローグ

 ――そんなに優しくしないで、
 思わず出かかったその想いを、口にすまいとしてあなたは手で自分の口を塞ぐ。

 どうして彼が、あなたのエプロンを腰に巻いてキッチンにいるのか。
 しかもそうして、ぐつぐつ煮立った鍋を手にしているのか。
「おう、目が覚めたか」
 あなたの様子に気付いたのか、彼は振り向いて声を掛けてきた。
 あなたは寝返りして背を向ける。
「帰ってよ」
 冷たく言い放った。
「ご飯作ってなんて、頼んでない」
「うん、頼まれてないよ。だからこれはお節介」
「余計なお世話、って言うんだよ」
「そうとも言うかな」
 あなたの声のトーンなど意に介せず、楽しそうに彼は呼びかけてくる。
「で、雑炊は和風だしと味噌味、カレー味のどれがいい?」
「いらない」
「うちの田舎ではカレー味なんだが」
「そんな田舎あるかー!」
 思わず突っ込んでしまい、あなたはゲホゲホと咳き込んだ。……だめだ、寒気がする。
「いや、マジだよ。お袋の味、チキンササミとズッキーニのリゾット風雑炊」
 分厚い布団を被って毛布まで乗せているというのに、あなたはややもすると、歯がガチガチと音を立てそうなほど震えていた。幸い胃腸のほうは通常運転だ。温かい雑炊――想像するだけでお腹が鳴りそうである。さぞや暖まるに違いない。しかも鶏笹身入りのリゾット風だなんて……。
「……それでいいよ」
 ぽつりとあなたは呟いた。
「え? なに?」
 彼の言葉尻が上がっている。笑いをこらえている雰囲気だ。わかっていてからかっている――腹が立つ。
 でも腹が立つ以上に、腹が減った。
「カレー味でいいよ……作りかけで捨てたら勿体ないもの」
 了解、と歌うように告げ、彼は押しかけ看病に戻るのである。
 ――そんなに優しくしないで、
 あなたは顔を布団に伏せ、ギュッと目をつぶって涙をこらえる。
 ……そんなに優しくされたら、君のこと、好きになってしまいそうだから――。


 ……というのはもちろん、あくまで一例だ。
 テーマは『優しさ』、それだけとしよう。状況は自由としたい。
 普段クールな彼が、風邪で伏せったあなたに優しくしてくれた。
 彼の誕生日に気付いていないふりをしておいて、当日に突然、サプライズでプレゼントをあげるあなた。
 泣いている迷子に遭遇! 無口なあなたと彼は、必死で子どもを笑わせようとする。
 いつも優しい彼につい、あなたは「どうして怒らないの!」と声を上げてしまう……。
 様々な展開が予想されるだろう。
 そんなに優しくしないで、でも、優しくしてほしい――そんな矛盾した気持ちが語られることもあるかもしれない。
 どんな『優しさ』があるだろうか。

解説

 日ごとに寒さは増し、人恋しくなるこの季節のとある一日における、あなたと彼との物語を描きます。
 プロローグにも書いたように、時刻、場所などなどはお好きご設定ください。なんなら、夢の中の話でも結構です。
 テーマは『優しさ』としましたが、その現れ方は人によって異なるでしょう。あえて厳しい態度を取ることが優しさという人がいてもいいはずですし、普段通りの彼こそ優しさの体現者だという解釈も可能です。
 まったく思いつかない、というかたは、プロローグで提案したフォーマットを使ってみてはいかがでしょう?

 どんなお話が来るのか、楽しみにお待ちしております。

 なお、アクションプランに合わせて300から500ジェールくらいを消費しますのでご了承ください。

●ギルティ・シードについて
 このエピソードは、ギルティ・シードを枯らすことをもうひとつのテーマとしています。
 ギルティ・シードとは人々の負の感情を高め、オーガ化させるという危険な種です。これはウィンクルムの愛の力で枯らすことができるとされており、このエピソードでもそれは可能です。
 といっても特にそのことを意識する必要はありません。おふたりがいい時間を送ることができれば、それで自然と枯れてしまうのですから。
 種がどこにあるのかといった具体的な情報は、特にご希望がない限り描写しないと思います。
 ですのでどうぞ、このテーマに縛られず自由にお過ごし下さいませ。

ゲームマスターより

 ここまで読んで下さりありがとうございます!
 優しい人が好きです。桂木京介です。

 優しさをテーマにした、イベント絡みでもあるハピネスエピソードです。
 温かい気持ちに包まれるような、あるいは、恋する気持ちが焦れるような、おふたりの素敵な時間を演出させていただきたく思います。
 張り合って競い合ったり、悪口を叩き合いながらも互いを思いやったりするようなブロマンス的な展開も面白いでしょうね。
 
 それでは、次はリザルトノベルでお目にかかりましょう! 桂木京介でした。

リザルトノベル

◆アクション・プラン

信城いつき(ミカ)

  ※ミカがアクセサリーをおろしてる兼バイトしてるお店で代理バイト
クリスマスも近いしミカの分まで俺頑張るから!
最初はミカから散々注意されたけど、今は大丈夫だよ


ねぇミカ……俺のせいで怒られたりしてたの?
店長が笑い話のように言ったけど、最初の頃は大変だったって

やっぱり怒られてたんだ
ミカのアクセサリー作りに集中させるつもりが、逆に邪魔してたんだね
なのに一度もやめろとは言わなかった
怒られてばかりと思ってたけど、かばってもらってたんだね
「俺は優しくない」って言うくせにいつだって…そんなに優しくしないでよ

涙にじんだけど、ぐっとこらえる
最初はミカの為だったけど、今は「仕事」できるようになりたいんだ
やります、先輩


楼城 簾(白王 紅竜)
  ふと見回すと、誰もいない夜のオフィス。
紅竜さんが珈琲を差し出してくれる。
「珍しいね」
けど、紅竜さんが気遣ってくれるのは嬉しい。
やがて、仕事も終わった。
ほっとしていたら…
!?
紅竜さん…!?
「!?」
押し倒されキスの後耳元で囁かれ…、え、待っ…

…目が覚めた。

薄目を開けると、ベッド脇に紅竜さんが座ってる。
昨日風邪引いて倒れて…彼が看病してくれたんだった。
だからあんな夢を…。
って、待て。
僕がそう望んでるみたいな考えだぞ!?
発熱による思考だろうが、起き難い。
と、紅竜さんの温かくて堅い手が額に触れた。
ふわふわするのに、胸が締めつけられる。どうしよう。
…寝た振りに気づかれた。
「おはよう」
そこで微笑は反則だ。


テオドア・バークリー(ハルト)
  ハルトに用事?ちょっと待ってて…ハルト!呼ばれてるぞ!
さっきのやつ…ああ、確かに言われて見れば毎月何かカラオケやってるよな。

ハルの交友範囲って本当に広い。
ハルは優しいから…誰にでも好かれて、慕われて、頼られるところ、
自分では絶対に真似できないだけに正直羨ましいと思う。
…やばい、まさか一部声に出てた…?

大丈夫だ、言わない、っていうかそもそも付き合ってないし!

今までハルが頼みごとを断ってるところ見たことないのって、
ハルが優しくて全部引き受けてるからだと思ってた。

…ハル自信もいつかって言ってるあたり分かってるとは思うけど、
そうなるまで時間はものすごくかかると思う、けど努力はしてみるよ


カイエル・シェナー(イヴァエル)
  『ただ私の傍にいればいい』
こちらの思考を奪う兄の言葉は とても『優しい』

兄の屋敷の夕食に呼ばれる事が多くなった
出されたワイン
根拠もなく突っ撥ねる選択肢はない
…ぐらりと巡る…やはりか!

ソファーに身を沈める
気付けば隣には兄の姿
「…潰れた人間の顔を見ても、楽しくないのでは?」

促される言葉が『優しい』 なのにこんなにも怖れを抱くのは何故か
震えている自分に気付く それでも僅か身を寄せた

──兄の言葉に嘘偽りはないと知っているから。
何があろうと兄はこちらに真摯であるのを知っているから──

怖い それでも
たいせつな、兄だから
「あに、さま…」
先の見えない恐怖 背筋が震える

意識ごと堕ちる感覚 相手の服を強く掴み……手が、落ちた


 ハロウィン飾りが終わってまもなく始まるのは、感謝祭……ではなくクリスマスの装飾なのだ。
 先日までオレンジ色のカボチャマスクがいた場所には、赤い服のあの人が立ち、ディフォルメされた可愛らしいコウモリのかわりに、雪だるまやトナカイの切り紙細工が貼りつけられている。黒とオレンジのベーシックカラーも、いまは赤と緑に変貌していた。
 ――ちょっと前に客として来たときは、あのあたりには『おばけ』のぬいぐるみがあったよなあ……。
 蝶ネクタイをしたワイシャツ姿で、信城いつきはぼんやりと店内ディスプレイを眺めていた。
 シャツの上には黒いベストを着ている。ベストの左胸ポケットの下には、翅(はね)をもつ妖精のシルエットが、銀がかった白い糸で刺繍されていた。蝶ネクタイも同系列、黒と白のチェック柄だ。
 いつきの髪型も普段よりずっとフォーマルである。かっちり気味にセットされていて、銅色の髪の跳ね具合もやや抑えられていた。
 このとき、
「あの……」
 声を掛けられ、「ん?」といつきは振り向いて、
「どうかした?」
 冬の晴れ間のような水色の目をにこっと緩め、目の前の少女に笑みかけている。
「えっと、ボーイフレンドの誕生日プレゼントを探してるんですけど……」
 高校生くらいだろうか、比較的地味目の外見の少女で、まっすぐに下げた両手をもじもじと、長いスカートのウエストあたりで組んでいる。こういう機会は不慣れなようだ。いや、初めてなのかもしれない。『彼氏』と言わず『ボーイフレンド』と呼ぶところも、どことなくクラシックではないか。
「ああ、うん。いいよ。えーと、彼はどんな男の子かな?」
 これをきっかけに、いつきは少女から情報を聞き出していく。最初はおっかなびっくりだった彼女もやがて、おずおずとながら彼氏の好みなり自分の希望なりを語り始めた。
「だったら、こういうのとかいいかも」
 わしっとアクセサリー類をまとめて数個握ると、ひとつひとつ掌の上に並べていつきは示し、感想を聞く。
「なるほど、それだったら……」
 うなずくと商品をがさっと元に戻し、今度はまた、別の数個を取って同じように訊くのである。
 少女の言葉にいちいちうなずきながら、「さてと次は……」と言いかけたところで、いつきは襟を背後からぐいと引っ張られた。
「わわわっ! 何っ!?」
 振り向くとその場には、口元のみ凍り付いたような笑みを浮かべながら、視線は全然笑っていないミカが立っていた。
 ミカの装いは、上から下まですべていつきと同じである。
「すぐにおうかがいしますので少々お待ちを」
 ミカは恭しく少女に一礼する。いつきが「え? なに?」という顔でぽかんとしているのに気付くと、ぐいといつきの頭を押して同じように一礼させた。
「いつき、ちょっと」
 腕が抜けそうな力でいつきを引っ張ると、ミカは早足でバックヤードに向かった。
「え? なになに? なんだよミカ、俺接客中だってばー」
「……いいから、黙って来い」
 ミカは決して大声を出さないものの、錐で突くような鋭い口調だった。
 『STAFF ONLY』と書かれた黒い扉を音もなく閉める。バックヤードだけあって照明は暗く、梱包を解かれていない商品や返品交換品、未使用のポスター、チラシなどが積まれている。椅子はふたつあるきりだがミカは座りもしない。
 くるりといつきを振り向くと、ようやくここでミカは、「おい!」と口調を荒げたのである。
「な、なんだよ……?」
 ミカの剣幕に、さすがのいつきも口ごもってしまう。
「いつき、俺最初にちゃんと説明したよな。接客業について」
「した……と、思う」
「思う、じゃない! したんだよ!」
 怒りを爆発させたりはしないものの、ミカは明らかに苛立っていた。
 ここはタブロスにある大型ショッピングモールの一角、名の知られたアクセサリーショップである。この店に、ミカはアーティストとして自作アクセサリーをおろし、店員としてアルバイトもしている。
 クリスマスシーズンに入ったこのごろ、店はとても人出が不足していた。不足しているのは人手だけではない。ミカが作るオリジナルアクセサリーについても同様だった。とりわけ、シルバーペンダントについてはミカがハンドメイドした流線型のデザインが口コミで静かなブームとなり、常に在庫がないという状態だったのである。
 つまりミカには、しばらく店員としてシフトに入る頻度を減らしてでもアクセサリー製作を進めてほしい、という求めが店側からあがっていたのだった。といってもその一方で、ミカが店に立つ回数が増えるほどに、店員不足は加速するという悩ましい話でもあったのだが。
 そのことをふと口にしたところ、いつきは「じゃあ俺手伝いに行く!」と臨時の応援要因を申し出た。
 そのとき「気持ちは嬉しいが」と断った上でミカは言ったものだ。「アルバイトといっても接客業だからな。厳しいぞ」と。
 大丈夫、といつきは胸を張った。「クリスマスも近いしミカの分まで俺頑張るから!」と殊勝な言葉も口にしている。
 なので――ミカは自分の代理としていつきを店に紹介したのであった。
 いつきには単独で一週間ほど働いてもらい、今日、ミカは久々に店員として店に出た。この日もいつきは働いている。
 そうして、いつきの働きぶりを目の当たりにしてミカは震え上がったという次第だ。
「客は友達じゃない、ため口で話すな!」
 なおも不服そうな顔をするいつきにさらに言う。
「品物をむやみに手で触るな!」
「だって、そのほうがあの子……さっきのお客さんね、リラックスできると思って……」
 いつきはさらに抗弁した。
「商品だって、ああやったほうが見やすいし……」
 ところがミカは容赦しない。
「店では俺が先輩だから指示には従え!」
 ぴしゃっと言っていつきを黙らせた。
 ミカとて、いつきが懸命にやっていることは理解している。制服もちゃんと着ているし姿勢もいい。明るい笑顔で接客できているとも思う。
 けれど……やはり不慣れなのか、些細なところでボロが出ているようにも思うのだ。店には店の雰囲気というものもある。いつきの対応は、このショップの基準からすればちょっとくだけすぎている。
 従え、と言い切られてしょげたり、反発するかと思いきや、いずれの反応もいつきは示さなかった。
 そればかりか心配そうな顔をして、ミカの顔を見上げたのだった。
「ねぇミカ……やっぱり、俺のせいで怒られたりしてたの?」
「えっ?」
「店長が笑い話のように言ったけど、最初の頃は大変だったって」
「あぁ聞いたのか……」
 ミカは苦い顔をした。叱りたくて叱ったわけではないことまで、いつきには見抜かれていたようだ。
「気にするな、やるべきことをすれば無闇に怒る人じゃない」
 溜息をついてしまう。そんなミカを見て、
「やっぱり怒られてたんだ」
 いつきは、心から申し訳なさそうな瞳をしていた。
「ミカのアクセサリー作りに集中させるつもりが、逆に邪魔してたんだね……」
 なのに、といつきは心の中で呟く。
 なのにミカは、一度もやめろとは言わなかった――。
 ――さっきだって、怒られてばかりと思ってたけど……かばってもらってたんだね。
 いつきに途中で抜けてほしくない、やり遂げたという達成感を持ってほしい、きっとミカは、そんな風に思っているに違いないのだ。
 いつきの目が潤んでいた。感情が高まって、言葉が出てこない。
 ――ミカはよく、「俺は優しくない」って言うくせに、いつだって……そんなに優しくしないでよ。
「よせよ、ほら、なんというか……もういいから」
 ミカはいつきの目を直視できなかった。
 あの少女の接客だって、いつきはものすごく張り切ってやってくれていた。彼女のために親身になって、一緒にプレゼントを考えていたようだ。初対面の客だというのに、まるで友達みたいに。やり方としては店のルールから多少逸脱するものの、その熱意はきっと、店にとってもあの少女にとっても、有益なものだったに違いない。
「……最初に言うべきだったな。チビが俺の為にしてくれたのは分かってる、って」
 ――口にはしないが、その気持ちが嬉しかったんだ。
「それに、店長のことなら別にどうってことないから。いつきは、俺のために店に出てくれてるんだ。俺が責任取るのは当たり前だろ」
 だから厳しく言ったのだ。いつきは『ただの代理』ではない、店に有益な頑張り屋だと、皆に認められてほしいと思ったから。
 口元を緩めて、ミカはいつきの肩に手を置いた。
「あの子が待ってるぞ、そろそろ戻ろう。泣くなよ。泣いた顔でお客の前に出るのか?」
 とまで告げて、コホンと空咳してミカは続けたのである。
「……さっきの接客、気になるところを除けばよく出来てたぞ。もうちょっとやり方を洗練させれば、いつきは結構有能なショップ店員になれると思うな、俺は」
 いつきは顔を伏せ、ふうーっと息を吐き出した。目を閉じてこらえる。涙がこぼれないように。
 ――最初はミカのためだったけど、今は『仕事』ができるようになりたいんだ。
 だから単に慰められるより、厳しくとも励まされるほうが、嬉しい。
「やります、先輩!」
 気持ちが収まると、いつきの顔には笑みが戻っていた。
 雲間から青い空がのぞいたような笑みだった。



 ぼわっとした髪型のやつだった。
 ぼわっと、と言うと失礼な気もするが、まあ『ソバージュ』とかなんとかと表現するよりは、なんとなくそう呼ぶほうがしっくりくるように思う。これは、悪意ではなく。
 そのぼわっと頭が、柱に背を預けて言ったのだ。
「悪ぃ、ハルト呼んでくれねぇ?」
「いいよ」
 教室の入り口で声を掛けられたテオドア・バークリーは、
「ちょっと待ってて……」
 と告げ、振り返ってハルトに呼びかける。
「ハルト! 呼ばれてるぞ!」
「おう! 2秒で行く」
 などと言いつつハルトが教室から出てきたのは、たっぷり1分は経ってからだった。まあハルトなら、「誤差の範囲だな」と笑い飛ばしそうな程度のタイムラグではあるのだけれど。
 入れ替わるようにしてテオドアは自席に戻り、ぼんやりとハルトが、その友人と談笑しているのを眺めた。
 何をしゃべっているのかはわからないが楽しげな雰囲気だ。だんだん熱がこもってきたのか早口になっているようだった。ときおり、どっと爆笑していた。
 ほとんどの生徒にとってはランチが終わったばかりの頃合いなので、教室内にはほんわりと、パンやソース、海苔の残り香が漂っているような気がした。机に突っ伏して寝ているやつがいる。スマホの小さな画面を、黒い頭を寄せ合ってのぞき込んでいる集団がある。眼鏡の位置を直し、ヘッドホンをはめたまま音楽雑誌を読んでいるやつも。
 やがてハルトは戻ってきて、ガラッと椅子を引きテオドアと向かい合うように腰を下ろした。背もたれに両肘を乗せる格好だ。
「悪い悪い、待たせちゃったか?」
「別に……待ってないけど」
 言いながらテオドアは、首をめぐらせ壁時計に目をやる。まだ昼休みは半時間ほど残っている。
 視線を外したと思われなければいいけど――ふと思った。拗ねて目をそらしたのだと誤解されたら、ちょっと嫌だ。
 けれどもハルトは頓着する様子もなく、それでさあ、と白い歯を見せて笑った。
「カラオケ、今月は優勝者にはC組のきーやんがメンチカツ奢りだってさ! 俺ぜってー勝つからその時は行こうぜテオ君!」
「きーやん?」
「テオ君も知ってるだろ? さっきのやつだよ」
「……ああ、確かに言われてみれば」
 髪型が変わっていたから気がつかなかった。ハルトの友達の一人だ。顔と名前だけはなんとなく覚えている。ちょっと前まであの彼は、肩まで伸ばしたさらさらのロン毛だったはずだ。
「きーやんの実家はなんと、肉屋なんだぜ!」
 きらきらっと眩しいくらいにハルトは目を輝かせるのだ。でも実家が肉屋というのは、『なんと』と形容するほどの話だろうか。
「ハルって、さっきのやつとなんか毎月カラオケやってるよな」
「そういやそうかもなあ。きーやんとユキちゃんとケンと……カラオケは、だいたいそのメンバーかな」
 カラオケ『は』だいたいそのメンバーなのだろう、テオドアは知っている。
 ハルトには、連れだって遊ぶ友人が何人もいる。正しくは何組も、か。ストリートバスケをやるチーム、ゲーセンに行くときのグループ、映画鑑賞に連れ立っていく仲間……他にも、たくさん。テオドアには把握しきれないほどだ。ケーキバイキング同好会というのもあった気がする。
 一度、ハルトのスマホのアドレス帳を見せてもらったことがある。それこそ、『びっしり』と表現するほかないほどにたくさんの名前が並んでいたものだ。
 ――ハルの交友範囲って本当に広い。
 角の丸くなった机にテオドアは頬杖をつく。
 ハルは優しいから……誰にでも好かれて、慕われて、頼られるんだろう。
 自分では絶対に真似できないだけに、正直羨ましいと思う――。
「俺が誰にでも優しいって? まっさかー!」
 急にハルトが声を上げたので、テオドアは思わず身を起こした。
 ――やばい、まさか一部声に出てた……?
 どうもそうらしい。
 ハルトはニヤっと口の端を上げて、
「つーか、実際に優しいのはテオ君の方だと思うけどな」
 と自分も両手で頬杖して、顔をテオドアに近づける。そのするりとしたしなやかな動きは、どことなくフェレットを思わせた。
「それどういう意味?」
 テオドアは無意識的に椅子を少し後方に傾けていた。
 わかってるって、と言うようにハルトは笑う。さっきまでガムでも噛んでいたのだろうか、間近くなったハルトからは、ほんのりとミントの香りがする。
「俺が色々引き受けすぎてないか心配してくれたんでしょー?」
 じっと向けてくる翡翠色の瞳から目が離せず、テオドアはただ瞬きするだけだった。
「大丈夫だって。……俺はねー、結構欲張りだから自分のやりたいこと全部やってるだけ。ヤなことはちゃんとヤダって言うし!」
 テオドアは何も言い返せず、イエスともノーともとれる曖昧な声を出した。
 それを肯定的な意味にとったのだろう、ハルトは笑みを3割増しにして、
「もしテオ君に『別れてくれ』って頼まれたりしたら、俺そのときは全力で駄々こねて逃げ回る自信あるし!」
 今のハルトの表情、なにかに似てる――すぐにテオドアは思い至った。
 遊んで、と言うように猛ダッシュしてくる子猫の、わくわくと期待に満ちた顔に似ている。
 そんな顔をされて、無視するわけにはいかないじゃないか。
 なのでテオドアはおずおずとながら、ハルトの瞳に吸い込まれるようにやや前傾姿勢で、
「大丈夫だ、言わない……」
 ぽつりとそこまで告げたところで、はっと我に返って言葉を重ねた。
「っていうかそもそも付き合ってないし!」
 なに言わせんだよ! と、テオドアは両手を伸ばしハルトを押すのだ。
 気がついたら、ハルのペースに乗せられている。
 ……もしかして頬、紅くなってなかっただろうか?
 押されてもハルトはいたって平気で、腕組みをして笑っていた。
「そーか、それは残念だ」
 なにが残念なんだよ、とまで突っ込む大胆さはテオドアにはない。かわりに言った。
「今までハルが頼みごとを断ってるところ見たことないのって、ハルが優しくて全部引き受けてるからだと思ってた」
「そりゃ全然違う、俺が移り気なだけだな。広く浅く、が俺のモットーなの」
 軽薄に響きがちなこの言葉も、ハルトが口にするとそう聞こえない。むしろ、人生を楽しむ秘訣のように聞こえるのだ。
 一拍おいてハルトは続ける。
「けど俺、一途なところもあるんだぜ」
 そしてまた、ニヤリだ。
 なにか上手く返したいとは思うものの、テオドアにはいい言葉が思いつかない、だから生返事のように、
「ああ、そう」
 と言うばかりだ。なぜか少し悔しかった。
 テオドアもなんとなく腕組みしていた。なのでハルトとテオドアは、学校の机を挟み腕組みしたまま向かい合う姿勢となる。
 わずかに無言になるも、すぐにそれは破られる。
 クラッカーが割れるようにして、吹き出したのはハルトだった。
「俺たち、にらめっこしてるみたいだな」
「してないよ!」
「じゃあ、問題を抱えた夫婦」
「問題なんて抱えてない……じゃなく、そういうたとえはやめろって!」
 あはははとハルトは膝を手で打った。
「冗談冗談……というわけで!」
 ふと口を閉ざしてまた開いたとき、ハルトからはもう、悪童のような笑いは消えていた。
 そして、どきりとするほど大人っぽく、優しげに微笑んで彼は言うのだ。
「すぐにとは言わないけど、いつか俺のやってることとか言葉を、テオ君が素直に受け取ってくれたりしたらいいなー……とか思ってるハルト君なのでしたー」
 中盤から後半にかけクレッシェンドがかかったように、なだらかに口調は元に戻っていって、言い切ったときにはもう、おちゃらけたような顔と口調に戻っていたのだけれど。
 胸の前で組んでいた腕を解き、静かにテオドアは息を吐き出した。
 溜息ではない。胸の奥にわだかまっていたものが、少しほぐれたように感じている。
 ――ハル自身も『いつか』って言ってるあたり、分かってるとは思うけど……。
「そうなるまで時間はものすごくかかると思う、けど努力はしてみるよ」
「それでいいよ。いや、むしろそれがテオ君らしくていいと思うな」
 待つのは得意なんだ、とハルトは言った。
「俺、気の長いほうだから」
 やっぱり優しいよね、ハルは――テオドアは思う。
 今度は口から漏れないよう、気をつけて心中呟いた。
 俺もしかして、ハルに甘えているのかな――。
 その気持ちは秘めたまま、テオドアは口を開いた。
「ところでそのメンチカツ……」
「うん?」
「カレー味ってあるの?」
「もちろん!」
 嬉しげにハルトはうなずく。
「俺カレー味がいいな。……だから頑張って」
「任せとけ!」
 するともっともっと嬉しげに、ハルトはもう一度大きくうなずいたのだった。


● 
 終業時間を知らせるチャイムを聞いたのは、いつだったかもう思い出せない。
 施錠を頼む係長の遠慮がちな声に、それなりに愛想良く返事した記憶ならある。けれどそれも正確な時刻は不明だ。
 リターンキーを叩き文書保存してパソコンから顔を上げ、楼城 簾がふと見回すと、周囲には誰の姿もなかった。
 全員帰宅したらしい。どのチェアにも人は座っていない。
 窓の外に林立するビルを見ても、電気が灯っている窓はわずかだ。
 腕時計に目を落とすとタイムトラベラーにでもなった気がした。
 うんと伸びをしてみる。簾の肩や腕の関節がばきばきと音を立てた。
 がらんとしたオフィスは、日中は常にざわついているだけにやけに静かだ。
 間近に気配を感じ簾は流し目する。視線の先に、ワイシャツ姿の白王 紅竜が立っている。直立したまま盆を水平に持っていた。盆の上では、黒いティーカップが湯気を上げていた。
 鋭い簾の視線と、奥目がちで深い紅竜の視線が、一瞬、混じり合った。
「珍しいね」
 という簾の言葉に直接答えず、
「ミルクも砂糖もなし、だったな」
 紅竜はソーサに乗ったカップを、簾の斜め前に置く。カチャリと幽かな音が立った。
 珈琲だ。丸いカップの内側は深い井戸のように、都会の夜よりなお濃い黒をしている。薫りからすると、インスタントではなくちゃんと豆を挽いて淹れたもののようだ。
「ありがとう」
 どういたしまして、というかわりに、そっと紅竜は簾から離れた。
 紅竜が両脚を揃えたときにはもう、簾は「いただくよ」と告げてカップを傾けている。
 簾はカップに唇で触れ、珈琲を口に含んだ。とてつもなく熱いが、その熱が心地いい。熱さに負けぬ強い味なのも嬉しかった。
 ゆっくりと四肢に熱と苦みが広がっていく。軽くローストした香りもあいまってか、日食時の黒い太陽の欠片を、砕いて溶かしたもののように感じた。
 紅竜は微動だにせず、簾を見守っている。
 紅い目は、簾の喉に注視したまま動かせない。
 珈琲を飲むとき、わずかに動く簾の喉……ぞくぞくするほどに艶めかしい光景だと思う。けれども簾の仕事の邪魔はしたくなかった。だから紅竜は気配を殺し、電源を落としたコピー機のように沈黙するのである。
 まもなくして簾の仕事は終わった。
「おかげではかどったよ」
 呟くように言い、簾はノートパソコンを二つ折りにする。これで明日朝のプレゼンの準備は完璧だ。社長である父はもちろん、重役連の驚く顔が目に浮かぶようだ。ライバル会社の息がかかっているという噂のある部長も、これには困り果ててしまうに違いない。真似しようとしても、とてもではないができぬほど高度にして大胆な内容なのだから。
 ほっと息をついて簾は珈琲の残りをあおった。まだ温かかった。本当に美味い。
 立ち上がって振り向いたとき、簾は刹那、言葉を失った。
「!?」
 強い力を両肩に受けたから。
 簾は、自分の机に押し倒されていた。
 同時に唇を奪われていた。強引に押し当てられた唇の間から、ぬるりと舌が割り込んでくる。舌は簾の口をなんなく割って、前歯をノックしてその先に押し入る。とろりとした、痺れるような甘みがあふれだし、たちまちにして簾から、抵抗しようという気は消え失せていた。しばらく身を任せ、舌が暴れるに任せた。
 唇が離れたとき、ようやくしっかりと確認する。間違いない。彼にのしかかっているのは紅竜だ。
 紅竜にこれでやめる気はないらしい。腰に回された手がせわしなく動いている。かかる息が熱い。それなのに紅竜は、氷のように落ち着いた声で、
「ご褒美だ」
 と簾の耳に囁いていた。
「ここには私たちしかいない」
 そうして紅竜は、いささか乱暴に簾のネクタイの結び目を解きはじめる。
 夢の中で溺れているような気持ちで、簾は彼の背中に腕を回していた。このまま窒息してもいいとすら思った。
 このとき、溺れているような錯覚にとらわれているのは簾だけではなかった。
 ――何故だ。
 紅竜は自分のやっていることが理解できない。
 ――何故私はこんなことを……!
 それまでは、黙って簾の仕事ぶりを眺めることができればそれでよかった。
 仕事が終わったら、彼をいたわりつつともに帰路につこう、その程度に考えていたはずだ。
 なのに今、自分はまるで獣のように、簾に飛びかかり彼をむさぼっている。
 そうだ。まさしく獣だ。むき出しの欲望。
「簾さんがいけないんだ」
 やぶれかぶれになったかのように、紅竜はそんなことを口走っている。
「そんなにも魅力的だから……!」
 悪いのは自分だ、という念があるからか、紅竜の語尾は少し言い訳じみていた。
 せめて仕事が終わるまで待っていただけでも、理性的だったかもしれない――そんなことを紅竜は思った。
 か細く、切ない声を簾が上げた。
 さっきまで簾が操作していたパソコンの上に、高級ブランドのワイシャツが、飛び疲れた蝶のように舞い降りた。

 ……目が覚めた。
 体がだるい。
 けれどもずっと感じていた頭痛は消えて、ようやく頭が軽くなったように思う。
 簾は薄目を開けた。
 掛け布団が乗せられている。ベッド脇に目を向けると、そこに置かれた丸椅子に、足を組み腕も組んで座っているのは紅竜のようだ。
 枕元を探って眼鏡を取り、はっきりした視界で観察すると、紅竜が眠っているのがわかった。
 そうか、と簾は深く息を吐き出した。
 昨日簾は風邪を引いて倒れ、紅竜に看病されたのだった。
 ――だからあんな夢を……。
 生々しい夢であったと思う。今でも紅竜の舌の感触が、ありありと思い出されるようだ。
 って、待て!
 思わず声が漏れそうになり、彼は手を口に当てている。
 ――その考え方だと、僕がそう望んでいたということにならないか!?
 発熱すると奇妙な夢を見がちだ。それはたいてい悪夢なのだが、どう説明したらいいのかわからないたぐいの夢もある。今のはきっと後者だ。そうに違いない。悪夢と呼ぶのは……なんとなく気が引けた。誰に気兼ねすべきかは、ともかくとして。
 このときぴくりと紅竜が動いたので、簾は素早く眼鏡を戻し、枕に頭を横たえて目を閉じた。
「う……」
 紅竜の口から声が出る。
 どうやら眠っていたらしい――紅竜は目を開けると立ち上がった。
 座ったまま寝たせいで体の節々が痛む。手でほぐしながら、紅竜は今見た夢を思い出していた。
 ――なんて夢だ。
 恥ずかしくて顔が赤らみそうだ。
 たとえ夢であっても、こんな夢はあってはならない。あまりに不道徳で、あまりに、冒涜的だ。
 早く平静を取り戻さねば、と思う。彼に気づかれてはならない。
「そうだ彼……簾さんは?」
 ベッドに目を向けると、簾は安らかに寝息を立てている。
 夢の直後でためらわれたが、現実は別、と己に言い聞かせて紅竜は手を伸ばし、精巧な硝子細工を扱うような手つきで、そっと簾の額に触れた。
 良かった。紅竜は胸をなで下ろした。熱はすっかり下がっている。冷たいくらいだ。
 温かくて堅い手に触れられて、簾の爪先は、ベッドの中でぴんと伸びた。
 ふわふわするのに、胸が締めつけられる。どうしよう――。
 これでも我慢しろ、寝たふりを続けろ、というのは難題だ……。もぞもぞと動いてしまう。
「ああ、起きたのか。起こしてしまったのなら、すまない」
 紅竜に呼ばれて、観念したように簾は目を開いた。そんな簾に、
「おはよう」
 と言うと、紅竜は意識して、なんとか微笑らしきものを形作った。偽りのない気持ちなのだが、顔の筋肉を心にシンクロさせるには、もう少し練習が必要なようだ。
 けれどその微笑で十分だ。
 簾はどぎまぎしてしまって、紅竜と目を合わせられない。
 ――そこで微笑は反則だ。
 どんな顔をすればいいのか、困る。許されるのなら少女のように、掛け布団に顔をうずめてしまいたかった。
 それでも、
「おはよう」
 とはなんとか返したものの、眼鏡をかけるのは、もう少し落ち着いてからにしようと簾は思う。
 情熱的で、優しかった夢の中での紅竜。
 今の、硬質だけどやはり優しい紅竜。
 いずれも、悪くないなどと簾は思ってしまう。きっと、こうした思考が浮かぶのは病み上がりのせいだろう。頭がまだ本調子ではないのだ。そうに違いない。
 眠っているときはまだ白かったのに、みるみる色づいていく簾の顔を紅竜は眺める。どうやら、微笑しようと努力したのが奏功したようだ。わかりやすいことだ。
 だからだろうな、と紅竜は結論づける。
 だから、あんな夢を見てしまったのだ。
「……本当に仕方ないな」
「なにか言ったか?」
「いや、まずは体温を測ろう。体温計を持ってくるから待っているように」
 戸棚を開け体温計を探しながら、紅竜は心の中で繰り返すのである。
 ――本当に仕方ないな。お前も、私も。



 凪いだ海をゆく小舟のような、静謐な音楽が流れている。
 ごくまれに小さなノイズが入るのは、これがデジタル機器ではなく、アナログの蓄音機から流れる音だからだ。けれどもそれすら、この格調高い部屋の空気を構成する一要素のように思える。
 奏でられる楽器はピアノだけ。ゴールドベルク変奏曲だ。それも、60年以上前に発売された名盤によるものである。
 カイエル・シェナーは静かにナイフを動かし、血の滴るような肉を小さく切り取った。これをフォークで口に運ぶ。
 ステーキは冷め切っていた。
「肉が冷えていて、すまない」
「……いえ」
「権謀渦巻く世界に生き過ぎたせいだな。俺は、十分に毒味のされたものしか食べられなくなってしまった」
「気になされぬよう。これで結構」
 今、十人は座れそうな長方形のテーブルに着いているのは二人だけだ。
 カイエルと、その実の兄、イヴァエル。
 黄金の髪、透き通るように蒼い眼をしたカイエルと、闇色の髪、熾火のような眼をしたイヴァエルとは、太陽と月のように対称的だ。それでも、流麗な目鼻立ちには通底するものがあった。
 このところカイエルが、兄の屋敷の夕食に招かれる頻度は高くなっていた。今宵もやはり、前日に連絡を受けて馳せ参じたのだった。
 二人はテーブルの両端にいる。
 兄弟を照らすのは、テーブル中央に置かれた銀の燭台である。風はないはずなのに時折、蝋燭の光がゆらぐのは何故なのか。灯がゆらぐと兄と弟の影も、揺れる。
 イヴァエルがぽつぽつと問いを発すれば、カイエルがぽつぽつと答えた。
 食事の間は、そんな会話が途切れ途切れ続いた。もっとも、カイエルから話しかけることはほとんどないため、それを『会話』と呼ぶかどうかは、いささか解釈の分かれるところであろうが。
 食事の皿が下げられると、イヴァエルは弟にワインを勧めた。
「今日はこのくらいで……」
 あまり気乗りしない様子の弟に、足元にすり寄る黒猫のような口調でイヴァエルは言う。
「どうした? 酒に弱くなったのではないか?」
「そんなことは……」
 とカイエルは言ってしまう。兄を失望させること、それはカイエルにとっては罪に等しい。根拠もなく突っ撥ねるという選択肢は、彼にはなかった。
 大ぶりのグラスに注がれた赤い葡萄酒を、ほとんど一息にカイエルは干した。舌の裏にぴりっとした刺激を感じたものの、これもワインの味だろうと自分に言い聞かせる。
 けれど椅子から立ち上がったとき、彼はその楽観的すぎる期待が、紙のように破れるのを知ったのだった。
 ――やはりか!
 視界が歪む。頭と体が重い。ぐらりと首を巡らすも、自分の意識と体の動きにあきらかな時間差があった。
「やはり酒に弱くなったようだな、カイエル?」
 見ればイヴァエルは、ワインには一口もつけていないではないか。
「違……う、これは……」
「権謀渦巻く世界に生き過ぎたせいで、薬物には詳しくなってな」
 軽く笑い声を立てると、イヴァエルはカイエルに歩み寄り、その体を支えた。
 イヴァエルに言い含められているのだろう。食事中、皿を交換するなどして立ち働いていた使用人たちは誰も姿を見せない。

 カイエルは自分の体が、ソファーに横たえられたのを知った。
 とてもやわらかい。そのまま体が、沈み込んで行くかのようだ。
 気怠げに顔を上げて、すぐ隣に、兄が腰を下ろしていることを知った。
 イヴァエルは、弟の顔をのぞき込んで問う。長く黒い髪が垂れて、カイエルの体にかかった。
「気分が悪いか?」
 カイエルはゆっくりと首を振った。今はむしろ、ふわふわと浮き上がりそうな気持ちですらある。
「息苦しくはないか?」
「……少し」
 そうだろう、とイヴァエルはくすりと微笑んでカイエルの襟に手を伸ばし、人形の服を脱がすようにしてそのネクタイを緩め首元のボタンを外した。
 ――可愛らしいものだ。
 ふふっと声に出して笑う。カイエルの黄金の睫毛がかすかに震える様子、いやいやをする幼子のように身をよじるところ、そのすべてがたまらなく可愛い。
 その一方で、
「……潰れた人間の顔を見ても、楽しくないのでは?」
 と言う、明らかに敵意の籠もったカイエルの眼差しも、イヴァエルには身が震えるほど愛おしいのである。
「楽しくない? まさか」
 イヴァエルはその掌を、カイエルの心臓の位置に置いた。
「こうして見られることは幸福だ」
 カイエルは知っている。兄の言葉に、一厘の嘘偽りもないということを。もうずっと前から、ひょっとしたら生まれる前、母の胎内にいたときから知っていたような気がする。
 ある意味、兄イヴァエル以上に真摯な者もいないのではないか。彼はいつだって、カイエルのことを考えてくれていた。我が子の傷口をいつまでも舐め続ける母猫のようにカイエルを甘やかし、慈しみ、そして精神的に支配していた。あまりなかったことだがカイエルが反抗しようとも、イヴァエルはそれすら、嬉しげに受け止めてきたのである。
 光が遮られた。日食のように、イヴァエルがカイエルの体の左右に両腕をつき、覆い被さるような姿勢になったのだ。
「どうして俺から逃れようとする?」
「そんなことは……ない」
 そのつもりだ。だからこそカイエルは、イヴァエルからの夕食の誘いにはいつも万難を排して応じてきたし、今だって、罠と知りつつワインを口にした。
「いいや。違う」
 イヴァエルは手で、カイエルの白い頬に触れる。
「カイ……そばに……お前は、ただ俺のそばにいればいい」
 ルビーのようなイヴァエルの目が歪んだ。笑みのようでも、泣き顔のようでもある目だった。
 ――ああ……。
 カイエルの意識は白みはじめる。
 カイエルは兄のことが、好きだ。尊敬もしている。
 本人が詳しく語ったことはないが、イヴァエルが養子に出された先で、泥溜まりにできた轍に血が溜まるがごとき権力争いに巻き込まれてきたこと、そして、満身創痍になりながらそのいずれにも勝ち抜いてきたことをカイエルは知っていた。
 彼は数限りなく裏切られてきたことだろう。そして彼も同様に、数限りなく裏切りを重ねてきたことだろう。そのような状況、自分にはこなせないという自信がある。
 そんな血まみれの身ながら、イヴァエルはいつだってカイエルを大切にしてくれる。心から、愛してくれている。
 いっそ、兄様に身を任せてしまえばどれほど楽か――。
 兄の言葉はとても優しい。このまま彼に従い、お姫様のように扱われる生涯を送るのも、そう悪いものではないかもしれない。
 ――けれど。
 カイエルは目の縁に、熱いものがあふれそうになるのをこらえた。
 けれど兄は……恐ろしい。
 イヴァエルの優しさは、但し書きを付けたい性質のもの、いわば『優しさ』とでも表現すべきものである。
 彼の甘い言葉も、温かさも心遣いもすべて、『優しい』ものである一方、恐ろしいものでもあった。
 今、カイエルが肚の底から感じている震えは、間違いなく恐怖に由来するものだ。
 すべてを彼に許せば、カイエルに残るものはひとつとてあるまい。
「もう一度、呼んでくれ……昔のように」
 慈愛に満ちた口調でイヴァエルが求める。いま、彼の顔は、舌を伸ばせばカイエルに届くほど間近だ。
「呼んでくれ。そう、『にいさま』ではなく……昔のように」
 砂漠で水を求める旅人のように、イヴァエルは言葉をカイエルに求めた。
 恐い。
 恐い。
 いつだって守ってくれる彼が恐い。愛されていることが、恐い!
 それでも――。
 カイエルは瞼を閉じ、開いた。
 それでも、たいせつな兄だから……。
 震える唇で言葉を紡いだ。
「あに、さま……」
 たとえこのとき、イヴァエルに縊り殺されたとしてもカイエルは恨まないだろう。
 けれども、縊り殺されることそのものは、やはり恐かった。
 背筋が冷えた。
 イヴァエルの赤い瞳に、自分の姿が映り込んでいる。
 カイエルは自覚した。今、自分は笑顔を浮かべようとしながら、何かを覚悟したような、強張った表情でいる……!
 それまで感じていた浮遊感がたちまち消えた。意識が、石のように堕ちてゆく。
 ソファーの上にいるはずなのに、地の底まで墜落するように感じ、必死でカイエルは手を伸ばしていた。そして無我夢中で、イヴァエルの服を強くつかんでいたのだった。
「カイ……!」
 イヴァエルは、弟が気を失うのを見た。
 すでにカイエルの手は力をなくし、落雪のごとく滑り落ちている。
 カイエルは、死美人のように目を閉じていた。額や首筋に汗が浮いていた。
 彼の手に、イヴァエルは自分の手を重ねた。
 ――優しい言葉を掛けても、弟はそれが『優しくない』事に気付いている。
 イヴァエルは唇を噛む。血が滲むほどに。
 それでもなお、こちらを思い疑わない『愚直なまでに、優しい』弟に俺はつけ入った――。
 己の卑怯さは、イヴァエル自身が一番知っていた。
 だが卑怯、あるいは奸邪の誹りを受けようと、それがどうしたと一笑に付すことのできるだけの靱(つよ)さがイヴァエルにはある。そうでなければ生き抜けぬ世界を彼は生きてきたのだ。
 もう片方の手も出し、イヴァエルは弟の手を包み込むようにした。
 そこまでして、ようやく取り戻せたこの手だから――。
 イヴァエルは誓う。
 もう放さない、絶対に。



 このときどこか、誰も知らない場所で、禍(わざわい)の種子はその萌芽を迎えることなくひっそりと消滅している。



依頼結果:成功
MVP
名前:カイエル・シェナー
呼び名:カイエル/カイ
  名前:イヴァエル
呼び名:イヴァエル/兄様

 

メモリアルピンナップ


エピソード情報

マスター 桂木京介
エピソードの種類 ハピネスエピソード
男性用or女性用 男性のみ
エピソードジャンル ハートフル
エピソードタイプ EX
エピソードモード ビギナー
シンパシー 使用可
難易度 とても簡単
参加費 1,500ハートコイン
参加人数 4 / 2 ~ 4
報酬 なし
リリース日 11月22日
出発日 11月29日 00:00
予定納品日 12月09日

参加者

会議室


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