プロローグ
頬が濡れていた――。
あなたは普段、寝付きがいいほうで、一度眠りに就けばそれこそ、地震が起きたって目覚めない。
しかも朝が弱く、五分でも一分でもながく、寝床にいたいと願うタイプだ。
ところが今朝に限って、まだ空が薄暗い時間帯だというのに目が覚めた。
しばらく目を閉じ、何度か寝返りをうってみるものの無意味で、もういいかと思って半身を起こす。
自分の頬が濡れていることに気がついたのはそのときだ。
あなたは泣いていたのだ。目を閉じたままで。
夢を見ていたと思う。蜃気楼のようにぼんやりとゆらぐ記憶がある。
――そうだ、悲しい夢を見ていた。
それがどんな夢だったか、どうしても思い出せないのだけど。悲しかった、とても。
完全に頭がはっきりしてしまい、もう二度寝はできそうもない。あなたは目を拭い上着を羽織ると、なんとなく早朝の屋外に出ていた。
霜月の早朝はとても冷える。けれどもそれは冴え冴えとした冷たさ、どこか心地よい凍えだった。
なんとなく足が向いた先は街の片隅の小川だ。日中はぽつぽつとながら人の往来があるこの場所も、さすがにいまは猫の子の気配すらない。橋の欄干に両肘を置き、鏡のような川面に視線を落とす。
まだ悲しい気分が残っている。
最近嫌なことがあったとか疲れているとか、そんな理由はさしあたってないのに、なぜだろう、自分の中にいる幼い子どもが、膝を抱えて下を向いているような気がしてならなかった。
「お……どうした?」
振り向くと、そこに彼の姿があった。寝間着の上に綿入れを羽織っただけの姿で、ひょいと片手を上げる。
「お前も朝の散歩か? 気分がいいんだよな、この時分の早朝ってさ。冬だと寒すぎるし、もうちょっと時期が早いとこんどはもう明るすぎるし……」
あなたの表情に気がついたのだろう。彼の口角は下がって、けれども頬でまだ笑おうとしていて……そんな複雑な表情を保ったまま、彼はあなたの隣に立ち、やはり川に視線を向けた。
「ひとりになりたいんなら、これで帰るけどさ」
眼差しだけは、ずっと優しいままだった。
「その……この時間でもやってるカフェがあるんだ。よければ、ちょっと珈琲でも飲んでいかないか」
おごるよ、と彼は告げて顔を上げた。
「ありがとう」
あなたの悲しみは、音を立てず溶けるように消えた気がする。
「でも、こんな服装で入って大丈夫なの? その店?」
もちろん! と彼は断言した。
********
「あのこれ……自動販売機って、言わない?」
「そうだよ。文明の利器。またの名を、24時間オープンのカフェ!」
手渡された缶コーヒーは、温かいを通り越して熱いくらいだ。
新聞配達だろうか、どこか遠くから、バイクのモーター音が聞こえる。
……というのはもちろん、あくまで一例だ。
朝、それも、うんと早い時間帯。もうじき冬のこの季節の。
あなたはふと目が覚めてしまったのだろうか? それとも日課の、早朝ジョギングのためにスニーカー姿でドアを開けたのだろうか。
徹夜明けのふらつく頭で、冷蔵庫から牛乳を取り出したところかもしれない。
その牛乳がなくて、誰か届けてくれまいか、諦めて買いに行こうか、とぼんやり考えているところかも。
久々のデートというのを意識しすぎて、もう起きてしまい待ち合わせ場所の下見に出たとか、稽古着姿で朝の神社に入ったとか、色々なシチュエーションがあるだろう。
彼の都合も様々だろう。彼はあなたにつきあわされてぶうぶう言っている? 偶然出くわして驚いている? それとも、早朝のメールに飛び起きて、忠犬のように着替えて出てきたか?
少しだけ特別な、あなたと彼の明け方の物語を紡ごう。
解説
早朝に目が覚めた、早朝まで起きていた、いずれでも構いません。
冬寸前ながら冬ではなく、かといって秋というには少し遠い気がする、そんなこの時期の早朝の、ほんの小さな場面を描きます。
時間帯が『早朝』という一点のほかは、まったく制約のない自由なお話にしたいと思っております。
張り切って冬支度するでもよし、寝ぼけ眼をこすりながら、お弁当の準備をするもよし、徹夜明けでハイになっている愉快な話でもいいですね。もう何も思いつかない、というのであれば、コンビニにお買い物に行くだけという話だって、特別な思い出に変わるかもしれません。
コメディでもロマンスでも、できるだけ対応させて頂きます。
なお、アクションプランに合わせて300から500ジェールくらいを消費しますのでご了承ください。
●ギルティ・シードについて
このエピソードは、ギルティ・シードを枯らすことをもうひとつのテーマにしています。
ギルティ・シードとは人々の負の感情を高め、オーガ化させるという危険な種です。これはウィンクルムの愛の力で枯らすことができるとされており、このエピソードでもそれは可能です。
といっても特にそのことを意識する必要はありません。おふたりがいい時間を送ることができれば、それで自然と枯れてしまうのですから。
種がどこにあるのかといった具体的な情報は、特にご希望がない限り描写しないと思います。
ですのでどうぞ、このテーマに縛られず自由にお過ごし下さいませ。
ゲームマスターより
ここまで読んで下さりありがとうございます!
寝起きは大変悪い方なのですが、たまに、わけもなく早朝に目が覚めることがあります。桂木京介です。
晩秋の早朝という状況で、イベント絡みでもあるハピネスエピソードです。
とはいえ指定しているのは時間帯くらいなので、あとは自由に想像の翼を広げてみてください。私はマスターとして、その想像を膨らませてみたいと思っています。
特殊な話も歓迎、日常のほのぼの話だってウェルカムです。あなたと彼らしいプランをお待ちしております。どんなお話が来るのか、わくわくしながら待ってますよー。
それでは、次はリザルトノベルでお目にかかりましょう! 桂木京介でした。
リザルトノベル
◆アクション・プラン
月野 輝(アルベルト)
目覚ましの音で目を覚まし、急いでベルを止める 外はまだ暗い時間 アルを起こさないようにそっとキッチンへ 一緒に暮らし始めてまだ数日 アルの朝食が簡素な物が多いって気がついたから ちょっと頑張って朝食を作ってみようかなって お米をといで炊飯器のスイッチをオン お味噌汁用のネギとお豆腐を用意して…おかずは卵焼きがいいかしら 冷蔵庫を見ながら考える アルの驚いた顔が見えた気がしてちょっと笑ったら 声が聞こえてもの凄く驚いちゃったわ ごめんなさい、起こした? え?ええ、大丈夫だけど 誕生日に貰ったコートを着て 連れて行かれたのはマンションの屋上 すごい…朝日がとても綺麗に見えるのね 寄り添って暖を取りながら また一緒に見ましょって約束 |
日向 悠夜(降矢 弓弦)
◆縁側で猫を見る えへへ…弓弦さんに会いたくってきちゃった おじゃましまーす! 久しぶりに会った友達とね楽しくってね こんな時間まで呑んじゃってね ふふふっ!私なんで来てるんだろうね!あはは! 怒られたら、弓弦さんに怒らないでっていうよ 弓弦さんに怒られちゃったらね、私どうしたらいいのか分からなくなっちゃう ごめんね、でもどうしても会いたかったの 友達のね町がねオーガに襲われたんだって 大丈夫だったけど、私ウィンクルムなのに 友達が困ってたのに何もできなくってね 悲しくってね 弓弦さんに会いたくなったの ◆船を漕ぐ お布団あったかい…弓弦さんのにおいがする 弓弦さん…手握ってくれる? ●笑い上戸 弓弦の言う事は素直にきく 言動幼め |
御神 聖(御神 勇)
「しかし、今日、お弁当の日だったの忘れたのは迂闊だった…」 勇の小学校は給食なんだけど、給食室の工事だかの関係で今日はないからお弁当だったんだよね(ふっ) 24時間営業のスーパーは助かる…。 「忘れたママが悪いから、好きなおかずひとつだけ作るよ。何がいい?」 鶏の唐揚ね。 それならおにぎりに玉子焼き、ポテトサラダ、と頭の中で献立立てて、と。 朝食のデザートに林檎でも買っていくかな。お弁当にも入れられるし。 (何と言うか、我が息子ながら営業活動に熱心だ…) 他の男より可能性はあるだろうけどね、普通にいい男だし。 とりあえず、 「あんま噂するとくしゃみ連発するからその辺にしとこう。今大事なのは、朝食と勇のお弁当だよ」 |
時杜 一花(ヒンメル・リカード)
開店前の家の前の掃除 順番制 …ヒンメルさん? 不意の遭遇にぽかんと あ、おはよう 挨拶忘れに気づき慌てて挨拶 ええ、掃除 そんな事ないわ。誰かがやらなくちゃいけない事だし… 思いがけず褒められ照れ話逸し えっと、ヒンメルさんはこれから学校? いってない?と頭にはてな 見た目通りの年でないのか、それともまた別の事情があるのか こういうのって突っ込んで聞いてもいいのものなのかしら… 聞きあぐね悩み 去っていく背中見送りながら ヒンメルさんて、謎だわ… 考え事に夢中で気配気付かず驚き …いいの?ありがとう、嬉しい すっかり指先も冷えてしまっていたので有難く受取る じゃあ…コーヒーを …もうちょっと、知りたいかも だ、だって気になるんだもの |
アンジェリカ・リリーホワイト(真神)
…暗い地下に入れられて、じっと息を潜めていなさい、と言われる 後は物が壊れる音、『何か』が壊れる音… ただ、音を聞かされる夢 音がしなくなった所で目が覚める あぁ…今日は、何時もより少し早い… 大きな都市に来ると、24時間やってるお店があるらしい 何もなかった山村に居た頃は大違いな生活 …今日みたいに早く目が覚めてしまった時は、助かる 朝ごはんにサンドイッチを買って出ると、雪さまがいた 「…おはよう、ございます」 ごめん、なさい…街中も絶対安全とは言えなくなったから… 荷物取られて少し呆然するも この不器用な優しさにほっとする 今は話せない、夢の内容をその内話そう この方対して恐れる事はないのだから はい、買ってありますよ |
暦の上ではまだ秋なれど、すでに冬の気配は戸の隙間や床下から、そわりそわりと部屋に入り込み、いつの間にやら居座って、「最初からここにいました」というような顔をしている。
とりわけ、まだ夜も明けきらぬ時間にはそれが顕著だ。
寒い寒いと言いながら、褞袍(どてら)の両袖をこすりあわせ、寝ぼけ眼で降矢 弓弦は縁側の戸に手をかける。朝の到来を少しでも遅らせたい気持ちだが、同居人たちはそれに同意する気はないらしい、ニャアニャアと彼の足元にまとわりついて、朝餉はまだかと彼をせっつくのだ。
まったく――弓弦は苦笑いしていた。
猫屋敷の主人も、楽じゃない。
からりと縁側の戸を開け仰ぐと、空はまるで磨り硝子のようで、凜然と冷ややかな空気が髪をくぐって脳に、直接沁みこんでくるように感じる。ずっと頭に籠城していた眠気が、わやわやと退散していくかのようだ。
しかし弓弦の眠気を吹き飛ばしたのは、霜月の黎明ではなかった。
「えへへ……」
と決まり悪そうに会釈した日向 悠夜の笑みだったのである。
一瞬思考が固まる。
なぜ――?
見間違いかと疑ったとして、誰が弓弦を非難できよう。
まだ暗い早朝、戸を開けた彼のすぐその眼前、すなわち縁側に、悠夜がちょこんと座っていたのだ。
ワインレッドのチェスターコート姿、フェイクスエードの手袋もはめている。こんな時間帯よりは、夜が似合いそうな扮装だった。
「弓弦さんに会いたくってきちゃった……おじゃましてまーす!」
照れ隠しのように見せるその笑みが、いくらかくたびれていた。ぴんと跳ねた前髪の角度も心なしか浅い。そんな悠夜の目は、まるで夢の中にいるかのように半ばまどろんでいるのである。
けれども弓弦の五感にまっさきに飛び込んできたのは、悠夜の容姿よりも彼女のまとう甘い香りだった。
アルコールの香りだ。むっとする強いものではないものの、温室内のようなとろりとした濃さがある。
「久しぶりに会った友達とね楽しくってね、こんな時間まで呑んじゃってね」
無邪気に語ると楽しい記憶が蘇ったのか、うふっと悠夜は思い出し笑いし、そしてついには、
「ふふふっ! 私なんで来てるんだろうね! あはは!」
と、文字通りお腹を抱えて笑い出したのである。バタバタと振る両脚の先には、キャメルブーツが揃っていた。長い脚はストッキングに包まれているものの、スカートがタイトなせいもあって寒そうだ。
こんな場所に何十分いたのだろう。いや、ひょっとしたら何時間、か?
なんだなんだと見に来ていた猫たちが、外気の冷たさにわっと散っていく。
弓弦は最初の驚嘆から立ち直ると、腰に手を当てて声を上げていた。
「とにかく! こんなところにずっといちゃいけない。上がって上がって!」
やや荒い口調で室内に招きこみ、がらっと戸を閉じた。そのとき弓弦は、我知らず声を荒げていたのである。
「風邪をひいてしまうよ!」
「だって……」
「だって、じゃないよ! タブロスで呑んでたの!?」
どこにいたのか訊くと、悠夜の回答からそれが決して近場ではないことがわかった。
どうやってここまで……と言いかけた弓弦を見上げたまま、ころころと悠夜は笑って、
「歩いてー」
「歩いて!?」
「そ。友達と別れてから、あっちへふらふらー、こっちへふらふらー……っとやっていたら、なんとなくここに足が向かったってわけ? ね? これ帰巣本能だと思う?」
ところが弓弦はその問いかけに答えない。まなじりを上げて、
「悠夜さん、君に何かあったらどうするんだい!」
と、彼にしては珍しいほどの勢いで悠夜を一喝したのだった。
ひゃっ、とうなじに雨粒が落ちてきたように悠夜は首をすくめた。彼女は自分の後れ毛を手でいじりながら、
「怒らないで……」
ぽつんとそれだけ告げ、下を向いてしまった。ひんやりとした板の間は、綺麗に掃き掃除されていて塵一つ落ちていない。
何を返したものか、悠夜は言葉に迷う。
どうしたらいいのかわからない。
弓弦に怒られてしまったらどうしたらいいのか、彼女にはわからない。
「……ごめんね、でもどうしても会いたかったの」
口調は、しょげた幼子のようだ。彼女は、ただ思ったことを口にしていた。
「友達のね、町がねオーガに襲われたんだって……。大丈夫だったけど、私ウィンクルムなのに、友達が困ってたのに何もできなくってね、悲しくってね……」
思い返すだけで胸がしめつけられる。普段、神人だA.R.O.A.だと言って胸を張っているのに、知らぬこととはいえ、近い人間の窮地にすら駆けつけることができなかった。自分は無力だ、そう思い知った気がする。
悠夜の視線はやはり、板の間に当たる朝焼けを見つめたままだ。
「……弓弦さんに会いたくなったの」
と告げて、意を決したように顔を上げた。
弓弦と目が合った。
弓弦はもう、怒ってはいなかった。
いくらか決まり悪そうに、もしゃもしゃと頭をかき、ふう、とひとつ息をついてから弓弦は告げた。
「僕こそごめん、大きな声を出してしまって」
声を上げたのは悠夜が心配だったから。
もしかしたら、と弓弦は思う。
彼女は……叱られたくてここに来たのかもしれない。
だからといって、責めて何になろう。むしろ自分が与えたいものは、赦しだ。
アルコールのせいもあるのだろうけど、普段の悠夜ならば口にしない『会いたい』という素直な言葉を聞けたことも嬉しかった。
こっちへ、と、弓弦は歩き出す。悠夜を畳の間に案内して、
「待ってて、すぐ布団を敷くから」
てきぱきと寝具を整えたのだった。コートを受け取ると、
「休んだほうがいいよ」
「私、眠くなぁい」
まるで説得力のないことを言う。けれども弓弦は首を横に振ったりはしなかった。
「そうだね……じゃあ、冷えた体を暖めるだけでもいいから。入って」
「うん」
するりと悠夜は布団に身を滑り込ませた。羽毛布団だ。軽い。最初ひやりとしたものの、すぐに熱がこもって温かくなる。じんわりと良い香りがした。
寝るつもりはなかったので、悠夜は布団に入ったまま半身を起こす。
「お布団あったかい……弓弦さんのにおいがする」
「そうかな?」
弓弦はその隣に腰を下ろした。小さな黒猫が一匹、つい、と弓弦の膝に乗って身を丸めた。
「そうだよ」
「どんな匂い?」
「うーんとねえ……」
部屋の壁に目をやり、もう百年は使われていそうな壁掛けの古時計を眺め、悠夜は目を細める。
「……お日様」
「お日様?」
「そ、お日様のにおいに似てる」
「それは昨日、この布団を干したからだと思うな」
ふっと弓弦は口元を緩めた。線香の匂いとか言われなくてほっとした……ような気もする。
「それでね……」
断片的ながら悠夜は、その友達の話をはじめた。どんな店で呑んでいたかというような話も。いくつかの話では声を上げてあははと笑った。
けれども安心したためか、それとも布団の暖かさゆえか、すでに悠夜はうつらうつら、船を漕ぎ始めている。
「弓弦さん……手握ってくれる?」
悠夜は手を上げた。いいよ、と弓弦は、彼女の手を包み込むようにして握った。
「離さないでね……私を置いて行かないでね……」
すでに悠夜の目は閉じ、くたくたと布団に身を横たえていた。
「大丈夫、僕はどこにも行かないよ。おやすみ、悠夜さん」
しばらくそのまま、弓弦は動かないでいた。膝の上の猫が、大きなあくびをして降りた。
やがて悠夜が規則正しく寝息を立て始めるのを確認すると、握った手に名残惜しげにもう片方の手を重ねて、そうして弓弦は手を離したのである。
「さて……」
襖を開けると、猫たちが待ち遠しそうな顔をして待っていた。
「ごめんごめん、待たせたね」
準備をしよう。
猫たちの朝食、そして、悠夜と自分の朝食の。
●
無人に近い状態かと思いきや、まだ陽も昇らぬ早朝のスーパーマーケットには、朝の早い業界の客がそれなりに姿を見せていた。
それでも、わいわい賑わっているというよりは、皆、足早に自分の用事を済ませている様子だ。夜気の残る店内は透明度が高い。
「しかし、今日、お弁当の日だったの忘れたのは迂闊だった……」
御神 聖は、思わず出た言葉にはっとなった。愚痴っぽく聞こえなかっただろうか。生活に疲れた母親、という印象になったとしたらより悪い。そっと御神 勇を見るも、
「えへへ、24時間スーパーって、おもしろいね。夜も寝ないお店なんだね」
勇のほうはいたって平気な顔をしている。そればかりか、起きてすぐ買い物に来た、という滅多にないシチュエーションに胸を弾ませている様子だ。くりっとした大きな瞳にきらきらと、好奇心の星を浮かべていた。
内心ほっとしつつ聖は微笑した。
「面白いだろう? このお店は一日中休まないんだ」
「はたらいてる人はいつ休むの!?」
「交替で休んでいると思うよ」
「じゃあおみせは? おみせはいつ休むの?」
「休まないんじゃない? まあ、ときたま店内工事とか全面入れ替えとかで臨時休業することはあるだろうけど」
「ふーん、学校のきゅうしょくしつといっしょだね」
アイタタ……痛いところを突かれてしまった。買い物カゴを持ったまま、聖はぺたりと頭に手をやった。一本取られた。
ふっ、と聖は笑った。やや苦い笑みである。
「そう、勇の小学校は今日、工事だかの関係で給食室がお休みなんだよね」
「だから今日のお昼はおべんとう! ママはめずらしくウッカリしてたけど」
めずらしく、とちゃんと言い添えてくれているところに、勇のフォロー心を聖は感じた。勇は、同年代の少年よりずっと精神的に大人だ。
完璧な母親などいない。それでも聖は限りなく、そうあるべく努力してきたと思う。シングルマザーは母親であると同時に父親的役割も果たさねばならない。彼女の場合我が子が精霊で、自分はその契約相手つまり神人なのだからなおさらだ。家庭では保護者、A.R.O.A.ではパートナー、加えて社会人として、良き範を勇に示す義務もある。責任の大きすぎる立場だが、それでも聖はそれなりにこなしているつもりだ。なんといっても、聖以外にこの役を、こなせる者は他にいないのだ。
そんな彼女を見て育ったからだろうか。勇はときとして、ぎょっとするほど鋭い発言をすることがある。といっても、それがネガティブな印象を与えず、そればかりか耳に心地よくすらあるのは、勇の天性の明るさによるものだろう。
「通知のプリントも見てたんだけどね……まあ、24時間営業のスーパーがあって助かったよ……」
家の冷蔵庫はほぼ空だった。日付が変わってから緊急事態を思い出した彼女は、当日の弁当とついでに今からの朝食を作るべく、黎明の時刻に勇を起こし、ともに店を訪れたという次第なのだった。
冷凍食品コーナーに足を向けつつ聖は言う。
「忘れたママが悪いから、好きなおかずひとつだけ作るよ。何がいい?」
さすがにこの時間帯に冷食に用がある人はないらしく、ガラス戸の巨大冷蔵庫が並ぶ一角は深夜の水族館のように静かだ。
「好きなおかずひとつ? じゃあからあげ! 冷めてもおいしいのがいい!」
「鶏の唐揚ね、了解。できればちゃんと作りたいところだけど、弁当箱に詰めておけば自然解凍で昼に食べ頃になるやつにさせてもらうよ」
言いながら聖の頭の中では、タブレットで遊ぶパズルゲームのように、弁当箱に献立が詰められていく。
メインが唐揚げならサブは玉子焼きがいいだろう。これならさっと作れるし、火にかけている間におにぎりを握ることもできそうだ。昨晩のマッシュポテトが残っていたから、これに一手間加えるだけで、ポテトサラダに仕立てることは簡単だろう。あとは朝食のデザート用に林檎でも買っていくかな。お弁当にも入れられるし――。
聖は考えているだけではない。ちゃんと歩きながら、必要なものをカゴに入れていく。このとき、
「ママ、だいきおにーちゃんにもママのおべんとう、どうかな」
勇の発言が聖の思考を中断した。
「えっ? 大樹が? お弁当で? なに?」
意外な名前の登場に、オウム返しに聖は訊き返していた。
「おべんとうだよ、だいきおにーちゃんにも。ひとつ作るのも、ふたつ作るのもそんなにかわらないんじゃない?」
「まあそれはそうだけど……どうしてまた?」
よくぞ訊いてくれました、とばかりに勇は小さな胸を張るのである。
「だいきおにーちゃんって、いつもお昼は買って食べてるらしいんだよ」
そういえば、大樹はそんなことを言っていた。
「ママのおべんとうを食べたら、これはけっこんして毎日食べたいと思うはずだよ」
やった! とガッツポーズでも決めそうな様相の勇なのだった。自信をもってお勧め、と言いたいらしい。
「からあげなら、たくさんはいっているから二人ぶんはじゅうぶんあると思うよ。たまごだって、それ10こパックだよね? だいきおにーちゃんがぼくの3ばい食べるのでも、だいじょうぶだと思う。リンゴだって……」
どうやら聖が弁当の中身を考えている間、勇もまた、プレゼン内容を一生懸命考えていたようだ。確かに十分実現可能なプランであった。勇の言葉の節々に、露骨なまでの希望オーラが出ている。
なんと言うか、我が息子ながら営業活動に熱心だ――聖は舌を巻いていた。改めて勇の賢さを知った気持ちだ。
さらに勇はこうも言った。
「だいきおにーちゃんなら朝ごはんいっしょでもいいし」
朝、って――聖は一瞬、身を固くする。トクン、とひとつ胸の奥で鼓動がした。
――それって、かなり意味深な表現だよね……。
だがすぐに、勇が言っているのは『大樹と夜を共にした後の朝』、という意味ではなく『今朝』なのだと気がついて、聖は首をすくめている。ちょっと深読みしすぎたらしい。頬が赤くなっていなければいいが。
それはそうと、勇の熱意にはいささかのゆるぎもないようだ。仕方がない、と聖はすでに、大ぶりの弁当箱をしまった場所が、台所のどこであったか思い出そうとしている。
以前勇は、店の客が聖に言い寄ってきたとき、その彼を力の限り追い払ったことがあった。そのときもきっぱりと、『ぼくの未来のパパはだいきおにーちゃんと決まってるので、ママはダメ!!』とまで言い放ったものだ。これは勇のなかですでに既定路線なのだろう。
大樹か、と聖は、もう一人の精霊のことを考える。
まったくありえない話、とまで言うと嘘だろう。
――むしろ、他の男よりはずっと可能性はあるだろうけどね……普通にいい男だし。
それくらいのほのかな気持ちは、聖の中にもあった。
けれどそこから一足飛びに、結婚だとか勇の父親だとか、そういう未来計画を立てるのはいささか難しかった。そもそも、大樹自身の意向を確認したわけでもないのだから。
そういえば先日、『ヘルズ・ボウル』でのボウリング対決のとき、球を構えた大樹の姿勢がとても綺麗で、二の腕がきゅっと締まっていたことを聖はなぜか思い出している。それに、あのとき聖は、
『大樹は息子が懐いてる恩人の契約制霊だけど? 恋人? さぁ、どう見える?』
と敵チームのプリム・ローズに訊いてみたのだった。
あそこでプリムが『見えるけど?』と言っていたらどうなっていただろう。
それに、続いて大樹が聖を指して言った『僕が口説きたいと久々に思う人』という表現はどこまでが本気だったのだろうか……?
考えれば考えるほど、わからなくなる。
いけない、と聖は軽く自分の頬をはたいて、
「あんま噂すると、大樹がくしゃみ連発するからその辺にしとこう。今大事なのは、朝食と勇のお弁当だよ」
「くしゃみしちゃうの? だったら、この話はがまんするね」
それはいけない、という顔で勇は言った。
「おにーちゃんがかぜ引いたら、しばらく来なくなるもん、それはだめだからね」
「ふふっ、そういうこと……」
さあ、今から帰って朝食と、『二人分』の弁当を作るのだ。レジに急ごう。
●
なんだ、と真神はつまらなさそうに言った。
「この程度の部屋なれば、無償で提供されても気にすることはなかったろうに」
さほど広くない二人部屋。畳敷きながらクロークもあり、襖の向こうには縁側もあるものの、いずれも茶室のように小さくて、なんとか体裁は整っているという程度だ。四本足のちゃぶ台がつくねんと置かれており、盆に載せられた急須と湯飲みの用意もある。部屋の隅には申し訳なさそうにテレビがあったが、今どきコインを入れなければ動かない骨董品的なもののようだった。冷蔵庫と金庫はテレビの下だ。
「……いいではありませんか」
青空色の瞳で、アンジェリカ・リリーホワイトは微笑んだ。
「私、好きですよ。こういう部屋、落ち着いていて」
ふむ、と真神は咳払いする。
「まあ、畳敷きの宿を希望したのは我であるしな……どうもあの、べっどという寝床は落ち着かなくていかん」
真神は所在なさげに床の間に目をやった。掛け軸が飾られている。達磨大師の水墨画だった。ぎょろりとした目がなんとも滑稽だ。
ここは民宿の一室。受付でわざわざウィンクルムだと名乗ったわけではないのだが、アンジェリカと真神の素性は手の甲の紋章によりたちまち明らかとなり、転がるように出てきた宿屋の主人には這いつくばるように「どうぞ、お代は結構でございます」と頭を下げられる羽目となった。
なんでもこの主人はかつて、オーガに襲われたところをA.R.O.A.に救われたことがあるということだった。その恩返しということらしい。「なにとぞ無償でお泊まり頂きますよう」と主人は繰り返したのだが、アンジェリカは「ウィンクルムといっても、まだ私たちはかけだしですから……」と遠慮して譲らなかった。
しばらくつづいた押し問答を解決したのは真神だ。「まあ、気持ちくらいは受けてやってもいいのではないか」とアンジェリカに告げ、結局、彼らは少々の割引という約束で、ここに一夜の宿を得ることになったのだった。
この日は依頼の帰りだった。二人とも泥のように疲れていたので、支度も早々に床に入ることになった。
女中さんが並べて敷いてくれた布団を、真神は引っ張って壁際に移動している。
「とくと休むとするか……我も少々疲れたのでな」
「あの……」
そんなに布団を離さなくても、とアンジェリカは言いかけたのだが、真神は言葉でそれを制した。
「あんじぇの寝相は知らぬ。腕や肘をぶつけられてはかなわんのでな……」
「私……そんなに……」
途端アンジェリカがしゅんとなったのを見て、真神はやや早口で言葉を継ぐ。
「ええい、我の寝相が悪い可能性もあろうが……! さすがの我も自身が寝ておるときの動きは知らぬ。汝のような細っこい者に、拳を当てたりしてはことだからな」
「そうですか……」
「まあ、そういうことだ」
きまり悪そうに真神は頬をかいた。誤魔化すほうが誤解を招きかねん、と理解したらしく観念したように、
「一応、主も女性(にょしょう)ゆえ最低限の礼儀というものをだな……」
と言うも、どうも馴れぬ言葉らしく後半はモゴモゴと口ごもって、
「ええい、もうよかろう。寝るぞ寝るぞ!」
いささか強引に打ち切ると、床にすぽっと収まってしまった。
空気は、湿り気があって石の匂いがする。
地下室だ。
寒い。
そしてひどく暗い。
頭上、はしごを伝った先にある小さな扉からわずかな光が差し込んでいるものの、それすらも今、閉ざされようとしている。
『じっと息を潜めていなさい』
戸の隙間から言い聞かせてくれた声は、知らない声のはずなのだがとても懐かしい響きがあった。
扉が閉まった。
一切の視覚が奪われた中、扉の向こうで敷物が広げられるような音を聞いた。出入り口を隠しているに違いない。
そして静寂が訪れたが、それもわずかな間のことだった。
頭上でガシャンと鋭い音がして身をすくませる。『何か』が壊れる音だ……。
その音が繰り返される。別種の音も混じるが、それもやはり、破壊を連想させる音だった。
恐くなって両手で耳を塞いだ。
やがて音は、やんだ。
あとは、なにひとつ聞こえない。
目を開けても一面の闇だったので、アンジェリカは軽く恐慌を来しそうになった。
けれども身を起こして、テレビの上に置かれたデジタル時計の光を見出す。
夢を見ていた。嫌な、夢だった。
――あぁ……今日は、いつもより少し早い……。
まだ目覚めるべき時刻ではないものの、目を閉じるとまたあの夢に落ちゆくように思えて気が進まない。
真神の気配をうかがうも、衣擦れの音ひとつしない。彼からは寝相がどうこうという話があったが、やはりたとえ話のようだった。
床を出よう。
真神の眠りを妨げぬよう、そろりそろりと着替えてアンジェリカは部屋を後にした。
アンジェリカが姿を消して十秒とせぬうちに、真神は身を起こしていた。
彼女が気をつかったのは重々理解しているが、彼の獣の耳には、どんなに静かにしようと音が耳に入るのだった。
「むぅ……あ奴、このような時間に何処へ行くのか……」
わざわざ着替えたのだから、外へ行くのは明白だろう。
手早く身支度を終え、真神も部屋を出た。
玄関をくぐったところでふるっと身を震わせる。
晩秋といえど、早朝はさすがに寒さが堪えるというものだ。外套を着てきてよかった。
探そうとするまでもなく、アンジェリカの小さな背中はすぐに見つかった。綺麗に結った蜂蜜色の髪が、まだ星の残る空の下、弱々しい光に照らされている。
振り返れば真神に気付いたろうが、アンジェリカはそんなことはつゆとも思わず歩き続けた。
大きな都市には、24時間やってるお店があるらしい。それに行ってみたい。可能なら朝ごはんも購入しよう。
何もなかった山村にいた頃とは、大違いな生活だと思う。
今日みたいに早く目が覚めてしまったときは、助かる。
数分でたどり着いた。
「これが……?」
24時間営業なのは、コンビニと呼ばれる小規模店だという話だった。
ところがこの店はずっと大きい。スーパーマーケットというものではなかろうか。けれども『24時間年中無休』と書いてあるのだから営業中に違いない。都会は本当にすごいと思う。
おっかなびっくり自動ドアをくぐったアンジェリカの視界の端を、母子と思わしき二人連れがちらりとよぎった。
さすが都会、あんな小さな子も、平然と24時間営業の店に順応している。
アンジェリカが店に消えるのを確認すると、真神は所在なくその場に懐手したまま立った。
「あぁ、こんびにという奴か」
聞いていたイメージより大きいな、と思う。まあ色々あるのだろう。
とりあえず彼女の行き先は確認したので戻ってもいい。だが、
「この時間では、さすがに宿の食堂もやっておらんからの……」
と呟いて、真神はそこにとどまるほうを選んでいる。
ややあってアンジェリカが出てきた。提げた袋からサンドイッチなどが見え隠れしている。彼女はすぐに真神に気付いた。
「……おはよう、ございます」
驚きよりも、申し訳ない気持ちでアンジェリカは告げた。
「宿を出るときは我に声をかけよと言ったはずだが」
まぁ、道に迷った汝を見つけるなど造作もないが、とは言いつつも、真神はいくらか怒った口調だ。
「ごめん、なさい……」
真神の言うとおりにすべきだった。街中も絶対安全とは言えない時勢である。アンジェリカは頭を下げた。すると、
「まあよい。たまには早起きもいいものだろう? それは持ってやる」
真神はアンジェリカの手から荷を取ったのである。
「え? あの……」
「汝は我が主でもある……何かあっては困るのだ」
そうして彼は、空いた方の手でアンジェリカの手をつかんだ。
「帰るぞ」
「……はい」
アンジェリカは手を握り返し、小さく笑みを見せた。
「……ところで、我の分も買ってあるだろうな?」
気がついたのだ。正面を向いたまま、真神も微笑しているということに。
今は話せない――アンジェリカは思う。夢の内容はまだ話せない。
けれどそのうち、話そうと思う。
――この方に対し、恐れることはないのだから。
夢の話をするかわりに、彼女は微笑んだ。
「はい、買ってありますよ」
●
目を閉じて、開く。
ゆっくり閉じて、ゆっくり開く。
素早くすることも試してみる。
いずれにせよ同じだ。
……これはもう、眠れそうもないね。
不思議なこともあるもので、普段、ヒンメル・リカードは可能ならいつまでも眠っていたい体質なのだけれど、今朝に限っては、12時間ぶっつづけで眠った後のように、眠気の鱗粉を瞼に残すことなくすっきりと目覚めていた。
仕方がない。
起きよう、とヒンメルは大きく伸びをした。
問題は、まだ外が真っ暗だというところだ。
ようやく白々明けてきた街をゆきながら、ヒンメルはコートのポケットに両手を入れて歩いている。
見知った街、けれども、真昼や夜とはまるで異なる光景だった。
しんと静かな外気は頬に痛いほど冷たいが、不思議と不快なものではなかった。そればかりか果てしなく遠くまで、すっきり見通せるくらい透き通っている。大きく息を吸い込むと、肺の内側にも清涼で、透明なものがひろがっていくような気もした。
通りに人は歩いていない。ためにか自分の靴音がこだまして、ビルに反響しながら空に昇って消えていくように感じる。
――空が高い。
ヒンメルは、雪のように白い空を見上げた。
そして視線を戻したとき、彼は行く手に、少女の人影を見つけたのだった。
しかもそれは、よく見知った人影だった。
「おはよう一花さん」
彼が声を掛けると時杜 一花は、盛夏の海のように青い目を、驚きで軽く見開いた。
「……ヒンメルさん?」
口までぽかんと開いている。なんだか幽霊でも見たみたいだね、と、ヒンメルは可笑しみを抱く。
一花にとってそれはたしかに、目を丸くするに値する出会いだった。これまでも彼にはたびたび驚かされてきたものだが、今朝のは中でも特別だ。ここでようやく、あいさつを返していないことに彼女は気付いて、
「あ、おはよう」
慌ててそう言い加えた。
一花は竹箒を握っている。着ているのは膝まで隠れるベンチコートだ。そのファスナーの合わせ目から、下に着ている白衣がのぞいていた。
「掃除してるの?」
言われてはじめて気付いたように、一花はさっと足元をひと掃きした。
「ええ、掃除。開店前の準備ね。順番制なの」
ヒンメルはそこでようやく気がついたのだった。ここは一花の実家がやっている薬屋だと。
薬局が開くのはもっとずっと後だろうに、もうこの時間から準備しているのだ。
ふうん、とヒンメルは感心して、淡い青緑色の瞳を緩めた。
「朝から偉いね」
「そんなことないわ。誰かがやらなくちゃいけないことだし……」
「いやそれでも」
ぐるっとヒンメルは周囲を見回す。
「とてもよく掃き清められている。神社とか、そういう場所かと思うくらいに」
一花は店の前だけではなく、付近を一通り掃除しているらしい、この一角にはごみひとつ落ちていない。
「そんな大袈裟よ……」
と言いながらも、困ったように一花は右手で、桃色の髪の房をさぐるようにしていた。いつも通りのことをいつも通りやっているだけなのだけれど……照れる。
「えっと、ヒンメルさんはこれから学校?」
まだ房を触りながら彼女は言った。
するとヒンメルは、スペードのエースだと言われてめくったカードがジョーカーにすり替わっていた、とでも言うような口調で、
「学校? 学校は行ってないよ」
と肩をすくめるのである。
「だからこれは、ただの散歩」
学業は、故郷でとうの昔に修了してしまった。学校生活が何の役に立ったかと言われると答えに困りそうだが、少なくとも、役に立っていないとは思わない。
「行ってない?」
このとき一花の頭上に、白詰草で編みあげた『?』が浮かんでいるようにヒンメルには見えた。
――顔によくでる子だなあ。
ポーカーフェイスという言葉は、一花の辞書には載っていなさそうだ。
「ええと、でもヒンメルさんの年齢って……見た感じ……」
最初口に出したものの、失礼ではないかと考え直したのか、一花はあとは黙って、なにやら考え込んでいる様子だった。その間に頭上の『?』は、どんどん大きく、しかも美しくなっていくようにヒンメルは思った。
実際このとき一花は、
――こういうのって突っ込んで聞いてもいいのものなのかしら……。
と、聞きあぐね頭を悩ませていたのだった。
世の中には飛び級というものがあるんだよ、と教えてあげてもよかったのだが、あえてヒンメルは無言で微笑むにとどめ、それ以上のことを口にしなかった。
理由は簡単、一花の悩む様子が面白かったからだ。
秘密は秘密だから尊い、だからこそ、そっとしておきたい。
ヒンメルはここで唐突に、
「じゃあ」
と告げて手をひらひらと振った。黒いトレンチコートの裾がふわりと揺れる。用事があるので、というような含みを残し、風のように去るのも趣深いものではないか。本当のところは、特に行くあてはないのだけれど。
「あ、うん。じゃあ、また……」
結局一花は、彼の背を見送るしかない。
「ヒンメルさんて、謎だわ……」
そんな言葉が、ぽつりと唇をついて出ていた。
それから数分と行かぬうちに、ヒンメルは目の前に自動販売機を見つけていた。
途上でいくつか見かけたのかもしれないが、今朝、オブジェとして認識したのはこれがはじめてだった。
チョコレート色に塗られた自販機は、主として缶ジュースを販売しているようであった。さりげない差し入れにはちょうどいい。
「意表をついて温かいコーラというのも悪くないけれど……」
そんなものが本当に売られていたりする。奇妙な自販機だ。まあ、受け狙いは別の機会にするとしよう。
ふっとヒンメルは微笑んで、定番中の定番、ホットコーヒーのボタンを押した。
がたんと缶コーヒーが落ちる音を聞いたとき、一花さんってコーヒー飲めなさそうだよね――と思い、続けて熱いお茶の缶も買う。
自分は、彼女が選ばなかったほうをもらうとしよう。
いきなり背中に温かい感触があったので、えっ、と声を上げて一花は振り向いた。
「お疲れ様」
ヒンメルだった。いつの間に戻ってきたのだろう。彼はくすくすと笑って、一花の目の前に二つの缶を示した。熱源はこれだったようだ。
「差し入れ」
彼のことを考えていた。だから気付くのが遅れたわけだが、当人を前にしてそう告げるわけにもいかず、ややしどろもどろになりながら一花は言う。
「……いいの?」
「遠慮しないで」
「どこで買って……?」
「その先の自動販売機」
「ありがとう、嬉しい」
一花の正直な気持ちだ。すっかり指先も冷えてしまっていたのでありがたい申し出だった。
「好きな方どうぞ」
ひとつはお茶、ひとつはブラックのコーヒーだ。
「じゃあ……コーヒーを」
よく見かける定番の缶を一花は手にした。
受け取るとき、互いの指先が触れあう。
温かい、と一花は思った。もっと触れていたいくらい――と感じる。
冷たい、とヒンメルは思った。凍えていたのかな、いいタイミングだったね――と考える。
「意外……そっち選ぶんだ」
「そんなに意外?」
「ちょっと驚いたな」
「それなら私は今朝、ヒンメルさんに驚かされっぱなしだよ」
「だったら」
パキッと音を上げてヒンメルは缶を開けた。
「お互い様だね。驚かし驚かされ」
「そう? 私ばっかり驚いてる気がするけど」
にこっと一花は笑みを見せた。
――ほら、まただ。
ヒンメルは思う。
早朝に見る一花の笑顔がまぶしくて、なんだかずっと、ヒンメルは驚いているのだ。
「そういや……」
熱いくらいのお茶を一口含んでからヒンメルは言った。
「僕らってお互いのこと、全然知らないね」
「うん……」
少しためらったけれど、思い切って一花は言ったのである。
「……もうちょっと、知りたいかも」
「一花さんも物好きだね」
「だ、だって気になるんだもの」
その、むきになる様子がなんだか可愛らしくて、ヒンメルは声を立てて笑ってしまった。そういえばさっきも彼女は、自分の残した謎に、ずっと頭を悩ませているように見えた。
「知りたければ等価交換だよ」
こうして彼と彼女は、改めて、互いの自己紹介をすることになったのだった。
●
目覚ましが鳴ると同時に両目を開き、さっと手を伸ばしてベルを止める。
ベルが響いた時間は半秒にも満たない。
ベッドから滑り降りるとカーテンをそっとめくってみる。
外はまだ暗かった。
晩秋の太陽はまだ、その重い頭をもたげていないのだ。
月野 輝はうなずくと、爪先立ちでキッチンを目指した。
猫のように気配を消して歩く。
彼が目を覚まさぬように。
アルベルトと一緒に暮らすようになってまだ数日、同居人がいるというだけで、日々の生活がこれほど違った風に感じられるとは驚きだった。食事の支度は二人分、食事をとるのも、二人で。名を呼べばすぐ、返事のくる場所に彼がいる。今はまだ、家のルールは作製途上だが、これから調整と試行錯誤を重ねて、ひとつのペースができていくのだろう。それを考えるだけで、輝はわくわくしてくるのだった。
キッチンに入ると電灯を付ける。
おろしたてのエプロンを巻き、紐を腰の上で蝶結びにする。
服の両袖をきっちりとまくった。
この数日で輝が気がついたのは、アルベルトの朝食がひどく簡素なものだということだった。必要な栄養は採れているから問題はない、と彼は言うが、ゼリー飲料やサプリメント、あとはせいぜいパンくらいというのは、いかに無駄なく効率的とはいっても、一日の始め方としてはあまりに味気なくはないだろうか。序曲のないオペレッタのようなもので、なんとなく寂しいように輝は思う。
だから今日、輝はひそかに決めていた。
彼と自分のために、ちょっと頑張って朝食を作ってみよう、と。
きっちりと計量カップで白米の分量をはかって、ざらりとざるに開け、そこで水道の蛇口をひねる。ざるの下には大きめのボウルを置き、米を水に数秒浸して混ぜ水をシンクに流すと、そこから輝は手早く、ざ、ざ、と米をとぎ始めた。身震いしそうになるほど水は冷たいが、作業を続けているうちに血が通ってきたのか気にならなくなる。
水を二三度取り替えたのち、生米がうっすら透けて見える程度に変わったところで米とぎは完了だ。炊飯器の釜に入れてスイッチを押した。
輝としてもこれは新鮮な経験だった。独り暮らしのころは朝のご飯といっても、たいてい昨夜の残りであって、わざわざ早めに起き出して炊いたことはほとんどない。久々にやってみて、これはこれで楽しいものだと思う。
小さな鍋で湯を沸かす。味噌汁にするのだ。せっかくだから今朝は、粒状だしじゃなくて昆布で、しっかり出汁をとってみよう。
冷蔵庫からネギを取り出してとんとんと刻む。豆腐も出してきて、これは掌に置いてすっ、すっと切る。これらを湯の沸いた鍋に入れて味噌を溶いた。
「……おかずは卵焼きがいいかしら」
と言いながらもう、輝は小さなボウルを用意していた。よし、じゃあ卵は、片手割に挑戦してみようか。失敗しても目玉焼きを作るわけではないから構うまい。両手にひとつずつ卵を取って、角じゃなくて平らなところにぶつけてヒビを入れ……ぱきっ。
できた! 両方とも、黄身がぷるぷる震えるほどきれいに割れた。ちょっと嬉しい。
サラダにできそうなものは、と冷蔵庫を開けて考えていたとき、自然と輝の口元に笑みが浮かんだ。
アル、びっくりするかな――そんなことを思ったのだ。彼が眼鏡の弦をついと指で押し上げ、「驚いたな」と言うところを想像していた。
――何か、リズミカルな音がする。
とんとんとん、と気持ちのいい響きだ。キッチンのほうからと思われる。
アルベルトはベッドサイドに手を伸ばし、ケースを開いて眼鏡を取り出した。
外はうっすらと色がつき始めているが、まだ明け切ってはいない。時計を手にとって、ずいぶん早い時間だと確認する。
危険な状況ではなさそうだが、いつもと違うことだけは間違いない。
まあ、その『いつも』というのも、せいぜいここ数日のものだが――と思ったところで改めて、輝と暮らし始めたのだったな、と彼は実感した。
のっそりとキッチンに赴いて、アルベルトは電気がついていることを知った。
それに、ふわっと漂ってくるいい匂い……水蒸気がぎゅっと詰まった、空腹中枢を刺激するような匂いだった。
そうか、これは米が炊けるときの香りだ。
このとき彼は、開けた冷蔵庫をのぞいて笑っている輝の姿を見たのだった。
「何をしてるんだ?」
アルベルトが声を掛けると、ひゃっ、と輝は飛び上がりそうになった。いや実際、数センチくらいなら飛んだかもしれない。
思わずアルベルトは笑って、そして、
「驚いたな」
と、眼鏡の弦をついと指で押し上げたのである。
卵の殻に、豆腐のパック、まな板に残るネギの切れ端……調理台を見れば、彼女が何をしていたかは一目瞭然だった。
何もこんな早くからやらなくても――口元が綻ぶ。輝の張り切った気持ちが伝わってくるかのようだ。
冷蔵庫の戸を開けたままだったので、ピー、という電子音がした。ようやく輝は我に返ったように、ぱたんとこれを閉じて、
「ごめんなさい、起こした?」
まさかアルベルトが起きているなんて、そしてまさか、想像と同じポーズと言葉を披露してくれるなんて――輝は、頬が赤くなるのを止められない。
「気にしないでほしい。快適な目覚めだったよ。それにこれは……嬉しい不意打ちだな。ありがとう」
嬉しい不意打ち……その言葉に輝は、はにかむほかにない。そう言ってもらえただけで、早起きした甲斐があったというものだ。
そろそろ太陽が昇るころだ。アルベルトは窓の外に目をやって、ふと思いつく。
「そうだ、輝。今調理の手を止めても大丈夫だろうか」
「え? ええ、大丈夫だけど」
「外に出てみないか?」
「外? いいけど……」
「よし、決まりだ。だったらコートを着たほうがいい」
光沢のある髪を一度撫でつけると、アルベルトは素早く上着を取りに向かった。
誕生日にもらったコートを着て、輝はマンションの屋上にいる。
そうして手すりの前に彼と並んで立っているのだった。
風はほとんどないものの外気は冷たい。けれどもそれゆえに、ゆっくり東から伸びてくる陽射しのあたたかさ、やわらかさが感じられた。
「いい場所だろう?」
白い息とともにアルベルトは告げた。
「徹夜明けによく、一人でこの光景を見ていた」
「すごい……朝日がとても綺麗に見えるのね」
輝は目を細める。
「ああ、この時期は空気が澄んでるから特にな」
この場所からだと、ビルの谷間から上がってくる太陽の大きさ、美しさがはっきりと見えるのだった。それこそ、手を伸ばせば触れられるのではないか、とすら思えるほどに。
「あの太陽、なんだか似てる……」
ぽつりと輝がつぶやいた。
「似ている? 何に?」
「ええと……今朝、きれいに割れた卵の黄身に」
なんだか恥ずかしい気もしたが、片手割で左右同時に、卵を割ることができたことも輝は語った。
「なるほど、太陽と卵か」
ははは、とアルベルトは声を立てて笑ったのだった。
「変な発想だった?」
「とんでもない。率直で……キュートな発想だと思う」
「キュート、ね。それって子どもっぽいってこと?」
「いや、『輝っぽい』という感じかな……もちろん、誉め言葉だ」
「ふふ……ありがとう」
そうとも――アルベルトは心の中で告げる。
落ち着いた容貌のためか世間にはクールと見られがちで、それゆえについ、必要以上にクールに振る舞いがちな輝が、人前ではしまっている可愛い一面、それを今朝も、彼女は自分だけに見せてくれたのだ。他の誰にも許されていない特権とすら思う。
輝は腕をアルベルトの腕に絡めた。そして、とん、と頭を彼の肩に預ける。
アルベルトもしっかりと支えた。輝の髪は、淡いジャスミンの香りがした。
そうしてふたりは寄り添ったまま、ふたりで眺めるからこそ、いっそう輝いて見える朝日が昇りきるのを見守るのだ。
「また一緒に見ましょ」
「ああ」
アルベルトはうなずいた。
これは約束だ。いつだって、何度だって果たして見せよう。
彼女が望むのなら明日にでも。一年後でも十年後でも、もっとずっと、未来でも。
依頼結果:成功
MVP:
名前:日向 悠夜 呼び名:悠夜さん |
名前:降矢 弓弦 呼び名:弓弦さん |
名前:御神 聖 呼び名:ママ |
名前:御神 勇 呼び名:勇 |
エピソード情報 |
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マスター | 桂木京介 |
エピソードの種類 | ハピネスエピソード |
男性用or女性用 | 女性のみ |
エピソードジャンル | ハートフル |
エピソードタイプ | EX |
エピソードモード | ビギナー |
シンパシー | 使用可 |
難易度 | とても簡単 |
参加費 | 1,500ハートコイン |
参加人数 | 5 / 2 ~ 5 |
報酬 | なし |
リリース日 | 11月19日 |
出発日 | 11月25日 00:00 |
予定納品日 | 12月05日 |